7:放課後と糖分


■■■気まずい会話■■■


 一日の授業を終えた僕は非常に頭が痛くなった。


 自己診断で言えば気疲れだ。色々考えることが増えてしまった。基礎すら忘れ去った勉強のこと然り、年齢の遠い異性しかいない環境然り、徒凪さんのいじめ問題然りである。三つ目に関しては僕が考える必要があるのかと思うが、一応昼休みに徒凪さんに関わってしまった時点である程度解決の目を見るまでは付き合うことを覚悟している。中途半端な肩入れはいけない。一般論だ。


 どれも難しい問題ばかりだ。ただその中でも最も楽に解決できそうなのは勉強だと思う。僕は1を聞いて10を知るような頭脳を有していたことはないけど、1を聞いて1を知るくらいなら流石に出来る。何事もこつこつだ。僕の気が滅入ることを除けば凡人が確実に知識を身に着けるメソッドである。進んでやりたいわけじゃない。

 それに昔ならばいざ知らず、今の僕は勉強にそこまで忌避感を覚えていない。年を重ねたというのも理由の4割くらいはあるが、勉強を通じてこの世界に関する手掛かりも得られるのでは、という思惑が残り6割を占めていた。確証も根拠も無いがやってみる価値はあるはずだ。もしかしたら得た知識が活きて元の世界にひょんなことで帰れる、なんて淡い期待もちょっとだけ抱いていたりする。この期待はほぼ99%の確率でふいになるとは思うが、 1%でもあるなら掛けたくなるのが人情というものだ。宝くじは買わなきゃ当たらないという当たり前の理屈と同種の因果関係があると考えて、まるで自分がギャンブル狂になってしまったかのような錯覚に襲われてほんのり嫌になったが、それでもデメリットは無くメリットだらけなのでベットするしかない。成績が上がってこの世界のことが分かれば一石二鳥だ。やらない理由を探す方が難しかった。


 一方で周囲が年頃の女子ばかりなのはもうどうしようもない。クラスの男女比を崩すことは出来ないので僕が慣れるほかない。でも慣れる自信はあまりない。高校時代、男女比イーブンだった教室でも僕は浮いていた。まだ話しやすい同性がいてそれなので、順当に考えればより孤立を深める予感しかないというのが本音だった。まあ孤立するのはもう諦めて、悪目立ちしないことだけを念頭に暮らすことに専念しようかと思う。


 徒凪さんのことについては事情が分からないから何とも言えない。問題の根が深いのかどうかそれすら判断が付かないのだ。沙矢と同じく徒凪さんから色々聞く必要があるだろう。そういう意味では勉強を教えてもらえるのは良い機会だった。

 一先ず今徒凪さんのことで分かっていることは、授業態度がこの上なく真面目で成績優秀、そして勉強会に誘ってくれたことから僕が考えている以上に面倒見がいいというか、対話を拒んでいるわけじゃないということだ。でもその反面で私に関わらない方がいい、とか意味深なことも言っていた。どういう意味だろうか。虐められている自分と関わって僕まで巻き込まれることを懸念したのだろうか。ちょっとあり得そうだ。徒凪さんは良い人みたいだから。


 徒凪さんとの勉強会はまずは明日やろうという話になった。

 今日は予備校の授業があるからと言われてしまった。予備校という場所について僕が持っている知見は限りなく少ないが、ざっくりとした認識でより大学受験のための勉強法を詰め込む場所だと思っている。受験までまだ一年ちょっとあるのにもう放課後の多くを勉強に費やしているわけだ。この事から徒凪さんがより難しい大学に挑戦しようと考えているのは明らかで、僕の中で優秀な女学生という認識が更に強まる。その上昇志向は僕も見習いたいものだ。


