6:隣人との関係性



■■■僕とイジメ■■■


 小中高と通ってきて、虐めを行っている同級生に遭遇した回数は片手の指全ての本数と同じくらいだったと思う。要するに虐めの現場を目にした回数が僕はあまりなかった。大人になってから気付いたけど土地柄この辺りは地価が高くて、賃貸に住むにも家を買うにもそこそこの年収を要するような場所だったから必然的に裕福な家庭が多く、ヤンキー気質な子供が少なかったのが一因なのだと考えている。


 とはいえ、人が集まれば集団になる。集団に異分子が混じれば確率で虐めは起こる。世の中では常にいじめが発生すればいじめっ子が悪いという認識のされ方をするが、僕もそこに異論を挟む余地は無いと思うが、虐められた子供にもその理由がある。理由は種々様々だと思っていて、僻みもあれば嫌悪感や反発心、嫉妬や怒り。少なくとも虐めの主犯がそういうマイナスな感情を抱いて周囲も同調してしまうことで発生する。だから虐めのターゲットにされた子に原因があったり、はたまた無かったりする。勉強が出来たり生来の気質として内向的だったりするだけで虐められるのは同情の余地しかないし、逆に周囲に悪戯をして人に迷惑を掛けた結果とかなら改善点がある分前者より多少同情は少ない。


 僕はスクールカウンセラーでも虐めの専門家でもないからこの考えが絶対とは思っていない。ただそう思っているというだけの話だ。でも百理は無くとも一理くらいはあるんじゃないかとも同時に思っている。

 虐めの主犯に非があるのは絶対だ。そこは断じておく。でも虐められた子に責任がないかどうかは事情を聞かねば分からない点で、だからこそ学生時代の僕は安易に虐めに関わることをしなかった。加担することも反対することもせずに完全な第三者という立ち位置に終始して傍観した。今思うと全て言い訳でしかない。ただ当時は本気でそう考えていたからその全てで見てみぬふりをしたのだ。まったく学生時代の僕というのはどこまでもクラスのその他一名だった。


 しかし階上の光景を覗き見て、何一つ澱みなく身体が動いたことに驚いた。どうやら僕は大人になって多少は考えを曲げられたらしい。もし行動を起こせなかったら今頃自己嫌悪の天王山の真只中だったに違いない。誇らしいとまでは思わないが、この10年で少しはマシになれた事実は僕の胸に安堵の念を去来させた。





■■■介入■■■


 虐めを受けていたのは意外なことに、先程僕が声を掛けた徒凪さんだった。頬が赤い、先程の音から察するに殴られた跡だろう。

 僕が徒凪さんについて知っていることは少ない。新しい妹の沙矢より少ない。ただ言えることとして、典型的な虐めに遭ってる子の印象を朝は感じなかったし、今この場でさえ感じない。とても自然体だ。つまり危険だ。それはきっと虐めに遭うことを慣れ切ってしまっている証跡だろうから。


「すみません、何をしてるんです?」


 ゆっくりと階段を上がり、声を掛けながらも僕は考えていた。目の前の問題をどう解決するかを。

 今この暴言暴行を止めるのは良いとして、根本的解決にも頭を使う必要がある。どうすれば解決できるか。徒凪さんのことは授業中のたった3時間、思考の糸が切れるたびに後ろの席からそれとなく教室の全体を眺めてはその時に目に入るだけだったが、生活態度に問題があるようには見えなかった。恐らく徒凪さんに非がある可能性は低い。なら目の前で非は全て徒凪さんを囲む女子生徒にあると推測される。


 いや待て。思い違いかもしれない。判断するには拙速すぎる、喧嘩の可能性もあるか。そう考え直してみて、一度冷静に観察してみたが、やはり喧嘩ではなく虐めだなと僕は改めて確信した。何故なら徒凪さんを威圧するように複数人の女子生徒が囲んでいたからだ。

 この場においていじめっ子は3人だった。その中の2人は僕の顔を見て怯えの色を隠さない。となると、徒凪さんから僕へ敵意を移した中央に立つショートカットヘアーの彼女が主犯格と思っていいだろう。


「なに? 比影には関係ないでしょ?」


 主犯格の女子生徒は当然のように僕の苗字を口にした。クラスメイトだったっけ。流石に一回授業を受けただけじゃ30人あまりの顔名前なんて覚えていないぞ。自慢じゃないけど顔を覚えるのは得意じゃない。

 まあでもそれならそれで構わないかと僕は思って、睨みを利かせる女子生徒を正面から見返した。


「関係はあるよ。徒凪さんは僕のクラスメイトなんだ」

「それ言ったら私たちもそうなんだけど」

「それはごめん。徒凪さんと違って君の名前は分からないんだ」

「何それ。キモ」


 僕を見下すように主犯格の女子生徒は腰に手を当てた。流石に怖さは感じないけど、女子高生からキモイと言われるとメンタル的によろしくないものがある。27という数字は伊達じゃない、学生の若さがそれだけで比類無き強みに思える年齢だった。僕自身も学生時代はアラサーなんておじさんだと思っていたこともあるから、なんだろうか、やっぱ棘が刺さったかもしれない。心臓に。


