第19話 不幸な僕は死んだ

「ん……っ……」

 遠い世界で長い夢から冷めたような疲れと共に僕は起きた。

 目を開けた天井は、見慣れた家のもの。

 起きた場所はいつもの僕の部屋だった。

 寝ぼけ眼で目を擦り、起きたばかりの脳を回す。

 時刻は午前六時二〇分くらい。窓から雀の鳴き声が聞こえてきた。

 カレンダーを見ても今日が何月の何日なのか分からない。僕の部屋には電子時計が無いのだ。

「確か……」

 確か僕は……ザラキエルによって救世されたはずだ。

 ザラキエルは死を司る天使、僕は死という救世を受けた。

 それは僕に寄生していたエレボスの侵蝕を人間界から消滅させて、人間界を救世するためであったはずだ。

 なのに僕は——

「どうして……生きてるんだ?」

 あの時、威厳を漂わせているザラキエルによって僕は確実に死んだ。

 その感覚は微量ながら残っている。

 光に貫かれた胸を触ってみた。

 特に変わった変化は無い。

 心臓も脈も動いていて、温かく感じる。生を実感出来ている証拠だ。

「本当に僕は……死んでないの?」

 もうどうなっているのか分からなかった。

 きっとこの現象に関してはザラキエルが一番詳しいだろう。

 僕はベッドから起きて、自分の部屋を出た。

 ガチャッとドアを開けると、ジューという肉か何かを焼いているような音が聞こえてきた。きっと母さんが料理しているのだろう。

 階段を降り、リビングに入ると、キッチンで料理していたのは母さんでは無かった。

「あ、起きた? おはよー」

「お、おはよう……」

 エプロン姿でザラキエルが料理をしていた。手にはフライ返しを持っている。

「ちょーっと待っててね。もうすぐ出来るから」

「あ、ああ……」

 きょとんとした僕は、冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注ぐ。

 自分の席には白いご飯が湯気をもくもくと立てていた。

 席に座ると同時にザラキエルが皿を持ってこっちに来た。

「はーい、ザラキエル特製朝ご飯だよー。ちゃーんと食べてね」

「う、うん」

 皿には目玉焼きとカリカリに焼かれたベーコン、ちぎったレタスとミニトマトが置かれていた。目玉焼きとベーコンには塩胡椒が振りかけられており、黒い点々が見える。

 さらにザラキエルは箸とインスタントの味噌汁まで持って来た。

「い、いただきます」

 しっかりと手を合わせてザラキエルが作ってくれた朝ご飯と食べる。一抹の不安が頭の中を過ぎったが、目玉焼きは綺麗な半熟で、ベーコンも程よい焼き具合になっている。

 お腹が凄く減っていたのか、僕はがつがつと朝ご飯を平らげてしまった。

 僕がご飯を食べている間、ザラキエルはまるで新婚したての妻みたいに、僕の様子をじっと見ていた。

「ご、ご馳走様でした……美味しかったよ」

「そう? よかったー。じゃ、お皿は片付けるから——」

「ちょっと待って!」

 ザラキエルが朝ご飯を平らげた食器を片付けようとした時、僕はザラキエルの動きを制止した。

「片付けは後でいいから、先に色々聞いてもいい?」

「いいよ。あ、因みに君の両親は久しぶりの朝勤だって言ってたから、もう出てったよ」

「そ、そう……」

 母さんと父さんは夜勤が多いが、たまに朝勤がある。時間のローテーションの関係だと前に聞かされたので、そんなに驚かない。

「まず一つ目。今日って……何月何日?」

「六月二四日」

「え……っ!?」

 六月二四日だって……。六咲市民美術コンクールから約一ヶ月経っている。

「ほ、本当……?」

「ほんとほんと。だったらこれ見てみたら?」

 そう言うとザラキエルはテレビのリモコンを操作し、テレビを付ける。丁度ニュース番組の天気予報が流れており、アナウンサーが『本日六月二十四日、金曜日のお天気は——』と言っていた。これはもう間違いようが無い。

「君の救世をしたのが六月十日。救世の代償かもしれないけど、君は二週間くらいずっと眠ってた」

「そんなにも……」

「大変だったんだよ、君の両親に君が昏睡状態に陥ったこと説明するの」

「ま、待って待って! ど、どういうことなの?」

 僕が昏睡状態……? だって僕は救世によって死んだはず。

「君を救世したあの日のことは覚えてる?」

「う、うん。覚えてるよ」

 今まで人間界で生活してきたザラキエルばかり見てきたからか、本当の天使ザラキエルというものが僕の脳裏に焼き付いている。

「あの日、私は君の救世を果たした。君は死んで、君の中に寄生していたエレボスの侵蝕は私が全て残らず浄化した」

「それは分かるんだけど……今ザラキエルも言ったよね。僕は死んだって」

「言ったよ。君は死んだ。不幸だった君がね」

「不幸だった……僕?」

 ますます意味が分からなくなってきた。

 ザラキエルはコップの縁を指先でカァンと弾いて説明を続ける。

「これを説明する前に、私の死を司る力について知っておいた方がいいかな。私の死を司る力は、簡単に言って人を死なせることが出来る。問答無用に、強制的に」

「き、強制的に?」

「そ、強制的に死なせるって言っても、心臓の動きを安らかに止めるくらいよ。エレボスの侵蝕のように事故に遭わせたり、喉元を切って失血死とかはできない。言ったでしょ? 私の使命は『天命を全うしない死から救世すること』って」

