18:浮かんだ容疑者


■■■苦手科目再来■■■


 一週間が過ぎても元の世界に戻っているということは無かった。男女比は狂っているし、沙矢はいるし、ついでに現在護衛として居候している魔法少女の徒凪さんもいる。もはや何が何やら。冷蔵庫から無作為に取り出した食材で調理しているかのような闇鍋感すらある。そんな状況に慣れてしまった僕も大概かもしれないが、慣れてしまえば都だ。寧ろ住み心地はこちらの方が断然良いから元の世界に戻るか迷うところである。迷ったところで戻る手掛かりは未だに何も無いのでこの逡巡に意味は無いのだが、最近はつい考えてしまう。


 地味にこの世界で初の連休だったわけだが、僕はこの週末は買い物以外で外出することは無かった。元から引きこもり気質なのはあるけど、今回に限ってはそうじゃない。

 スワンプマン。この二日間、ずっと僕の頭の中で躍っているワードだ。

 魔法少女を束ねる組織の所長である近巳さんによればスワンプマンは現在のところ害は無いらしい。基本的には生前に被害者が取っていた言動を繰り返す、高性能なAIを搭載したアンドロイドと考えてもらえればいいと言っていた。勿論有事の際に備えてリアルタイムでモニタリングをしていると話していたが、それで納得が出来るかと言えば否だ。一般人が不安にならない訳が無い。僕は一般人だ。だから努めて家に籠っていた。


 そもそも一般論として、スワンプマンとは思考実験の中での話である。怪人がスワンプマンを模しているわけじゃない。正直なところ、近巳さんの話は楽観的だ。怪人が生み出すスワンプマンに善性を期待するのは間違っている。そう思ってしまう。ただ僕は専門家じゃない。素人の見解でそう思っているだけで、近巳さんは近巳さんなりにキャリアや経験に基づいた理屈があるのだろう。素人の僕としては是非そこに期待を託したい。スワンプマンが無害なら被害は減る。沙矢から危険が減る。望ましいことだ。


 それからこの2日間で変わったことと言えば徒凪さんだ。

 金曜日にドデカいキャリーケースを抱えては二階にある母親が昔いた部屋に住み始めた徒凪さんは、割とすぐに馴染んだ。自己主張の少ない物静かな性格と、それから沙矢が気に入っているのが大きい。何もせずに居候するのは良くないと考えているようで、家事を手伝おうとしてはその度によく沙矢から強めの断りの言葉をもらっている。非常に真っ当な考えなんだけどなあとか、ちょっと同情する。徒凪さんは知らないけど沙矢は家事に強いアイデンティティを持っている。それにしても僕のみならず年上の徒凪さんにも反発する事から相当な矜持だ。


 で、徒凪さんがこの家に来たということは一つ、指し示す事実がある。


「比影くん……教科書のこのページにあります。時代背景を考えれば自ずと分かるはずです」

「あーそうだね」

「というか基礎ですこれ。基本的な中学校、いえ、小学校レベルすら怪しいのでは……?」

「だね」


 僕の返事はこの上なく空返事だったと思う。

 まあそれはよくて、徒凪さんは本当に意味で僕の家庭教師となっていた。今回の科目は日本史。

 高校時代、日本史は得点源だった。受験でも苦労した覚えはない。他科目よりはという注釈付きではあるが。それがまさかここまで苦手になるとは思わなかった。


「比影くんってこの前教えた感覚として頭が悪いわけではないので……なんでしょう。世間知らずというか、過去は現在の足跡でしかないと考えるタイプの方だったり……?」

「いやそういうわけじゃ」

「じゃあ関ヶ原の戦い、そこで戦った武将二名の名前。言えますか?」

「勿論だよ。ええと」


 素直に答えそうになって寸でのところで止まる。

 分かってる。石田三成と徳川家康だ。徳川家康率いる東軍が約六時間でこの天下分け目の合戦の勝利を収めた。常識だ。常識なのだが、こことは別の世界の常識だ。

 僕の主観からすれば結構ハチャメチャなことになっているこの世界の歴史だが、元の世界と同じ部分もそこそこある。関ヶ原の戦いもその一つだろう。ただし、流れがそうであるってだけで人物についてはかなり変容していると思われる。少なくとも石田と徳川、両名共に男じゃないのは間違いない。