「名前を聞いても良い?」

「うっさい。あーもう面倒だし行こ」


 そう言って主犯格の女子生徒は後ろの2人を連れて階段を下って行った。名前は本当に気になったんだけどな。同じクラスなら顔を合わせる機会もあるかもしれないし。


 僕は屋上とを隔てるドアに寄りかかった徒凪さんに目を向けた。徒凪さんは風に吹かれた柳みたいに在るがまま、ただ僕を見た。


「大丈夫?」

「は、はい。ありがとうございます」


 怪我が心配で、僕は徒凪さんの身体をざっと確認した。頬の赤みが引いていないこと以外は怪我は無いように見える。見えないところは分からないが、身体の動かし方に違和感がないから大丈夫だと思いたい。徒凪さんが敢えて隠そうとしているなら別だけど。


「あの……なんで私を助けたんですか?」


 その声は掠れて息が多いのと裏腹に、芯が通ったものだった。思わず徒凪さんの顔を見た。さっきより少し眉を上げている気がする。困っているのだろうか。僕が何故現れたのか、そして助けたのか分からないから。


「クラスメイトだから助けたかったっていうのは理由にならないかな」

「それだけで、ですか?」

「良き隣人でもあるよね」

「喋ったことだって、あんまりないですよね」


 一段、声音が冷えた気がした。僕は何か不味いことを言ってしまったのだろうか。

 今度は僕が困る番だった。


「確かに取って付けた理由だ。本音はとにかく君を助けたかったんだ、理由なんてないよ」


 少し迷った後に胸の内を開けることにしてみる。ここで嘘を吐いても意味は無いと思ったのだ。


「……でも、私には関わらない方が良いと思います」


 置き手紙みたいにそう言うと徒凪さんは階下へ降りていく。呼び止める声には何も反応を返さなかった。

 僕の取った選択は不正解だったらしい。手の甲を軽く指で擦る。異性相手だから相手の気持ちが分からないのか、思春期相手だから適切な言葉をあげれないのか。不器用な僕はその両方を併発してるんだろうな、と意味の無い結論を出す。


 異様に疲れた僕は階段の一番上に座り込むと、学食で買った菓子パンを千切って口に含んだ。思えば菓子パンを食べるのは久々だ。25歳を超してからは新陳代謝が落ちてきたことによって脂質と糖質はより天敵になって、健康を鑑みて買うのを避けてきていた。

 2年ぶりに食べた菓子パンの味は思い出の通り甘かった。





■■■徒凪さんとの雑談■■■


 昼休みを終え、教室に戻って午後の授業。

 眠気を感じつつ目を一度だけ強く瞑って堪える。エアコンが稼働しているおかげで室温は一定に保たれている。その環境下で昼下がりの朗らかな光を浴びると、抗ないほどの睡魔が生じる。手を動かしていないのも関係しているだろう。大学と違って高校だとこういった時に徐にコーヒーを取り出して飲むとかできないのが不便だ。


 目薬でも差したい。残念ながら手持ちには無いので、帰りにドラッグストアで買おうかと考える。明日もこれが続くのなら僕としても対策を講じたいとこだった。


 耐えつつ前を向くと、意識をせずとも薄淡い水溜りのような銀色を靡かせた徒凪さんが視界に入る。徒凪さんは僕と違って眠気とは無縁そうだ。精神的な若さが起因しているかもしれない。今日は女子高生に囲まれているからか、矢鱈と自分の年齢を気にしてしまう機会が多くて気が滅入る。これが元の世界に戻れなければ暫く続くのか。もう苦笑いしか出てこない。


 徒凪さんを見ていると嫌でもさっきの出来事が脳裏を過る。

 どんな理由があって虐げられているのか。何度見ても徒凪さんに瑕疵があるように思えない。とても辛い状況だろうに、悲壮感の色すら見えないのは徒凪さんの顔がアイドルみたいに整っているから僕がそう見えてしまうだけか。美男美女補正というものだ。いや待てよ、徒凪さんは可愛いからそれが原因で主犯格の女子生徒の彼氏の心が奪われ、妬まれてしまった、みたいな可能性も思いついた。でも流石に短絡的だしドロドロ過ぎるか。恋愛ドラマなら無限にありそうな展開だけどここは現実だ。多分。男女比が狂っていたり魔法少女が実在しているから少々疑わしいが。


