第17話 エレボスの侵蝕、そして

 僕は体内から出てくる黒いヘドロみたいなものをパッパッと取り払おうとするが、いくら取り払っても有象無象に湧いて出てくる。制服やズボンまで貫通して出てきて、僕の体は黒いヘドロみたいなものに埋め尽くされていた。

「ザ、ザラキエル! こ、これ何!?」

 魔法陣を展開していたザラキエルは、やがて魔法陣を収縮させて消滅させる。大きく広げていた翼もいつも通り背中に合うような感じに戻り、目を見開いた。

「それが君の不幸体質の原因。エレボスの侵蝕と呼ばれるものよ」

「こ、これが僕の不幸体質の原因!?」

 黒いヘドロのようなもの——エレボスの侵蝕は僕の足、お腹、腕を覆い尽くしていた。時折、上から転がり落ちてくるものも見えるため、頭もエレボスの侵蝕に埋め尽くされているのだろう。

 端から見たら黒いヘドロを被った変質者のようだ。

 僕の体を好き勝手這い回るエレボスの侵蝕は非常に気持ち悪く、奇怪な音も相まって心が掠れていく。

 腕に広がっているエレボスの侵蝕を払っても、次々に湧いて出てくる。

「ザ、ザラキエル! どうにかして!」

「無理よ」

「え……無理……?」

 ザラキエルは腕を組み、はっきりとその三文字を言った。

「そう。無理。私じゃどうすることも出来ない。大天使長様でも」

「な、何で……」

「その理由を話す前にエレボスの侵蝕のことについて聞いて。でも、エレボスの侵蝕が君の体を這い回ってる状態で話すのも、君が多分聞けないだろうから一旦体内に戻すよ」

 また両手を重ねて水色の魔法陣を展開した。するとエレボスの侵蝕はその魔法陣から逃げるように僕の体内へ入っていく。

 何だか、体がエレボスの侵蝕によって寄生させているようで恐怖を覚えた。

「はい、これでいいでしょ。一度しか話さないからよく聞いてよ」

 全身を覆っていたエレボスの侵蝕が僕の体内に戻り、奇怪な音が聞こえなくなった。

 僕はザラキエルが話そうとする内容を、一字一句聞き逃さないように耳と脳に意識を割く。

「まずエレボスの侵蝕とは何かについて。あれは原初の冥界、エレボスの壁や床に存在する寄生虫なの」

「き、寄生虫!?」

「そう。つまり君はエレボスの侵蝕に寄生されてるって訳。エレボスの侵蝕は君の生命活動を餌に寄生する。簡単に言えば、君の寿命を餌にしてるってところかな」

「ど、どのくらい寿命って削られてるの?」

「さぁ? その辺は分からない。一年とか七十年とか一ヶ月とか。振れ幅は大きいみたいなの」

 ザラキエルでも僕の削られた寿命は分からないのか。

「エレボスの侵蝕に寄生された者は多くの不幸を背負う。そうして様々な不幸を背負って、死に誘われて、最終的には冥界へ堕とされるの。魂ごとね。堕とされた者はエレボスの侵蝕に侵されて、やがて自分自身もエレボスの侵蝕になる。君の中に巣くってるエレボスの侵蝕は、過去に冥界に堕ちた人たちの末路なの」

「じゃあ、僕も……?」

「そう。放っておいたら適当な事故か病気で死んで冥界に堕ちる。そして君もめでたくエレボスの侵蝕の一匹になるって訳」

「全然めでたくないよ!」

「ま、そうよねー。誰だって冥界には堕ちたくないもの」

 僕があの寄生虫の一匹になるだって? 冗談じゃない。

「つまりエレボスの侵蝕は冥界へ引きずり堕とすためのもの、みたいな感じなの?」

「その解釈でOKよ」

「それならあの事故は……」

「あの交通事故はエレボスの侵蝕が仕組んだものよ。人間の意志を動かすほどの力は無いけど、それを不幸に持っていく力はある。本来はあの事故で轢かれるのは晴榎ちゃんじゃなくて君だったの。君はあの事故で死んで冥界に堕ちてた」

「ザラキエルは、このこと知ってたんだ」

「うん……」

「ってことは大天使長に会うって話も嘘だったんだ」

「はは、正解。あの日は君たちの頭上を飛んでた」

「何で……」

 事情を知っていたのに話してくれないこと、上を飛んでいながら晴榎を助けてくれなかったこと等の怒りが湧き出てくる。

 喉元まで出掛かった言葉をザラキエルが制止した。

「何で——」

「——その前に私の話を聞いて」

 出掛かった言葉がストンと落ちる。

「聞いたらいくらでも私を責めていいから」

「…………分かった」

「ありがと。エレボスの侵蝕は君に寄生して生命活動を餌にして、不幸を呼んで、冥界へ堕とすっていうのは理解出来たはず。で、ここで疑問点。寄生している宿主が死んだらエレボスの侵蝕はどうなるの? 今まで餌としてきた宿主が死んだら、エレボスの侵蝕は行き場を無くす。一旦冥界へ戻るか、別の人に寄生するか、どっちだと思う?」