「石田秀子と……徳川ねね?」

「誰ですか。その方々」


 ジト目で睨まれた。ふざけてるのかと言いたげな顔をしている。違ったらしい。


「これは分かりますよね。戦国時代の英傑の一人で、積極的に南蛮文化を取り入れていた。豊臣明子を見出し、尾張の大うつけとしても有名です」


 最早僕の知識量は小学生並みと見ているようだった。どの情報を切り取っても特定できるような有名武将である。豊臣なんたらは知らないが、まあいい、今度は素直に答えてみる。


「織田信長?」

「だから誰ですか。苗字は合ってるのに誰ですか」

「僕も同じことを思ってるよ……」


 明らかに訝しげな目になった。手元に白旗をあるなら絶対に上げている。それくらい空気が冷たい。

 徒凪さんは一頻り僕のことをジトリと睨むと、額に手を当てながら溜息を零した。


「高校の教科書だとレベルが高いみたいですね……小学校の時の教科書とかありますか?」

「うーん。多分どっかにあると思うけど」


 場所は流石に分からない。前の世界と同じなら押入れの段ボールの一つに押し込まれている気がしなくもないが、探すのは手間だな。

 そんなことを考えていたらドアが開いて沙矢が菓子盆を持ってやって来た。


「うちの兄はどうですか夢乃先輩?」

「ダメみたいです……」

「兄がおバカさんでごめんなさい」


 何故か沙矢が頭を下げる。仲いいね君たち。頭痛の種を共有するのが楽しいみたいだ。


「どうしてこんなになるまで放置していたんですか?」

「ええと、そんなにですか?」

「織田信奈すら知らないとは思いませんでした……いえ正確にはうろ覚え? 苗字だけは正答してますし」

「ええ……」


 沙矢はドン引きした。ドン引きしたいのは僕の方だ。なんなんだよこの歴史の偉人たちは。というか織田信奈ってなんだか聞いたことあるし。


「そうそう、沙矢さん。小学校の頃の社会の教科書ってありますか?」

「小学校……あ、なるほどです」


 沙矢はチラリと僕を見て納得をすると、お盆を置いて自分の部屋へと戻った。話が早いのは良い事だが兄としては非常に複雑な心境だ。それにいつの間に名前で呼ぶ関係性になってるのさ。女子の生態が分からない。

 徒凪さんは更に溜息を重ねると、決意をしたように拳に力を入れた。


「次の定期試験は11月です……それまでに出来る限りを尽くして頑張りましょう」


 僕はありもしない頭痛を感じながらはいと答える他なかった。







■■■思考を続ける■■■


 スワンプマンについて、無暗に調査をしても影すら踏めない気がしている。言動は被害者と同じで、見分ける方法はマナの残滓や微かな違和感と言っていた。魔法少女ならギリギリ気付くかどうか程度の差異で、当然僕がそれを判断することは叶わない。なので今回僕は近巳さんから道具を借りている。単眼望遠鏡の形をしたそれを、スワンプマン発見器と言った。ネーミングが適当なのは既存の技術を利用して即席で作られたからだろう。


 一度使ってみたがサーモグラフィみたいな感じだった。マナが沢山あるであろう徒凪さんは濃い赤色で表示され、反対に沙矢は薄い水色で表示された。これを使えばマナの残滓からスワンプマンかどうか分かるということだったが、ただし魔法少女や、マナを持った人間も臙脂色で引っかかるため精度は100%ではない。信頼性という意味では正直低いなと思う。


 そこで僕は仮説を立ててみることにした。

 この度の怪人には知性がある。それは臆病故にリスクマネジメントをきっかりしていて、分身体は送れど絶対に自分自身は魔法少女の前に姿を晒さないことから確かだ。


 本能で行動をするならばお手上げだった。知性があるならば予測が立てられる。

 例えばこういうのはどうだろう。

 きっとこの怪人は徒凪さんのことを脅威と思っている。汲み易いと見れば本体が出てきているはずだ。人間をスワンプマンにする目的は分からないが、邪魔されて鬱陶しく感じているのは間違いない。


 僕ならばどうするか考える。多分消耗戦に持ち込む。この怪人は真っ向から徒凪さんと戦って勝てるほど強くはない。僕なら別の手で徒凪さんを消耗させることを選ぶ。怪人の能力を考えれば精神的に追い込むことは可能だろう。スワンプマンを使えばどうとでもなる。でも徒凪さんに精神的に病んだ様子は無い。これは違うか。


 ……精神的に追い込む。いや待てよ。

 僕は考え直してみる。今、徒凪さんと仲が良い存在は誰かと問われれば、学内に限定するのであれば間違いなく僕だろう。この前は怪人が沙矢を襲ったと思っていたが、実は僕を狙っていた可能性がある。沙矢はあくまでついでだ。だから怪人はあの時囮になった僕を執拗に追いかけてきたんじゃないか。