 考えが回るだけ無駄に回って、それでも何一つ出ない結論に悶々としていれば5限目は過ぎ去っていった。今日最後の10分休憩だった。


「あの、徒凪さん」

「え……なんですか?」

「徒凪さんってもしかして頭良かったりする?」


 僕は腹を括って徒凪さんへ話しかけた。話題は何も思いつかなかったので適当だ。とにかく情報が欲しかった。

 こんな風に話しかけたことは前の僕はなかったからだろう、徒凪さんは不思議そうにコクリと小首を傾ける。


「さっき言いましたよね、関わらない方が良いって」

「聞いた上で関係無いなと思った。それとも話しかけられるのが嫌とか?」

「そういうわけでは……ないですけど」

「そっか。勇気出して良かった」


 諦めるように溜息を吐かれた。変人と思われたのかもしれない。必要経費だ。

 徒凪さんは気まずそうに僕から目を反らした。


「勉強なら……それなりです」

「そうなんだ。僕は授業に全然付いていけてなくてさ、凄いね」

「そんなことはないです。私なんか全然、大したことなくって、高校だってこんなとこ来てるくらいですし……」


 そう話す徒凪さんに嫌味っぽさはなかった。純粋に学歴にコンプレックスがあると解釈した方がよさそうだ。ただ、徒凪さんが嫌われた理由の一端が透けて見えた気がした。


「高校受験の話?」

「はい。私、もうちょっと上の学校を志望してて、落ちたので」

「大したもんだね。僕は勉強が得意じゃなかったからここくらいが限界だったよ」


 勉強が苦手なのは事実である。じゃなきゃ中退は選ばない。年を重ねるに連れて勉強の重要性を理解して、学ぶという行為への解像度が上がるに比例して過去の僕の駄目さ加減は目に余るようになった。もっと学生時代に勉強しておけばよかったと思うことは一入だ。そういう意味では図らずとも人生再始動になりかけている今の僕は、過去の悔いを晴らすべく勉強した方が良いのだろう。どうせ元の世界にいつか戻るから意味なんて無い、とか言って機会を投げ捨てていたら僕の生涯は無知蒙昧に覆われること請け合いである。うん、僕も今なら多少はやる気があるかもしれない。


 ちょっと偉そうだったかもな、と自分の返事に懸念を抱いていると徒凪さんは俯きがちになりつつ視線だけ僕に送る。


「そんなに難しいですか、勉強」

「そりゃあもう。前までは文系だったから日本史だけは出来たほうだったよ。あと数学は苦手も苦手だった。あ、でも今はその関係性が逆転してるかもしれないな」

「そんなことあるんですか……?」


 不純物の無い疑問に肩を竦めて答えた。僕だって普通はそんなこと起きないと思う。僕のような文系というのは元来ロジカルな思考回路を希求される数学に苦手意識を持ち、単純暗記の社会系科目を得点源にする生き物で、徒凪さんも似た認識を持っているのだろう。覚えていた知識の9割9分が役立たずになるくらいハチャメチャな歴史改竄がされない限り、つまり今の僕の立場にならない限りかなりあり得ないと思う。それに、別に数学が得意になった訳でもない。世界が変わっても用語が変わってないからまだマシかもってだけで、微分積分とか三角関数とか、そういうのはさっぱりだ。


「まあでも、結局は五十歩百歩かも。今この場で5科目8教科テストされたらどれも赤点取る自信しかない」

「それは……」


 僕の学力は成績優秀らしい徒凪さんの言葉を失わさせるに十分なものだったらしい。自慢じゃないが副教科、所謂保健体育みたいなその他科目も自信は無い。その事にペシミスティックにもならない。10年前の記憶なんてそんなもんだと僕は納得している。ただ10年前も誇れるような学力は無かったことは胸にしまっておく。


「とりあえず、僕の目標は来月の定期試験の赤点回避かな。徒凪さんはそういうのあるの?」

「は、はい……私は全教科9割取ろうかと」

「それは大きな目標だな。尊敬するよ」

「そんなそんな、ただ出来そうだからってだけで」


 徒凪さんは少し恥ずかしそうに小声で言った。自分の惨い学力から話を逸らそうとした人間とは比較にならないな。

 それに取れそうだから取る、という思考になるのが僕は良いと思った。僕ならある地点まで行ったらそこで満足してペンを置いて、残り時間は娯楽を消費するだけの非生産活動に走ってしまうだろうから、目標設定が高みにある徒凪さんはやはり優秀なのだろう。優秀を通り越して優勝だ。駄目だな、僕の拙い語彙では表現できない。とにかく優秀だ。


 間近に優等生を見た僕は屠殺されたに等しい学力を持つ我が身を省みて、改めて自分の学力もどうにか底上げしないといけないなと決意を新たにしたところで、前触れもなく徒凪さんは固唾を飲んだ後のような表情になった。一拍置いて唇が震えた。


「あの……良ければ教えましょうか、勉強」

「え?」

「その、少しはお力になれると思います」


 そんな事をしていいのだろうか、という感情が先立った。次に女子高生から教わる情けなさにちょっぴり泣きそうになった。

 構図が犯罪的だ。外で連れ立って歩けば昨今話題のパパ活に見えなくもない。いや今の僕は身体は高校時代のものだからそうはならないか。突然の申し出に僕は少し混乱していた。


 勉学の重要性について異論は無い。辛うじてフリーターと名乗れるくらいの経歴しかない僕でもそれは理解していた。それから今後独学で色々やっても僕じゃ上手く行かないだろうことも。


 少し考えて、僕は首を縦に振った。


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