9:3日目の朝



■■■家事見習い■■■


 僕は翌朝から本格的に家事を手伝うために動いた。妹ばかり頼るのは兄として駄目だろうという昨日の認識を行動に移したのだ。正に有言実行である。別に口にして言ったわけじゃないけど、気持ち的にはトートロジーだと思っている。


 まず朝のゴミ出し。本日火曜日はなんだったかなと冷蔵庫に張り付けられたごみ収集日カレンダーを確認して、可燃ごみなので家中のゴミを市の指定ゴミ袋へと流し込む。全て回収して残りは沙矢の部屋だけとなったが、さしもの僕でも勝手知ったる実家とはいえ異性の部屋に不法侵入する度量はなく、白旗を上げてそのままゴミ収集スポットへ運ぶことにした。ゴミ捨て完了。


 続いて朝ごはん。これは昨日と同じで良いと思う。我が家はパン食だ。食パンをトースターで焼いて、お湯をその間に沸かす。少し待ち時間が出来るからその間にテーブルを拭いたり身の回りの整理整頓もこなしておく。一人で住んでいた頃はここまでやらなかったが、沙矢がいる今はやっておいた方が良い気がした。


 片手間で卵を二個割って焼き始める。目玉焼きを作るつもりだ。そっちが完成する前に先に食パンが焼きあがり、同時にトースターから跳ね上がる。それを手に取ってプレートの上に並べると目玉焼きも良い感じに白身が固形、黄身が半熟となった。素晴らしい、今日はSRの焼き加減だ。フライ返しで掬ってパンの横に添える。冷蔵庫からヨーグルトを出して小鉢に盛るのも忘れずに。

 お湯も丁度いいタイミングで沸いた。火を止めて魔法瓶に注ぎ込んで、魔法瓶をリビングテーブルに置くと僕のコップにそのまま注いだ。白湯である。紅茶やコーヒーも好きだけど、結局健康状態を最もよく保つなら白湯が一番だ。年齢を重ねて身体で覚えた僕なりの知見だった。沙矢は何を飲むんだったか。昨日は冷たい牛乳だったし、ならまだ持ってこない方がいいな。


 朝食をテーブルへ配膳し終えると、満点のタイミングでリビングのドアが開く音。沙矢が起きてきた。

 眠そうな眼を細い指で擦りながら欠伸をすると、パチパチとテーブルの上を見て瞬きさせた。これ以上ないほどキョトンとしている。


「お兄ちゃん……今日もご飯作ってくれたの?」

「うん。いつまでも沙矢に負担を掛けちゃダメだと思ってね、出来ることから手伝うよ」

「これからもってこと?」

「当たり前だよ」


 こうした方が沙矢も自分の時間が出来て嬉しいと思ったんだけど、違ったのか。いつもの笑顔が奥に引っ込み、すんとした表情に、どこか焦点の合っていない瞳。昨日とやけに反応が違うなとか思う。驚いているという様子でもない。また僕は何か見えない地雷でも踏んだのだろうか。

