8:学力の問題


■■■趣味の痕跡■■■


 今朝方気付いてからずっと脳裏で引っかかっていたが、この世界の僕は本当にオタクだったのだろうか。


 いや、現状において割とどうでも良い疑問だということは分かっている。オタクだったかどうかの情報で僕の取る行動が変わるかと言えば否で、あるのは純粋な好奇心だけだ。判断材料にもならない。


 それでも確かめることに決めたのは沙矢と共に帰宅して、少ししてから部屋で高校の教科書でも見ようかと本棚に目を移した時だった。ラノベも漫画も大半が一般向けの小説や哲学書に七変化したこの本棚は、僕にとって切っても切れない異物感がある。口元に出来たニキビみたいなものだった。


 朝は時間が無かったら流して、帰宅した後も敢えて見ないフリをしていたけど限界だ。一応若年期の僕のアイデンティティの根幹を構築してきた物たちで、気にならない訳が無い。


 まずラノベを手に取ってみた。特に言及する点も無いSFファンタジーものみたいだ。表紙でエルフっぽい美少女が宙を舞っている。パラパラと捲れば、僕が青春時代通ってきたラノベと似通ってるなあという感想を抱く。剣と魔法だし、チートだし、ハーレムだ。一点物申すならテンプレートな異世界系ラノベを悉く踏襲しているこの作品はネット小説で探せば類似品が沢山出てきそうな気がする。でもそうか。ネット小説か。


 100回は読んだ記憶があるような設定に内容も特に面白みも感じなかったので本棚にラノベを戻し、今度はインターネットに浸かることにする。アマゾンにアクセスしてライトノベルで検索すれば表示候補が大変な数出てくる。でも少し様子がおかしい。美麗な少女が装丁に印刷されたラノベよりも美男子が一面で壁ドンしたりニヤリと笑っていたりする本の方が多い。


 少し呆然として、そうかと僕は合点がいった。

 あまりにも当たり前の話だった。女性人口が男性人口を遥かに上回ってるんだから読者層のマジョリティーも女性になる。女性向けの作品が多い理由は正しくそれだろう。それに女性がラノベに限らず、創作物にハマりやすい下地もこの世界にはある。男と実際に恋愛して結婚出来る確率は前世比で言っても大いに低いに違いない。結婚市場からあぶれてしまう女性が殆どのはずだ。俗的な世論的として恋愛結婚など御伽噺だと諦観が漂っているかもしれない。それを踏まえれば二次元に逃避しやすい環境が整っているのは明白だ。この世界ほど深刻でないけど前世でも似たような男は沢山いたわけだし、理解できる。


 つまりは男性向けのライトノベルは非常に希少であるということも何となく察せられた。試しにハーレムを検索条件に含めてみる。前世で言う逆ハーレム作品ばかりがヒットした。ややこしい。逆ハーレムに文言を直して再検索。すると数十件だけ出てくる。そこには僕の本棚に収納されたライトノベルの表紙も表示されていた。全然冊数が無いな。僕が知っているような有名作品も軒並み姿を消している。ちょっと物哀しい。


 次にネット小説サイトを見てみる。どうにも小説家になろうは僕の世界よりも賑わっていないようで、作品数が無い上に、やはりどれも女性向けだ。それでも人気のある男性向け作品はきちんとブックマークをしている辺りこの世界の僕も抜け目がない。

 代わりに女性向けと言えばと思ってアクセスした魔法のiランドは想像以上に盛況だった。ホームページからしてアニメ化だのドラマ化などマルチメディア的に成功を収めている作品の名前が大々的に躍り出ている。単純な母数の差だと思った。男女関係無いオタク人口で言っても僕の世界より多い可能性がある。それだけ供給も多いから優秀な作者が雪崩れ込んだのだと僕は推測した。


 ってことは、秋葉原も相当変化してるのでは。

 流れるような操作で電気街の歩行者天国をGoogle Earthで見てみる。想像通りの光景が繰り広げられていて、言うほどの思い入れも無いのに少し凹んだ。

 街頭広告は全て男性キャラクターのもので、行き交う混雑もほぼほぼ女性だ。偶に男もいるものの、服装からして買い物目的ではないように見えた。オタクの無頓着さが無かった。2013年なら秋葉原もまだ訪問客のガラパゴス化が始まる前だっただろうし、この大通りに土日の私用で来る人間は大抵オタクだ。残りはビジネスと怪しいマルチ勧誘員だろう。秋葉原の裏側である昭和通りはビジネス街として多くの会社、主にITシステム関連の会社が軒並みを連ねていた。それとマルチ勧誘員はアレだ、画廊のやつ。最近は聞かないけどこの頃なら最盛期とは言わずともまあまあの数がいたと聞く。あと宗教なんかもあったような。僕はあまり足を運んだことが無いからどれも詳しくはないけど、アニメショップで孤独なオタクに話しかけてそのままカルト宗教の手籠めにしようとする悪人がアキバには蔓延っているらしい。この世界でもオタクは悪人に搾取のターゲットにされているだろうか。想像して嫌な気分になった。