「比影くん、お風呂次どうぞ」


 何かに辿り着きかけたその時、コンコンと部屋をノックされて、思考が中断された。

 見遣ると徒凪さんがバスタオルを巻いただけの状態でドアの外から半身を覗かせていた。気持ちの問題か、背筋に沿って整えられた銀色の髪はいつもより艶やかに見える。


「……うん」

「どうかしましたか?」

「いや、何でもない、何でもない」


 この世界の貞操観念は緩いわけじゃないけど、ふとした瞬間のこういう防御力が低いのは普通に心配になる。あと目に毒だ。沙矢相手ならともかく、徒凪さんにそれを注意するのは何だか違う気がする。


「比影くん。その……大丈夫ですか?」

「え? いや何が」


 徒凪さんが部屋に入って来て、思わず動揺しそうになった。甘い匂いが香ってくる。沙矢がいつも使っているリンスの匂いなのに、沙矢よりも大人っぽいからか平常心を保つのが難しい。

 徒凪さんは目の前で屈むと、僕の顔を覗き込んだ。


「考え込んでいる気がしましたので……」

「まあ、今後の立ち回りを少しね。僕がどれだけのことを出来るか分からないけど、可能なら早く解決したいから」


 風呂上がりの上気した柔肌を見ないようにしながら、こんな子に戦いを強いるのは間違っているなと改めて思う。やはり自衛隊がもっと頑張るべきだ。自衛隊だけに責任を求めるのも違うな。責があるのは大人全員だと思う。つまり社会全体の責任だ。社会問題としてSNSで炎上してほしいと真面目に考えてしまう。この時代はまだSNSが流行してないのが残念だ。


「比影くんと沙矢さんをこんな大変なことに巻き込んでしまって……本当にごめんなさい」

「徒凪さんが謝ることじゃないよ。徒凪さんには助けてもらってるから感謝してる。本当にありがとう」

「いえ……! 私は仕事なので!」


 頭を下げると謙遜するように徒凪さんは慌てる。


「徒凪さんからすれば仕事かもしれないけど、僕にとっては徒凪さんは命の恩人なんだ。お礼くらいは受け取ってくれると嬉しい」

「……はい。では、その、どういたしまして」


 徒凪さんははにかみながら表情を緩ませた。何処にでもいる少女の女の子だ。いつもこうならいいのに、この世界は無常だ。


「ところで、スワンプマンについてちょっと聞いてもいいかな」

「比影くんは所長から聞いているんでしたっけ?」

「うん。全部ではないと思うけど、粗方は聞いてる」


 口元が自然と引き締まる。真剣な話だ。


「徒凪さんはスワンプマンの見分けって付くのかな」

「いえ、私も道具頼りです。比影くんが持たされているのと同じものを持ってますよ」

「ああ、あの名前が雑なやつ」


 そう言うと徒凪さんが半笑いになる。ネーミングセンスに一考の余地があると思ってる点は僕と同じみたいだった。


「一応、説明しておくとあの機械はあまり役に立たないです」

「え?」

「使えば分かるんですが……多かれ少なかれマナを持った人間は沢山います。スワンプマンのマナの量は必ずしも多いわけではないので、確証には至りません」


 思わず聞き返した僕に優しく徒凪さんは言った。

 予想外というか、話が違う。でも少し考えればそうかとも思う。マナの量で明示的にスワンプマンが分かるのであればプロである魔法少女の事務局もここまで苦労していないなと考える。結局、目安でしかないというわけだ。


「ならマナを持っていない人はスワンプマンじゃないと」

「そういうことでもなくて……個体差があるみたいで。ですけどマナを持つ個体が多いのは確かです」


 何故か申し訳さそうな様子で徒凪さんは頭を僅かに下げた。

 なるほど。思ったよりもスワンプマン発見器とやらは使えないみたいだ。でも考えてみれば、もしこの機械でスワンプマンを確実に判別出来るのならただの高校生でしかない僕を協力者に仕立てようだなんて思わないだろう。


「そうだ。スワンプマンを見つけた場合はどうしてるの? まさか殺す訳じゃないんだよね」

「今は放置……ですね。無害ですし、所長からも何かする必要はないと言われてます」


 何となくだけど、意図はそれだけじゃないなとも思う。近巳さんは職務意識が強く、良識がある大人だ。子供を人殺しにさせたくないのだろう。大いに共感する。もし同じ立場なら僕も同じことを考えるだろう。全く嫌な世界だなと考えて、元の世界でも貧困国で子供兵が戦争に駆り出されている事実を思い出した。中東やアフリカの話だ。子供を拉致して洗脳し、兵士として教育した上に戦場に送るそうだ。今まで考えたこともなかったが、どの世界も一旦外に出れば儘ならない事ばかり罷り通っている。