 何かを探すようにキョロキョロして、沙矢は口を開く。


「……あ、そうだ。今日は可燃ゴミだもんね、捨てないと」

「それもやったよ。でもごめん、沙矢の部屋だけは入ってないからゴミを捨てれない」

「それもやったの?」

「えっと、そうだけど……僕は何か不味いことをしたかな」


 再度確認された僕は思わず沙矢に問い返した。沙矢は何を言われたのか分かっていない風に見えた。たった三日だけど、こんな沙矢は初めて見る。


「ううん……別にそういう訳じゃないけど……」

「今後は夕飯も、毎日は大変だからローテーションで僕も作ろうかと思ってるんだけど」

「へー……流石真人間になったお兄ちゃんだ……」


 真人間がどうこうの後、ぼそっと何かを呟かれた気がした。でも小声過ぎてほぼ吐息みたいな声量で、何を言ったかは聞き取れなかった。


「そんなことより食べよう。丁度できたばかりなんだ。牛乳持ってくるからそこで座ってて」

「うん……ありがとねお兄ちゃん」


 キッチンで冷蔵庫を開けながら沙矢の方をチラリと見る。

 なんというか、唐突に生気が枯れてしまった。そんな表現が正しい気がする。


 やっぱり沙矢のことが分からない。女の子だから、他人だから、思春期だから。そう並べて言い訳をして反吐が出た。僕はこの世界にいる限り沙矢のことを家族として見なしたいと、そう思っている。理解を諦めるのは違うだろ。

 沙矢の事情を知りたい。問題があるなら解決したい。これはニートからしたら贅沢な願望なのだろうか。


 気付けばまた悩みが増えている。それもこの世界特有の事情だとか時代に起因する事情だとか、環境要因ではない。人間関係の問題ばかりだ。本当に僕は対人能力に欠けているらしい。反省したいが、どう反省すればいいかの検討すらつかないでいる。

 頼れる大人がほしい、切実に。親はあまり信用できない。それ以前にこの世界ではどういう関係性に落ち着いているのかも分からないか。別居中なのは確かだと思うが。


 無いものねだりが癖になりそうな気がして、僕は胃が重くなった。







■■■純粋さ■■■


 沙矢とは言葉も少なく再び下駄箱で分かれて、慣れないクラスに足を踏み入れる。

 学校では昨日と引き続き肩幅が狭かった。僕は出来るだけ目立たないように身体を小さくして、なるべく動きのないように心がけたのだが、一番後ろの席である時点であまり意味はなかったかもしれない。


 結局一定の視線は浴びつつも授業は乗り切った。乗り切ったのだろうか。授業自体は依然として理解不能に陥っているから乗り切れてない気がする。


 10分休憩の時間は徒凪さんへ話しかけることを心掛けた。昨日と違ってやる事も無かったし、いじめっ子への牽制でもあった。


「先生、私トイレ行きます」


 3限目の終わり際、徒凪さんはピンと手を挙げて滑舌の良い凛とした美声を披露した。多分僕が聞いた徒凪さんの声の中で最もお腹から出した声だった。言ってることはトイレだけど。


 案の定というか、堂々たるトイレ宣言をして教室から出て行った徒凪さんの行動をクラスメイトはクスクスと笑っている。度々徒凪さんはそうすることがあるようで、それを揶揄するような汚い言葉すら飛び交っていた。あんまり気分は良くない。恐らく僕も高校時代浮いていたからだ。虐められている訳じゃなかったけど、何か変なことをすればそういう風に笑われて、ああ蔑まれたんだなと感じることもあった。せめて僕は徒凪さんの味方でいよう。


 徒凪さんのトイレは長かった。3限の終わり際に出て行って、10分休みを挟み、4限の半ばに帰ってきた。大体50分くらいだろうか。トイレというには長すぎる。まあ嘘だな。当たり前だけど。


 戻ってきた徒凪さんを見ると、何だか少し疲れた様子だ。取り繕ってはいるけど制服のYシャツの胸の襟が曲がっていて、Yシャツ自体にも皴が若干先程よりも増えている。徒凪さんのイメージ的にはそぐわない。容姿が良いのもあるけど、身なりは結構気を付けている印象があった。


「徒凪さん、さっきはどうしたの?」


 4限が終わった後の昼休み、僕は徒凪さんに声を掛けてみた。

 徒凪さんは振り返ると、少し腹立たしげに拳を握る。


「何でもないですけど」

「ならいいんだけど……お昼ご飯一緒に食べない?」


 そう言うと呆気に取られた視線を僕へ投げかけた。気になったから聞いただけで、しつこく食い下がろうだなんて思ってない。

 