「でもそれって、エレボスの侵蝕の事故や事件とかで死ぬのを防ぐためじゃなかった?」

「主にエレボスの侵蝕なんだけど、まだある。例えば……安楽死とかね」

 安楽死という言葉を聞いて、僕はザラキエルが何が言いたいか分かった。

「助からない命を無理矢理繋ぎ止めてるのを、安らかに送るため……?」

「そういうこと。病院の機械で無理矢理生かされるくらいなら、死んだ方がいいってケースが多いのは知ってるはず。実際に天界へ導く時の人も、そんなこと言ってたし」

「恨まれたりとか……しないの?」

「まっさか、その逆よ。みんな私に感謝してた。死にたいのに死ねない苦しみから解き放ってくれてありがとうって」

 僕にはその人たちの苦しみが分からないが、気持ちだけは理解出来る。苦しみから解き放たれて自由になるのは、現実の人間も、死者の霊もどちらも同じなんだ。

「で、君を救世した時に放ったあの光は、君の心臓の鼓動を止めた。ちゃんと君は死んだってことだね」

「でも、心臓を止めただけですぐに死なないでしょ?」

 心臓は三分から五分間、止められただけで体中に酸素が行き渡らなくなる。それがそのまま死亡に繋がる。

「そうね。すぐには死なない。君の場合、エレボスの侵蝕の完全浄化には五分くらいかかったから、君は確実に死んだ。脈も呼吸もしてなかったし、力も無かった。体も少し冷たくなってたしね」

「じゃあ何で僕は……生きてるの? ゾンビじゃないし……」

「私の力で君を蘇生したの」

「えっ……?」

「あれ? 聞こえなかった? 私の力で君を蘇生したの」

 然もありなんとザラキエルは淡々と言う。

 僕は状況整理が追いついていなかった。

「そそ、蘇生!? し、心臓マッサージとかで?」

「そんな訳ないでしょ。私の力、天使の力、天使の魔法的なもの。アンダースタン?」

「分かった分かった。何で英語……」

 どこで聞いたのだろうと思ったけど、普通に学校の授業に出ていれば英語のことは身につく。

「心臓って停止してから一〇分くらい経つと鼓動の方法を完全に忘れるの。だけど君の心臓が停止した時間は五分くらい。蘇らせる時に使った力は、もう一度心臓に鼓動をするようにと命令を下すようなもの。その命令を下したから君の心臓は再び動き出して、君は蘇ったって訳」

「つつ、つまり僕は本当に死んでたけど、ザラキエルの力で蘇ったってこと?」

「そ、凄いでしょ」

「そ、そりゃあ凄いけど……よかったの?」

「何が?」

「だって、人間界では死んだ人を生き返らせるのは禁忌だっていう風習があるんだ。安らかにその人を休ませてあげるっていう意味があると思うんだけど……」

「……そうだよね。人間界の禁忌だもんね」

 何か言い返されるかと思ったが、急にしんみりとした反応が返ってきて僕は困惑する。

 ザラキエルがここまで物悲しくなるのは初めてだ。

「え……え……?」

「うん、人間界が疎い私でも、人間界の方で蘇生するのは御法度だとは知ってた。勿論それは天界だってそう。生命を司る天使でも『天地万物、全なるものを蘇生することなかれ』って言われてる。天主神様からね」