「徒凪さんこそ大丈夫? 学校とか、もしかしたらクラスメイトにも多分、いるんだろう?」


 溜息を吐きたいのを堪えながら僕は徒凪さんの心身の健康について考えることにした。手の届かない問題ばかり考えても憂鬱になって僕には世界を呪うことしかできない。ならば手の届く徒凪さんの健康の心配をした方がまだ健全だ。


「比影くん以外に仲が良い人はいないので……大丈夫です。でもその……比影くんに心配してもらえて……ありがとうございます」


 徒凪さんはモゴモゴと、奥歯に何か挟まったように僕へと上目遣いを送る。無意識なんだろうなあと思いつつも、僕は自分の後ろ髪を思わず擦った。無性に照れくさい。


 そこで、ふと先程の思考の続きが脳内で回転し始める。徒凪さんに精神的にダメージを与える話だ。

 クラスメイト。その言葉で思い出したが、坪河さんはどうだろうか。思いついてみて何で最初に出て来なかったのが自分でも不思議に思うけど、今それより坪河さんのことが気になった。

 考えれば坪河さんはスワンプマンの可能性が高いような気がする。虐めを始めたのはそんな昔の話じゃない。いつから怪人の被害が発生しているのかは近巳さんは明かさなかったが、ここ一年であれば納得が行く。今一番怪しいのは坪河さんだろう。


「あの、徒凪さん。坪河さんってスワンプマンだったりする?」

「ええと」


 躊躇うように徒凪さんは一瞬動きを止める。


「考えたこともありませんでした……」

「今の状況で考えると、僕は一番疑わしいのは彼女だと思うんだ」

「何か怪しい点がある……と?」

「個人的な不快感以外は無いよ。友達を殴られて良い印象を持つ人間はいないだろ?」


 徒凪さんがピクリと反応する。バスタオルで自分の身体を強く締め付けるようにギュッとタオルの端を握り締めた。見なかったことにして話を続ける。


「だから、あるのは状況的証拠かな。いま徒凪さん、つまり魔法少女が困って得をする人物は怪人で違いない。その怪人を手伝うのはスワンプマンだ。幾ら害が無いとは言ってもそのくらいのことはスワンプマンにさせるに違いないからね」

「なるほど……」


 納得が行ったような、行ってないような、中間色の表情を徒凪さんは浮かべた。


「坪河さんがスワンプマンなら徒凪さんに、精神的苦痛を与えても納得が出来るんだ。だから怪しい。もしもそうならきっと、怪人本体に最も近いスワンプマンだと思う。いや……可能性は少ないけど下手をすると怪人本体の可能性すらある。スワンプマンは元になった人間の行動を繰り返すだけ、坪河さんの行動はそうじゃない。スワンプマンを何処まで動かせるかによって変わるねきっと。ここまで全部推測でしかないけど理屈は通ってると思うよ」

「……でも、坪河さんには私を誹る理由があります」


 犯人として逮捕された母親のことを擁護したことだろうか。でもそれにしても違和感が生じる。


「だとしても、期間が合わなくないかな」

「期間……?」

「徒凪さんには申し訳ないんだけど、坪河さんから或る程度事情は聞いたんだ。徒凪さんの母親が父親を刺したって」


 思ってもみないことを言われたみたいに徒凪さんは顔を硬直させて、その状態で視線を僕から外した。部外者の僕は切り出すのは大変心苦しいが、今となっては大事な話だ。


「事件があったのは去年って聞いたよ。でも坪河さんとこうなってしまったのはそんな前からじゃないよね?」


 勿論僕は徒凪さんが何時から虐められるようになったのかは知らない。でも考えてみれば一年前の話じゃないように思える。

 徒凪さんはこの前、僕が夏前に徒凪さんが虐められていること所を目撃していると証言していた。多分夏休み前、七月だろうと思う。徒凪さんの口ぶりからすると、僕が現場を見た最初はそれだと思われる。そして今から一週間前、つまり九月に今の僕が目撃して止めに入った。その間の二か月は夏休み期間が含まれるわけで、実質一カ月に二回僕は現場をみていることになる。同じクラスである僕がその頻度で目撃している時点で、一年前から虐めが起こっているとは考えにくい。