「その、もっと聞かれるかと思いました……」

「興味が無いわけじゃないよ。でも徒凪さん、嫌そうだったでしょ」

「まあなんというか……聞いてほしくはないですけど」

「そうだよね。お昼、一緒にどうかな?」

「比影さんなら……はい」


 控えめに頷くと、徒凪さんは机と椅子を180度動かして僕の机とくっ付けた。思わず徒凪さんの顔を僕は見返してしまう。高校生になってからは机をくっつけ合う機会なんてなかった。思い返せば中学が最後だ。給食の時に班で食べるからと、6人で机の島を作っていた。大人になってからは懐かしいなんてもんじゃない。

 でも真正面に移動した徒凪さんはそうするのが当然という素振りで弁当箱を取り出している。そんなもんだったっけ学生時代。中学まで強制だったから、高校生は子供っぽいとか言ってやりたがらないもんだと思ってた。それか子供っぽいのは男だけだったか。


 一人でそう納得して、僕はスクールバックから通学路の途中で買った菓子パンを取り出した。通学路にコンビニがあるのも僕の知っている世界と変わらなくて助かる部分だ。


「菓子パン……ですか」


 徒凪さんは僕の昼食を見ると、身体に悪い添加物たっぷり入っているんですよねと語りたげに少し目を細めた。


「節約だよ、節約。菓子パンは安いし飽きないから」


 高校生の僕は昼ごはんに使う金を全て二次元に注ぎ込んでいた。必然的に昼食は安く、健康にちゃんと悪い菓子パンばかりになる寸法で。でも考えてみれば今の僕は二次元への情熱も薄い。そもそも男性向け二次元作品自体が少ない。ならもうちょっとちゃんとした食べ物を買った方がいいな。完全に無意識で昔の行動をトレースしてしまっていた。


「あの、止めた方が良いと思いますよ」

「そうだね。次からやめるよ」

「あ、え、はい」


 返事が予想外だったからか慌てたようにあわあわと徒凪さんは返答した。これは僕が悪い。自分から振っといて梯子を外せばそうなる。ごめん。


「お弁当ではないんですね……」

「そうだね。毎朝作る余裕もないからどうしてもコンビニ頼りになっちゃうのはあるかも」

「自分で作ると……ご家族は忙しいんですか?」

「うん」


 躊躇なく嘘半分の答えを返す。父は確かに海外にいるから忙しいだろう。ただ母は家から出て行っているからどうだろうか。最後に逢ったのも相当前だし、考えたことも無い。


「まあ僕の親は仕事でいないから一人暮らし……じゃなくて妹と二人暮らしと考えてもらえれば」

「なるほど?」


 徒凪さんは僕の言い間違えの部分で反応が鈍くなったが、複雑な事情があるのだと解釈した顔をして頷いた。


「徒凪さんはそのお弁当、もしかして自作?」

「はい……とても手抜きですが」

「そんなことないよ。弁当を作るの、結構面倒くさいから作れるだけ偉いよ」

「いえ、いえ……」


 自分の描いた絵を見られたみたいに徒凪さんは弁当箱を手で隠した。

 手抜きとか言っているけど、中身は普通にちゃんとしている。小さめの弁当箱の中には、タコさんウインナーとか、卵焼きとか、肉団子とか、ほうれん草の胡麻和えだとか。おかずの種類が盛りだくさんである。それに一見すれば肉団子以外は手作りっぽい。これで手抜きなら全国の母親は店で作る料理並みのおかずを弁当に詰めていることになる。


「でも本当に弁当作るのは大変じゃない?」

「さっき比影さんも言っていたのと同じで……節約なんです」

「そうなんだ」


 複雑な感情を織り交ぜた顔をされて、僕は何も言えず相槌だけ打った。嘘は言ってないけど本当のことも言ってない気がする。家族が仕事で忙しいか、家庭環境に問題があるのか。気になる。でも人様の家庭を根掘り葉掘り聞くのは気が引けるし、モラルが無い。