 

 取りあえず秋葉原には行かないことに決めて、パソコンから離れる。

 知りたいことは知れたけど収穫的にはマイナスだった。二次元から程よく距離を置いていたつもりだったけど、存外僕はまだ二次元に依存していらしい。自分でも驚きだ。


 ……でも良い機会かもしれない。これを機に二次元をきっぱり断捨離して、新たな自分を始めるというのも。


  無理矢理前向きな考えへと持ち直した僕は、気を取り直して高校の教科書へと手を伸ばした。






■■■高等教育の難しさ■■■


 勉強を始めて程なくして僕はギブアップを宣言しかけていた。時計を見詰める。開始から30分しか経っていない。それにも関わらず僕の脳味噌は熱暴走が起きたパソコンの旧排気口の如く熱が籠っていた。そろそろブルスクになるかもしれない。


 原因は二つあった。

 一つは僕が最後に勉強したのが大学時代(しかも事実上2カ月しか通っていない)ということ。もう一つは手に取った教科が僕の知らない歴史たっぷりな日本史だったこと。


 勉強の習慣なぞとうの昔に吹っ飛んだ。その状態で既存の知識が一切通じない新たな知識を詰めようとすると、笑えるくらい理解が捗らなかった。選んだ教科もまあ悪い。まずは先頭から読もうとして、見出しに縄文時代という言葉があることに安心した。だが青森に三内丸山遺跡は存在せず、大森貝塚は目黒貝塚として名前と場所を移転させていた。こんな調子だと気が狂うと思った僕は古代を諦めて僕の世界と共通点が多い傾向のある現代へとページを進めるが、あまり変わりはない。多少は知っている単語や概念はあれど、郵政民営化は起きなかったり2009年に民主党が勝ってなかったりと、それはもう頭をぐちゃぐちゃにされた。あべこべすぎる。


 ぐちゃぐちゃにされた頭で、間を置かず別の教科を勉強すべきじゃないかと考えた。鉄は熱いうちに打てという習わしに従う形である。習わしなんだろうかこれ。まあいいか。


 迷うことなく現代文を選ぶことにした。現代文なら要点に変化はないだろうし勉強の馴らしに丁度いい気がする。

 今度は教科書じゃなくて問題集を手に取った。僕は文系だったが、現代文の教科書を用いた勉強の仕方が分からなかった。僕は自慢じゃないが他に得意科目が無かったから、日本語の読み書きが得点源になってしまう現代文が必然的に最も点数が良かっただけの人間で、国語が群抜けて得意という訳でもない。寧ろこの人生はずっと人の気持ちを全然慮れないことばかりだ。本質的には不得意かもしれない。


 センター試験形式の四択問題だった。小説を読んで問題文を咀嚼し、答え合わせをする。良い感じだ。20分くらいで終わることが出来た。

 久しぶりの現代文だったが何とか8割方正解することが出来た。国語は変わらず得意なようだ。多分次定期試験を受けても赤点は取らないだろう。一先ず安心といったところか。


 しかし、それを帳消しにするように他教科はボロボロだ。何をどう手を付けて良いやら。頭を抱える。


 あまりにも大きく過ぎる壁に絶望を感じていると、沙矢から晩御飯が出来たと言われたのでリビングへ降りる。

 今日はハンバーグだった。お兄ちゃんのために愛情込めて握って焼いたからねと胸を張っている。焼いたら脂と一緒に愛情も飛びそうだねと軽口で返したら何故か睨まれた。これでも国語は8割取れたんだけどな。