「……別の人に寄生する」

「そう、その通り。宿主が死んだらエレボスの侵蝕は新たな宿主に寄生する。そうして同じ事を繰り返すって訳。私が言いたいこと、分かるよね?」

 ザラキエルが言いたいこと、それはあの場でエレボスの侵蝕が取る行動のことを指す。

「あの交差点は交通量が多い。あの日は少なかったけど。もしあの交差点で僕が死んだら、僕の中にいるエレボスの侵蝕は、あの場を通り過ぎる誰かに寄生したかもしれないってことだよね。例えば……晴榎とか」

「その通り。だからあの場で君を死なせる訳にはいかなかった」

「だから、晴榎の方に車を向けた……の?」

「それしか方法が無かったの。運転手も君も晴榎ちゃんの死なせないようにするにはどうすればいいか。それはもう晴榎ちゃんが逃げた左の方にハンドルを切るよう干渉して、ガードレールで勢いを殺して車を止めるしか無かったの!」

「だからといって——」

「分かってよ!!」

「——っ」

 ザラキエルの悲痛な叫び声。

 僕の言葉はザラキエルの叫び声によって押し止められた。

「一番辛いのは君だってのは分かってる。だけど同時に私だって辛いんだよ。私は天使。天使ザラキエル。人間に対して平等で在れとされた天使なの。今は君の守護天使だけど、同時に人間全員の守護天使でもある。簡単に命を奪いたくないの」

「…………ごめん」

「いいの。というか私が命を奪いたくないって言ってるの、笑えるよね。あれを司る天使なのにさ」

「あれ……?」

「ああ、いいの。後で言うから」

 僕にはもう、ザラキエルの司るものが何か想像がついた。

 冥界、冥府神、命を奪いたくない。つまりザラキエルが司るものは——

「続き、いい?」

「あ、うん。いいよ」

 目頭に浮かんでいた涙を拭って、ザラキエルは話を続ける。

「エレボスの侵蝕から逃れるには生命活動の停止、死ぬしかない。死ぬことによって餌の生命活動が無くなって増殖が出来なくなる。これなら私の浄化の力をフルで使えば、完全に人間界から全滅することが出来る。本当は君が寝ている間に浄化を試して見たんだけど、ダメだった。エレボスの侵蝕の数が多いと、不幸な出来事の度合いが増すんだけど、精々、不幸な出来事の回数を少なくするか、不幸な出来事の規模を縮小するくらいしか出来なかった」

「じゃあ僕ごと、ザラキエルの力で浄化することは出来ないの?」

「出来るけど……君まで浄化されるよ。灰一つすら残さずに」

「……そ、それは……困るかも」

「でしょ。君だって葬儀に参加したいはず。遺骨すら残らないのって嫌じゃん」

 せめて僕が死ぬ時は生きていた証くらいは残したい。ザラキエルも人間の心を持ち合わせている天使だ。

「ってことは僕はもう末期症状ってこと……だよね」

「そうだね。君が生きていながら浄化するには、もう私たちじゃ無理な範囲まで来てる訳だし」

 さっきはっきりと「無理よ」と言った理由はこれなんだろう。

 僕の中に巣くうエレボスの侵蝕の数が、僕が生きていながら浄化するには、ザラキエルや大天使長の力を持ってしても無理な範囲まで増殖してしまったようだ。だから不幸の規模が交通事故で死亡という、大きなものまで起こすようになってしまったのだろう。

 だけど何で僕にエレボスの侵蝕が寄生しているのだろうか。ザラキエルの話によれば、エレボスの侵蝕は冥界の壁や床にいるっていう話だ。

「そもそも、このエレボスの侵蝕って、冥界にいるんだよね? 何で人間界に出てきてるの?」

「本来は人間界には出てこれないのよ。だけど冥府神の怠慢によって人間界に出てきてしまった。エレボスの侵蝕が人間界にいるのは冥府神のせいよ。過去何度も同じ目に遭わされたからもううんざりなのよ」

「あはは……冥府神の怠慢……」

 つまり冥府神がエレボスの侵蝕の管理をサボったせいで、エレボスの侵蝕は人間界に迷い込んできたということだろう。はた迷惑なことである。それで命を奪っていたら迷惑どころの話ではない。

「エレボスの侵蝕に寄生される方法は二種類ある。一つ目が冥界から人間界へ勝手に出てきたものに寄生される方法、もう一つはさっき話したけど、前の宿主が死んだために新たな宿主として寄生される方法の二パターン」