「坪河さんが徒凪さんに敵意を剥き出しにしたタイミングと、怪人がこの町に現れ始めたタイミング。多少の前後を考慮して、例えばどちらも一カ月以内だったりしない?」

「……はい」


 徒凪さんの眉間に皴が寄る。


「でも坪河さんがスワンプマン……信じられませんけど……でも可能性は……」

「確かめようよ。僕が手伝うから」


 小声でぶつぶつと言い始めた徒凪さんに向かって僕は言い切った。中途半端なことはしたくない、そう思った瞬間から僕の腹積もりは決まっていた。


「違ってたらごめんなさいって言うさ。僕は頭を下げることには慣れていてね」

「比影くん……」

「徒凪さんはどうする? 僕は一人でもやるからね」


 口にした後で半ば聞き分けの悪い子供に強弁を放つ大人みたいなことを言ってしまったなという一抹の後悔が走った。でもそれくらいに僕は本気でもある。徒凪さんが来ずとも僕は坪河さんへ詰め寄ろうと考えている。吉と出るか凶と出るかは分からない。でもその結果の責任は僕が取りたいなとか思った。徒凪さんには取らせたくない責任だ。


 徒凪さんはゴクリと唾を嚥下した。床を見て考えている。徒凪さんが何に悩んでいるかは分からない。でも今回ばかりは知ろうとも思わない。多分抱いている懸念や疑懼は徒凪さんが自分で悩んで折り合いを付けないと駄目なタイプの感情だと僕は思った。

 1分くらいして、僕に強い意志が宿った瞳が向けられた。


「わかりました。私も行きます……!」

「うん、じゃあ一緒に行こうか」

「はい……!」


 決意が固まったようだ。一応徒凪さんへ話した内容は筋道が立っているとはいえ、仮説は仮説でしかない。どんな結末になるか、そこは未来の自分に期待しようと思う。頼んだぞ未来の僕。

 そんな些末な願掛けをしていれば、徒凪さんの唇が戦慄いた。僕の右手を両手で優しく包み込む。


「その……ありがとうございます。頼もしいです……本当に強いですね比影くんは」

「強くなんてないよ」


 ただズルをしてるだけだ。思わず心中でそう零す。


「強いですよ……こうして得体のしれないスワンプマンに立ち向かえるんですから。でも危ないことはしないでください。何かあったら私でも守れませんから……この前みたいなのはこれっきりでお願いします」

「善処するよ」

「する気、あんまりないですよね?」


 僕は肩をすくめた。徒凪さんがむぅと頬を膨らませる仕草をする。お互いの顔を見て、笑みが弾けた。ホントに徒凪さんのことは大事にしたいなと内心で考えた。

 すると、階段を上がる音が部屋の外から聞こえてきた。


「お兄ちゃん~徒凪先輩がお風呂出たみたいだからサクッと次を……」


 僕の部屋のドアをノックせずに沙矢がガバリと開ける。多分、中々風呂に入らない僕とリビングに来ない徒凪さんを不思議に思ってやって来たのだろう。でも情勢が悪い。非常に良くない。

 僕は良い。普通に部屋着だ。でも徒凪さんはどうだ。バスタオルを一枚巻いただけだ。更に今の僕と徒凪さんの距離は非常に近い。パーソナルスペースを互いに共有している状況だ。自分で思うけど傍から見たらこれは倫理的に不味い。青少年教育に反している構図じゃないか。


 沙矢もその様子を見ると3秒間フリーズして、徒凪さんを指差した。徒凪さんは目に見えて狼狽えている。


「徒凪先輩……信じてたのに」

「ち、違うんです沙矢さん……これは誤解で……」

「お、お兄ちゃんを簒奪するならその前にこの妹を倒してから奪うんだね!」


 などと捨て台詞を残して沙矢は走って部屋から出て行ってしまった。倒せと言いつつ逃げるとかメタルスライムなのかな。そのまま物凄い音を立てて階段を下る音が聞こえる。


「待って沙矢さん……! 誤解を解かせてください……!」


 徒凪さんもすぐさま沙矢の後を追う。今気付いたが、この世界の事情を考えれば沙矢からすると僕が徒凪さんに襲われていたように見えたのだろう。となると、自分がどう見えているか分かっていなかった徒凪さんは意外に天然の素質があるのかもしれない。


 何はともあれ、締まらないなあ。

 僕は再び静かになった部屋で溜息を零すと、浴室に行くために寝巻を手にした。




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