 とまあ、6限目の美術ではずっとそんなことを考えていた。今日は誰もがイメージするような手を動かして絵を描く実技ではなく、淡々と美術史を朗読される時間だったから暇だったのだ。この人物はこういう経歴で、生涯を通じて何を思ってどんな作品を描いたのか、そんな話を永遠と聞かせられていると欠伸が出た。元より僕の美的感性は平均以下で、思い出せば美術の評定は中高通して万年10段階中4くらいを推移していた。特に抽象画を美しいと思える感性が死んでいたが、人生で困ったことは一度も無い。その傍らで二次元美少女に対する感受性は大いにあって、そこに3年か4年くらいのめり込んでは貴重な若い期間を無為に過ごした。結果論だが、そっちの方が困ったことだった。流石に27歳となればそうでもない。今でもその尾は引いているけど昔に比べれば情熱は薄く、アニメもゲームも惰性で消費するだけの存在に僕は堕ちた。2023年より少し前からネットではオタクから二次元コンテンツを抜いた最終形態の何もない虚無オタクだの、オタクの抜け殻だの、年齢と共に情熱を喪った高齢の元オタク戦士たちが増えてきていて、僕はその一員として肩を並べていた。


 話が長くなったが、ともかく、何事もなく50分過ぎ去って放課後になった。


 僕は声を掛けて徒凪さんと帰ることに決めた。徒凪さんの家はこの高校の最寄駅から電車で3駅隣の場所に存在するらしい。でも今日は予備校へ行くために逆方向の大都市へ向かうとも話した。僕の家は高校から駅までの道のりの途中で住宅街特有の何もない細道へ右折する必要があるが、それをするにしても徒凪さんが少し心配だったから駅までついて行こうと思っていたりする。帰宅途中にまた囲まれて虐められないか。そう大真面目に考えていて、その様子がまるで保護者のような心持ちだなと思ってつい苦笑いしそうになる。年齢的にもまだ女子高校生の子供を持つような歳じゃない。20代後半なら子供を持ってもいいところ幼稚園児だ。まあ僕には子供どころか相手もいないから無意味な訂正事項でしかないけど。


 徒凪さんとの会話はあまり弾まなかった。僕が年頃の異性へのアプローチ方法を知らないというのもあるし、徒凪さんがあまり自分から話すような性格じゃないのもある。思えばよく徒凪さんは僕の提案を呑んでくれたものだ。僕が同じ立場なら決まずい空気になるのを予想して遠慮してしまうだろう。勿論学生時代の話だ。

 また何か話題でも振ろうかと思っていると、徒凪さんが動いた。


「比影さん……って変わりましたよね」


 初めて苗字を呼ばれたから、徒凪さん僕の名前知ってたんだな、とか変なことを思ってしまった。僕が異常なだけで、徒凪さんは半年は僕と同じ教室で過ごしている訳だから普通である。

 ただこの時の僕はそこまで気にする心の余裕は無かった。昔と比べて変わったね、成長したね。それは肩が不自然に揺れるくらいにはクリティカルなワードである。なるべくタイムリープしている事実を隠したい僕としては今最も欲しくない言葉だ。じゃあ人と関わるのはなるべく自粛すればいいじゃないかと言われればその通りなのだが、別に絶対に隠したいと言うほどでもなかった。少なく徒凪さんの事情よりは軽い。月とすっぽんだ。自分より遥か年下の女の子が虐められていることに比べれば吹いて飛んでしまうくらいの事情でしかない


「どうだろう。変わってないつもりなんだけど……」

「いいえ、いいえ。変わったと思います」


 強く否定するみたいにそう言って、控え目に首を振る徒凪さん。

 学生の僕ならそうだろうなと頭の中で同意しながらも、曖昧に溶かそうと僕は誤魔化すように笑った。


「だって前も同じことがあって、その時は私のこと、無視してますよね……覚えてます。夏前のことです」


 徒凪さんは断じた。僕が知らないイベントだ。

 本当のことなんだろう。嘘を吐いている気配はない、とか当たり前のように考えて、自己嫌悪が脳裏を走る。大人になってからは人の嘘を疑うのが当然になってしまった。いや、大人が悪いみたいに言うのはよそう。悪いのは僕だ。社会に出て、求められてもいないのに欺瞞と詭弁をある程度習熟してしまった僕だからこそ、他人の欺瞞と詭弁にも敏感になってしまった。不都合があるとすぐ何かのせいにしたがるのは子供よりも大人なのかもしれない。と、また自分の不出来の理由を何かに押し付けてしまって、口の中に砂利が入ったような呑み込めないほろ苦さが心中から湧き出す。