「僕はどっちなの?」

「君の場合は後者。新たな宿主として寄生されたの」

「えっ!? 僕より前に誰か寄生されてたの?」

 まさか僕より前にエレボスの侵蝕に悩まされていた人がいたなんて、思いもしなかった。

「うん。ちょっと聞くけど、君が生まれた場所ってどこの病院?」

「僕が生まれた場所……? 確か……」

 母さんから聞いた話やアルバムの写真を思い出す。

「確か霜月市民病院……だったかな。僕が生まれた当初は霜月市に住んでたらしんだけど、父さんか母さんのどっちかの仕事の都合で、僕が二歳くらいの時に六咲市に引っ越してきたみたいなんだ」

 霜月市は六咲市からかなり離れた場所にある市だ。それ以外に僕はあまり知らない。

「君が新たな宿主として寄生された、ってことはその霜月市民病院で、エレボスの侵蝕に寄生されてた人が死んだということよ」

「え? 僕って本当に生まれた時から不幸だったの?」

「正確にはちょっと違うかな。ほら、赤ん坊って生まれてからすぐに母親の元に預からせて貰えず、別の場所で一旦預かるでしょ?」

「そ、そうだね……。というか何でそんなこと知ってるの? ザラキエル、人間界疎いんじゃなかった?」

「疎いよ? だけどそのエレボスの侵蝕に寄生されてた人、大天使長様からの命令で天界で私が見てたんだから」

「あ、そっか……それなら……」

 ザラキエルが天界から見ていたのなら、病院内の構造を知っていても不思議では無い。

「私が見てた人は五十くらいの男性でね、エレボスの侵蝕によって肺癌のステージ四まで進行していたの。もう治療も出来ず、呼吸もほぼ出来ず、ただ死を待つだけの状態だったけどね。で、君が生まれた日、突然な呼吸不全によってその男性は死亡。エレボスの侵蝕のせいで死亡だと思うけど。そしてエレボスの侵蝕は男性の体内から出て、新たな宿主として病院内を這い回り、新たな宿主として生まれたばかりの君を目に付けた。看護師の手から離れた瞬間にエレボスの侵蝕は君に寄生した。これが君が不幸になった過去だよ」

「そんなことがあったなんて……」

「で、その日から大天使長様は私に君を見るよう命じた。その日から私は君の守護天使となったんだ」

「でも、ザラキエルは天界から人間界に少しは干渉してたんだよね? 死亡した男性からエレボスの侵蝕が出てきたんだったら、その時に浄化すれば良かったんじゃ無いの?」

 ザラキエルは古の盟約を破って、勝手に天界から人間界へ干渉している。もしザラキエルの浄化の力が天界からでも使えたのなら、男性が死亡した時点でエレボスの侵蝕をまとめて浄化出来たはずだ。

「浄化はしてたよ。だけど天界からだとその力が弱まるようで全部は浄化しきれなかったんだ。その浄化しきれなかった余りが君に寄生しちゃったんだよ」

「そうだったんだ……」

「そう、だからこれは全て浄化出来なかった私の責任であり罪罰。天使本来の使命と同時に、私の中では君をエレボスの侵蝕から守護するという使命も追加したの」

「使命か……」

 僕みたいなただの一般人を守ってくれる使命と聞くと少し嬉しいところはある。

 確か天使の使命は「人間を見守ること」と「救世の因果が開いたら、人間を救世へ導くこと」の二つだったはず。ザラキエルは「人間を見守ること」の内容を、僕を重点的において見守ってきたのだろう。

 ただこれらは全て「全天使に対する使命」である。ザラキエルのみが持つ使命は何だろうか。

「ザラキエルの使命って本当は何なの? 死亡した男性もエレボスの侵蝕の寄生者だったんだから、多分エレボスの侵蝕関連なんだろうとは思うんだけど」

「鋭いね。私はいつもの天使の使命もあるけど、私自身の使命としては『人々を死の恐怖から救世すること』『天命を全うしない死から救世すること』の二つ。それらの使命を全うする理由は古の盟約に記されてるの。『寿命を迎えて天界へ昇らせよ』とね」

 その二つがザラキエルの使命なら、ザラキエルが司るものは一つしかない。

「ってことはやっぱりザラキエルの司るものは『死』なんだ」

「バレてた? そう、私は死を司る天使ザラキエル」

 ザラキエルの正体が本格的に分かると、ザラキエルから生えている翼や光輪が『死』を象徴するようなものに見えて体が身震いする。

 これは童謡や御伽噺のせいなのかもしれないが、天国にいるのは天使、地獄にいるのは悪魔とされている。そのため、天国へ連れていくのは天使であり、地獄へ連れていくのは悪魔とされており、目の前にいるザラキエルが天国へ導く本物の天の使いである『天使』のように見えた。