 変な空気になってしまったと思ったのか、徒凪さんは明るい表情を作った。


「悪い事だけじゃないんです。弁当を作るのは、意外に楽しいですよ」

「けどそんなにおかず作るなら早起きするの大変でしょ?」


 チラリと覗き見る。多様多種なおかずは健康バランスがとても良さそうだ。

 徒凪さんは小さく頷く。


「料理の修行なんです。それに私はいつも夜9時に寝てますので……」

「早いね」

「数少ない特技、かもしれません」


 自分の発言を疑問に思ったのか、小茶な声でそう呟いた。そこは断定しても良いと思うけどなあ。学生で早寝早起き、結構なことじゃないか。僕なんか毎晩のようにアニメやゲームで夜更かししたり徹夜したりして、とても品行方正とはいえる学生生活は送らなかった。


 どうでも良い話を重ねていく。徒凪さんの表情も、初対面こそかなり鉄仮面だなと思っていたけど、次第に雪解けてきたように頬が緩む回数が多くなってきた。内向的な性格が起因して、ただ仲が良い友人が少なかっただけなのかもしれない。つまり僕と似通っている。学生時代の僕の仲間だ。そう思うともっと仲良くなってみたいと感じる。


 話していてふと思う。


「徒凪さんって敬語だよね。別に僕は敬語じゃなくてもいいよ。クラスメイトだし、同学年だ」


 身体的には嘘ではない。精神年齢はもう少ししたらおじさんだ。

 思えば徒凪さんはずっと敬語だ。クラスメイトと話しているところを見たことはないけど多分敬語だろう。あまり関わりの無かった僕に対して敬語だからきっとそうだ。それとも歪な男女比が影響して男と話すときは敬語がマナーなんてバカみたいな決まりとか風習があるだろうか、とか馬鹿みたいなことを考えて、すぐにあるわけ無いと思考を取り下げた。いじめっ子は僕にタメ口だったわけだし。欠片も生産性を上げないビジネスマナー講師は脳内から退場させよう。


「え、えっと……敬語の方が落ち着くので……どうしてもと言うのなら」

「別に無理強いはしないよ」


 敬語の方が落ち着くと言いながらも何処か動揺した様子で僕を見たり視界から外したりと忙しい様子だ。

 なんだかハラスメントみたいな気がしてきた。昨今はこの手のプライバシーの侵害には厳しいし、考えてみたらダメだろうこれ。少しは冷静になれよ僕。加えて、女子高生に対して敬語はいらないからとか言い始める大人は大抵碌でもない。親近感を抱かせて利益を得ようとする、社会から外れたロクデナシとか悪人ばかりだ。偏見だけどそう外れてないと思っている。


 話題を変えようと口を開こうとした僕より先に、覚悟を決めたように徒凪さんは唇を横一文字に引っ張ると、


「壮一くん……明日もこうしてゆっくり、お昼、食べないかな……?」


 小さな声で言い切った。徒凪さんはたちまち頬を赤らめて僕を視界から隠すようにして弁当箱へと顔を俯かせる。小動物みたいだった。

 僕も当てられたのか顔が熱い。あと恥ずかしい。くん呼びで呼ばれたことなんて職場でもなかった。それを女子高生から言われると、なんだろう、嬉しいよりも先にこの後金銭でも要求されるんじゃないかと考えてちょっと怖くなる辺りが僕の年齢を物語っている。


「ごめんなさい、やっぱり恥ずかしい……」

「ああ、うん。僕も変なことを言ってごめん」


 未だに赤みの余韻が残った顔を上げて、今にも表情を両手で隠したそうに両手を机の上であわあわと動かす。

 僕でなくても分かる。徒凪さんは純粋だ。それも男女比率が歪んだ社会の影響があるのか、徒凪さんの人間関係が特殊なのか。


 僕は気恥ずかしさを笑顔の裏に隠しつつ、徒凪さんに嘘を吐きたくないなと、心底思った。

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