 これまた手作りのデミグラスソースが掛けられたハンバーグは口の中で肉汁が弾けて美味しかった。箸が米へと進む。

 だが美味しい家庭料理を食べながらも頭の一部には勉強のことが残っていた。不安からか味が少しずつ薄くなってきて、卓上の中濃ソースに手を伸ばそうか迷う。


「お兄ちゃんどうかしたの? 美味しくなかった……?」


 対面から僕の顔を覗いた沙矢がそう問いかけた。表情が険しくなっていただろうか。不安そうに宝石のような緑の瞳が揺れている。


「いや、美味しいよ。こんな料理が上手な妹がいて僕は幸せ者だよ」


 僕は安心させるように笑みを浮かべた。僕を見た沙矢はホッとした表情をして束の間、少し訝しげに「ん?」と言った。


「なら何でそんな顔してたの?」

「ちょっと学校の勉強がね」

「あぁ~」


 心底納得しましたと言いたげな声だった。次には「実際頭悪いからなー」とか言いそうなほど納得が詰まっていた。


「お兄ちゃん頭悪いもんねー」

「そこまで言わなくてもよくない?」


 本当に言われてしまった。前の僕もおつむは良くなかったらしい。世界が変われど僕は僕ということか。


「わたし、勉強教えてもいいよ?」

「自分の勉強を優先して良いんだぞ」

「いやお兄ちゃんに心配されるほど成績わるわるさんじゃないよ!」

「流石に無理があると思う。学年が違うって。僕は高2、沙矢は高1。そうだよね?」

「お兄ちゃんは高校1年の分野を完全に理解してるの?」


 本当に不思議そうな顔で聞かれて僕は何も答えられなかった。口が裂けても理解しているなどと言えない。

 沙矢はそれを見越していたに違いない。何故か嬉しそうな顔をしてうんうんと頷いた。


「決まりだ! わたしがお兄ちゃんの勉強見るから!」


 さては僕に反論は許されていないな。楽し気に宣言を打ち上げる沙矢に思わずそう思った。






■■■妹に教わる■■■


 食事と入浴を済ませると、早速沙矢が僕の部屋へとやってきた。


「久々にお兄ちゃんの部屋にちゃんと入ったな~意外と片付いてて偉いじゃん!」

「何で上から目線……」

「わたしが家事をしてるからだけど?」


 そういう沙矢は天真爛漫な目をしていた。何も言えない。過去に戻ってからの2日間、掃除に洗濯に炊事にと沙矢に任せきりなのは本当で、これまでも同じだったのだろう。


「今後は僕も手伝うよ。朝ごはんとかゴミ出しとか、そういうのは出来るから」


 罪悪感を覚えた僕は考えるよりも先にそう申し出た。妹に全部任せきりとか、それは無いだろうと思ったからだ。世間一般の兄妹の事情を僕は知らないけど、常識的に考えて妹はメイドでも家政婦でもない。二人暮らししているんだから家事くらい分担すべきだ。


 良かれと思って提案したことだったが、沙矢はその申し出にショックを受けたように表情を凍らせた。さながら何を言われたか分からない、みたいな顔だ。


「いやいやいいって。お兄ちゃんはまずは勉強しなきゃでしょ?」


 しかしすぐに明るさを取り戻した様子から僕は気のせいかと判断した。実はこれが沙矢の根幹に触れた瞬間と知ったのは少し後のことで、勉強に集中していた僕は知る術も無かった。

 沙矢のフリーズをスルーをした僕は、それでも内心で家事くらいは手伝おうという内なる意思を固めつつ、沙矢の言葉に頷く。


「分かってるよ。僕も赤点は嫌だからやることやる」

「うんうん」


 僕の仕草をミラーリングするように頷く満足そうな沙矢が印象的だった。どんだけ僕が勉強することに充実感を感じているんだ。小一時間くらいこの世界の僕を問い詰めたい気分になった。


 勉強を始めることにした。差し当たって、沙矢には数学を教えてもらうことにした。高校数学は数ⅠAと数ⅡBと数ⅢCの六つの領域(数Cについては卒業後に消えたらしいが理系じゃないのでどうせ関係無かった)で構成されている。その内僕が勉強したことあるのはⅠAⅡBで、高認試験はともあれ受験にはそのどれも使用していない。何が言いたいって全部ヤバいということだ。


 沙矢は数ⅠAしか履修してないため、まず数ⅠAの教科書から章末問題を各分野毎に数問ピックアップしてきて、それをノートに書いて渡してきた。受け取るときに良い匂いがふわりと流れてきて、慌てて僕は意識的に反応しないようにしながらノートの中身を見る。自室に女の子を招き入れるのは人生で初めてだから無意識に意識してしまったのかもしれない。年齢的にも血統的にも良くない。気を付けないと。


 机に向かってカリカリと問題を解き始める。背後のベッドにぽすんと座った沙矢から制限時間は10分と告げられたが、全体を軽く見渡した時点で多分無理だなあと確信した。全部で8問だったけど全然分からない。いや、1問だけ分かりそうなやつがある。確率の問題だ。これは契約社員として就職活動をするときに筆記対策でSPIを勉強して、そこで確率の分野もあったからちょっと覚えている。もう忘れたけど頑張れば解けそうだ。


 他は潔く諦めることとしてその1問は頑張ろう。そう決心した僕はそこに集中することにする。雨垂れ石を穿つとはこのことだった。


 幸い7分で解けた。次に解くべき簡単そうな問題に目星をつけて急いで着手する。計算式を3行ほど消したり書いたところでキッチンタイマーのけたたましいアラーム音が響いた。10分は短いな。うん短い。


「答案見せて、お兄ちゃん」


 僕は黙って差し出した。首吊り台に順番待ちで並ぶ中世の犯罪者の気分だった。

 ニコニコと愛嬌たっぷりだった沙矢は、僕の答案によって次第に無表情へと変化させる。


「雑魚すぎないお兄ちゃん……全部違うんだけど……」


 最終的に沙矢に残ったのは哀れみだけだった。それは浮浪児を見下ろす貴族が抱く無機質な同情に近いかもしれない。何か心臓にヒヤッとした冷たい手で触られたような感覚が走る。

 ホントに、確率すらあってないのは予想外だ。文系科目だけで赤点免除させてくれないものか。文系も殊更優秀なわけじゃないから無理か。


「これから沢山勉強しようね、お兄ちゃん?」

「はい……」


 怖い目をして言う沙矢に、項垂れながら肯定の言葉を返すことしか僕は出来なかった。



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