「じゃあ……何で僕を……」

「……笑わない?」

「笑わないよ。ザラキエルのことだもん。きっと何かあって僕を蘇らせたんだと思う」

「ありがと」

 普段のザラキエルとはまた違った別の魅力というものを感じた。やや適当っぽさがある性格でも、塩らしく冷静な性格に僕の心はドキッとする。

「直球で言うね。君が好きなの」

「…………」

 優しく微笑みかけるザラキエルとその言葉に、僕は心を奪われて何も言えなかった。

「ちょっと! 何で反応しないの!」

「あ、いや……その……」

 赤面して顔を覆い隠すザラキエル。僕はどうザラキエルに言えばいいのか、すぐに言うことが見つからずにいた。

「僕が……?」

「そう! 二度も言わせないで」

「ご、ごめん……」

「別に謝らなくていいって。君がそういう人だってのは分かってるんだから」

 目の前の少女が僕に好意を寄せている。

 それだけ確実に理解すると、途端に僕の顔が熱くなってきた。

「でも……何で僕なの?」

「私もいつからこの気持ちが芽生えたのか分かんない。けど、天界から君を見てる内に、君の心優しい性格に惹かれたんだと思う。単純かもしれないけど」

「……単純でいいんじゃないかな?」

「ふふっ、そうね」

 恋の理由は単純でいいとどこかで聞いたことがある。

 人が人を好きになるのは、本能として当然のこと。ならばその間に細かな理由は要るのだろうか。

 答えは否。好きになったのであれば、そこに理由は要らない。単純明快で実に分かりやすい答えなのだ。

「私は君が好き。それは紛れもない事実。今も、これからもね」

「あ、ありがとう……」

 面と向かって言われると照れるものがある。ザラキエルの方も、無理して僕に顔を向けているようだった。

「君の気持ちは私に向いてるのか、晴榎ちゃんに向いているのか分かんないけどね」

「……それは……」

「いいって。何もすぐに答えを見つけてなんて言わない。気長に待つから」

「気長に待つ……? ってことはもしかして……」

「そ。君の救世が終わっても私はまだ人間界にいる。救世の因果は『人間を救世せよ』と言って天使を天界から人間界に送らせる。人間を救世するまでね。でも——」

「帰るタイミングが示されていない……?」

 ザラキエルの言いたいことが直感的に分かり、顎に手を当てて呟く。

「起きたばっかなのに冴えてるじゃん。だから救世が終わってもすぐに天界には帰らなくていいの。最も、九割の天使は救世した人間が天界へ昇るまで居続けるんだけどね。天使の使命の一つ『人間を見守ること』のために。だから私が帰るタイミングは君の寿命が本当に尽きて、私が君の魂を天界へ持って帰る時。一緒に天界へ行きましょって感じ」

「ザラキエルが僕のお迎えかぁ」

「何? 嫌?」

「いやいや、嫌じゃないよ。むしろありがとうって思う」

「そう? ふふ、嬉しい」

 僕とザラキエルは揃って笑った。

「だから君の第二の寿命が尽きるまで、私は人間界を漫喫させて貰うよ。案内はよろしくね」

「分かった。その代わり、僕が天界に昇ったら天界の案内はよろしく」

「任せて。何ならそのまま君を天使にしてあげようかな」

「そんなこと出来るの!?」

「さーて、それはどうかな? 本当になれるかどうかは実際に天界に昇ってから、ね?」

 小悪魔っぽく舌を出して僕を小馬鹿にするザラキエル。

 コップに残っていたお茶を全て飲み干して、残っていた疑問を片付ける。

「一応確認だけど、僕の体内からエレボスの侵蝕はもういない……んだよね?」

「うん。全部浄化したからね。ちゃんと冥府神の奴にもキツーく言っといたから安心して」

「じゃあもう僕の不幸体質は……」

「もう無いよ。断言する」

「そ、そっか……」

 不幸体質から解放されて晴れ晴れとした気持ちが半分と、本当に無くなっちゃったんだという気持ちが半分ある。

 今まで僕の不幸体質は、ちょっとした僕のトレードマークだった。そのトレードマークが消えて、ただの一般人に成り下がったと考えるとちょっと惜しい。ザラキエルの力によって蘇っているのだから一般人とは言い難いが。

「もしかして、ちょっと惜しんでる?」

「うん、ちょっと……」

「これは君の心の中で思ってたことだよ。不幸と幸福は表裏一体だって。適度な不幸があるからこそ、適度な幸福がある。それこそ生活する上では大事なことでしょ? 君だって幸福になる権利はある。そのために私が来たんだから」

「そう……だね」

「君は一度死んだ。だけどこの死は今までの不幸な君が死んだだけであって、幸福な君はまだ死んでない。今生きている君が幸福な君なの」

 不幸な僕が死んで、新しい幸福な僕が今を生きる。

 第二の人生の始まりとは、まさにこのことなのだろう。

 それに不幸ばかり願っていたら、僕を蘇らせてくれたザラキエルに会わせる顔も無い。

 それなら少しばかり前を向いて生きていこうかな。

 後ろばかり向いていた僕とは、そろそろさよならの時だ。

「さて、もうそろそろ時間でしょ。多分もうすぐ——」

 ピンポーン。

「エルちゃーん。行こー」

 インターホンを鳴らして晴榎の声が聞こえてくる。久しぶりに聞いた声だ。

「ほら、食器貸して。パパッと片付けて晴榎ちゃん驚かせよ?」

「どんな顔するかなぁ……」

 晴榎の反応に少し不安がりながら、僕はザラキエルに空になった食器を渡す。

 ザラキエルは食器をシンクに入れて、水道の蛇口を捻った。

「あ、そうそう。これだけ言わせて」

 今のドアノブに手をかけてザラキエルの発言に耳を傾ける。

「愛しています、樹生様」

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