 そんな不必要な感傷を取り繕いながら、僕はまた誤魔化すように言葉を並べる。


「それは僕に心の余裕が無かったんだ。今更なにをとか言われれば僕は口を閉ざすしかないな……謝罪が必要なら謝るよ」

「要りませんけど、そうですか。別に気にしてません……」

「そっか」


 今度は嘘だと分かった。気にしてないならその話をぶり返す訳がない。だからと言って僕が何かを言える立場でもないのも事実で、僕は簡単な相槌のみに留めて口を閉ざした。







■■■襲来する妹■■■


 数分後、駅に着いて徒凪さんが改札口へ吸い込まれていくのを見届けると僕は踵を返した。帰宅するには今歩いてきた道のりを半分程度戻る必要がある。


 そう言えば、と思って僕は周囲を見渡した。駅前はあまり変わらないんだな。駅に隣接する商業施設はまんまだし、良く学生時代に通ったゲームセンターやすき家もそのまんま。特にゲームセンターはこの数年後に親会社が買収されて店名が変わっている。眼の前にあるそれは昔の名前だった。ノスタルジーの塊をぶつけられて眩暈がした。別世界であることに疑いようは無いとはいえ、本当にここは過去なんだ。その実感が凄い。ネット上でサーチしていた昨晩以上にこう、色々と来る。年月の重みとかが。


「お兄ちゃん!」


 折角だし少し散策しよう、そう思って一旦直帰するのを止めて、別方面へと足を向けようとしたところで誰かが責めるようにそう言った。どこかのお兄ちゃんが妹に叱られているのだろうか。僕は妹を持つ身じゃないから分からないけど、振り回されていて大変そうだなぁとか頭の悪いことを考える。当然ソースは美少女アニメである。


「お兄ちゃんってば! なにほっつき歩いてるのねえ!」


 再度声が聞こえた。今度は間近から。

 そこでやっと声の主が沙矢であることに僕は気付いた。どこかのお兄ちゃんは僕だったみたいだ。昨日の今日であるため実感は現在も無いが、この世界ではそうなっていた。


「えっと、沙矢どうしたの? 何か駅前で用でもあった?」

「そうじゃないよ! 下校は一緒にするって約束してるじゃん!」


 わたしカンカンだからね、と沙矢は表情を険しくしながら人差し指を頭の上に立てて角を作った。どうやら怒ってますアピールらしい。沙矢のような女の子がやっても可愛らしいとしか思えないので効果は無いけど、一応反省しているふりとして僕は目を少し伏せた。中々に僕は狡い人間だった。


「ごめんごめん、クラスメイトと帰ることになってさ」

「ならメールとか電話してよ!」

「ごめんって」


 女子高生である沙矢の口からLINEがここで出ない辺りが時代を物語っていた。この頃から存在はしていたはずだが、現代みたいに電話とメールに代わるオフシャルツールとして市民権を得るまでは至っていないと記憶している。利用人口が増え始めていた時代だろう。

 そう言えば聞いた話によれば近頃の若者はLINEすら使わないらしい。なんでもインスタグラムのダイレクトメッセージがメインだとか。多分令和で高校生だったとしても僕には関係の無い流行りに違いない。携帯電話の連絡帳がほぼ伽藍洞なんだ、インスタ以前の問題である。主に人間関係の問題だ。


 世代間ギャップについて考察しているとポカっと頭を殴られた。口を点になるくらい尖らせてムッとした表情をしている。


「ほんとにお兄ちゃんは。わたしの存在に有難さを感じてよね」

「感じてるよ、感じてる」

「噓つき……」


 ぷいっと僕から顔を背けた。嘘を言ったつもりは無いけど、有難みと言われてピンと来なかったからだろう。返事が軽くなった自覚はある。お兄ちゃんは大変だ。今すぐ全国各地のギャルゲー主人公のことを師匠と呼んで直接教えを乞いたいと考える。それくらい扱いが難しい。