「ザラキエルが『死の恐怖から救世する』のは死を司る天使だからというのは分かった。多分だけど『天命を全うしない死から救世する』というのは、エレボスの侵蝕による不幸で死ぬのを防ぐため……って感じだよね?」

「そう。それに私が冥界へ行けるのは私が堕天使の一人でもあるから。冥府神と話していたのはエレボスの侵蝕の管理をしっかりとしなさいと、注意しに行ったのよ。相変わらず聞く耳を持ってくれなかったけどね。だから冥府神は嫌いなのよ」

「堕天使……」

 天界から追放されて地に足を付けて生活することになった天使のことを指す。それらの天使は天界へ復讐する機会を狙って軍勢を集めていると、どこかの本で読んだことがあった。

「大丈夫大丈夫。君の想像してる堕天使は、数千年前にその方針を止めたから。今の天界の堕天使は、天界以外の世界……地底世界とか冥界とか、そういった場所へ赴くことが出来る天使のことを指すの。堕ちた天使って意味じゃ無いんだ」

「そ、そうなんだ……ちょっと驚いたよ」

 ザラキエルが悪の天使ではないと知って安堵する。

 そもそも悪の天使じゃなかったら僕を救世するとは言わないし、大天使長の下で働かないだろう。

「さて、これで私や君の不幸のことについては全部かな。他に何か知りたいこととか無い?」

 ちょっと情報量が多かったが、知り得たいことは大体知れたし、もう大丈夫だろう。

「うん。もういいよ」

「そ。それじゃあこの話はここまで。ここからは私の仕事の時間、もとい救世の時間だよ」

 ザラキエルは微妙に地面から足を話して浮き、翼を二回ほど羽ばたかせる。

 白い羽が抜けて、僕の髪の毛に刺さった。

「…………」

 死を司る天使ザラキエルによる僕の救世。

 それは僕に寄生しているエレボスの侵蝕の浄化。

 そこから導き出される答えは一つ。

 僕の救世は『僕自身が死亡すること』なんだ。

 だけど不思議と死に向かう恐怖が感じない。

 僕が全てを理解したからか、ザラキエルの力なのかは分からない。

「ごめんね。救世がこんなことだって最初に言ったら、君は絶対に拒んだでしょ?」

「多分……」

 多分で濁したが、ザラキエルの言う通り、僕は絶対に拒む。

 見ず知らずの存在が不明な人に殺されるなんてごめんだから。

「でも、人間の言葉ではよく言うじゃん。『死は救世だ』って。君の救世は今後の人間界における救世でもある。そうでしょ?」

「……そうかもね。これ以上、エレボスの侵蝕を他の人に寄生させる訳にはいかない」

 そのせいでザラキエルがまた苦労を被るのは、例え僕が死んだとしてもそれだけは嫌だ。

 ならば僕の代でエレボスの侵蝕の寄生を終わらせなければいけないのだ。

「やっぱり優しいよね。君は。これから死ぬっていうのに、他の人の心配なんかしちゃってるんだから」

「それが僕の性なんだろうね」

「あははっ、そうだね」

 ザラキエルは口元に手を持ってきて笑い、僕も釣られて小さく笑う。

「……時間だよ。最期に何か言っておきたいこととかある?」

 言いたいことは山ほどある。

 父さん、母さんに対する感謝。

 晴榎や一田君、クラスメイトたちに対する謝罪。

 晴榎のコンクールの絵を見られなかった後悔。

 思いつけば走馬燈のように色々出てくる。

 しかしながら僕は、無意識の内に口を開けて喉を震わせていた。


「こんな僕を救世してくれてありがとう」


「はい、この耳でちゃんと聞きました」

 ザラキエルはにこっと笑い、大きく翼を羽ばたかせて宙に昇る。

 公園内の木と同等の高さくらいまで上昇すると、ザラキエルから眩い光が溢れ出した。

「うわっ」

 思わず反射的に目を瞑る。すぐに光は収まったようで、僕は目を開けた。

 すると——

「我は死を司る天使ザラキエル」

 姿は全然変わっていないのに、体が震ってしまうほどの威厳を漂わせているザラキエルになっていた。声質もいつものザラキエルより低くなっている。

「救世の因果が開かれている今、救世者に救世をもたらさん——」

 右手の人差し指に光が集まっており、その人差し指は僕を指していた。

「救世者よ、さらば——」

「あ——」

 人差し指に集まっていた光は僕に向かって放たれ、僕の胸を貫通した。

 光に貫かれた瞬間、僕の意識は刹那として消えた。

 ああ、これが死という感覚——。

 これが救世——。

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