「嘘じゃないって」

「嘘つき」


 今度は僕の目を見て言った。ジトリとして半目になっている。可愛さが半分くらい引っ込めてちょっと怖い気もする。面倒が深まったかもなあ、という種類の怖さだった。

 僕は内心溜息を一度ついて、それから辺りを見回す。そういえば当時この辺りにはアレがあった気がする。クレープ屋。女の子はこれが好きだろう。うん。

 予想通りの場所にあった目的の店を僕は指差した。


「なんか奢るよ。ほら、クレープあるよ。和栗と紅はるかを使ってるって、美味しいよ絶対にあれは」

「お兄ちゃん……」


 沙矢は残念な人を見るような顔をした。だって仕方がない。小さな僕の脳味噌では物で釣るくらいしか思いつかなかったのだ。


「まあ、お兄ちゃんに期待してるわたしが馬鹿だったよね……」


 吐き捨てるように沙矢は呟くと、やれやれと言わんばかりに頭を振って両腕をVの字みたいに曲げた。幾ら年長者とは言っても傷付かないわけじゃないんだぞと言いたい。でも言ってしまうとそれこそ致命的に人間的に何かが終わる気がしたので口を噤んだ。SNSのフォロワーが似たような状況のメスガキ(かなり現実では際どい人称代名詞だと思う)を題材にした漫画をよくリツイートしていて、そこはかとなくそれを思い出す。すぐに脳内から消し去った。現実と妄想を混ぜる危険性は熟知しているつもりだ。


「仕方ないなぁ……一緒に食べてあげるよ。お兄ちゃんはなに食べるの?」

「僕はお昼で菓子パンを食べたから甘いのはいいかな」


 次の瞬間、物に躓いたみたいな軽い衝撃がくるぶしを襲う。目を遣れば沙矢が制服のローファーで僕の足を蹴っていた。


「蹴るのは駄目だよ」


 僕は思わず正論を言った。制服のズボンの裾が汚れると洗うのが結構面倒なのを僕は知っている。


「お兄ちゃんが分からないのが悪い」


 沙矢はぶすっとして言葉を発する。

 あともう一つ正論を言った理由があった。見るのは良いけど、自分の妹が暴力系ヒロインなのは少し違う。もう暴力系など流行らないのだから止めちまえと心底思った。2013年ならまだギリギリ暴力系ヒロインが群雄割拠していた時代かもしれない、というしょうもない知識はその辺のドブ川に捨てておく。


 観念して、僕も自分の分のクレープを買うことにする。せめてもの糖質対策としてデザート系じゃないものを注文しようとしたら沙矢に睨まれてまた蹴られそうになったので、足元への甚大な被害を鑑みて大人しくイチゴとバナナのホイップクリームのクレープを購入することにした。沙矢はチョコメインのクレープにしたようだ。


 近くのベンチで横並びに座って喫食することにする。流石にクレープを食べ合いっこしよ、などと本当のラノベやギャルゲーみたいなことは言われることなく、素朴な感想を言い合いながらもくもくと糖分を胃に落としていく。若い身体だから新陳代謝も高いし大丈夫だろうけど、27歳の僕が回避していた食べ物を食すのはただただ罪悪感がある。


 僕は茶色いクリームを唇に付けた沙矢を見ながらふと思う。

 ところで何も無く合流したように装っているけども、家とは違う方向に来ていた僕を見つけたということはぴったりと追っていたということになると思うんだけど、何も言い訳はないのだろうか? ブラコンだったとしても行き過ぎているような。今日日ヤンデレ系でもここまでじゃない。何かあるのだろうか。そうやってまた僕は人を疑っている。最早性分みたいだ。


 沙矢は僕の疑問に答えない。言葉にしたら答えるだろうか、多分答えないよなあ。

 僕の微かな疑念は生クリームへ溶けていった。



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