第15話 僕が背負うべきもの
あの事故からどれくらい日が過ぎただろう。もう僕は時間の感覚ですら失っていた。
学校に行かなければいけないのに、制服を着て、鞄を背負って歩いている。
コツン、コツンと靴音が響く。
綺麗に清掃されている廊下を僕は歩いていた。
どこに向かっているのかって?
分からない。だけど僕の足が、体が勝手に動いている。
すれ違う人は白衣を着ていた。たまに私服っぽい人も混じっている。
白衣の人たちからは「次はあの人の検査ね」や「はーい、もうすぐお手洗いに着きますよ」といった声が聞こえてくる。
少し進んで、右に曲がった突き当たりより一つ前の部屋で僕の足が動きを止める。
壁に掛けられているプレートにはこう刻まれていた。
『新波晴榎 様』
と。
僕の腕が勝手に部屋の扉の取っ手を握り、横へスライドさせた。
静かな音を開けて入った部屋は殺風景に何も置いて無く、色合いもほとんどが白で埋め尽くされている。
簡易的な冷蔵庫の上には数本のペットボトルが置かれていた。どれも水がお茶といったものばかりだった。トイレに続く扉には分かりやすいように『お手洗い』と大きな文字のプレートが掛けられていた。
さらに奥に進む。左側には二人掛け用のソファが対面式で二つ置かれており、その中央には簡素な硝子製の机。床まで透けている程の透明性だ。窓にはブラインドが掛けられていて、太陽の光がこの部屋にはあまり差していない。部屋が明るいのは頭上のLED電球のようだ。
そして右側。そこには大きなベッドが立っており、大きな機械がピッ、ピッと定期的に電子音を出していた。医療ドラマ等でよく見るジグザグのグラフが示されている。
ベッドで寝ているのは、部屋のプレートにもあった晴榎だった。
晴榎の顔には酸素マスクが取り付けられ、布団から出ている腕には点滴の針が大量のテープと共に刺さっている。晴榎の黒茶色の髪の毛は短くまとめられ、白色の包帯がそれらを包んで巻かれていた。
晴榎のこの様子は痛々しく、僕はとても見てられない。
「晴榎……」
ザラキエルから聞いた話だが、晴榎は一命を取り留めたらしい。
だけど意識が未だに戻らない。
それに、車を運転していた人は齢八十を超えていたご老人だったようだ。認知症を患っていて、昨日免許を返納したばかりなのに、それを忘れて車で出かけてしまったとのことだ。そのご老人も今はこの病院で入院している。晴榎の病室を訪れた際、一回だけその老人の家族と対面した。だけど何を話したかは覚えていない。
僕は晴榎が一命を取り留めたことに少しだけほっとしたが、自分の不幸体質のせいで晴榎に傷を付けてしまった罪悪感に日々苛まれている。僕の体が晴榎の病室に足を向けたのは、この罪悪感を無くすために謝罪をしろと言っているようなものだ。
それ自体は間違っていないし、僕も僕の体には否定が出来ない。
だけど、謝罪で済むべきことじゃないと言うのは一番僕が分かっている。
「…………」
僕は点滴の針が刺さっている腕の掌に、自分の手を重ねた。
晴榎の温もりが伝わってくるが、以前のような活発で溌剌とした温もりでは無い。ただ生きていることを証明付けるものに過ぎなかった。
「ごめん……晴榎……ごめん……」
晴榎の手を優しく握り、内に秘めていた謝罪を吐露する。
晴榎から返事が返ってくることは無い。
「ごめん……ごめんね……」
僕から言える言葉は「ごめん」の一点だけ。それ以外に晴榎に言える謝罪の言葉が見つからなかった。
実は晴榎の一報を聞いた日からザラキエルとは一度も会っていない。学校の方は理由無しの欠席、僕の家にも帰った痕跡は一切無かった。一報を聞いた時にいたので大天使長への報告は済んだはずなのに何故いないのか。
やはりあの事故は、ザラキエルの力が無かったから起きてしまったのではないか。大天使長も徴集のタイミングが悪すぎると恨んだこともあった。ザラキエルも要請に応じず一緒に来てくれればこんなことは起こらなかったのにと、恨みをぶつけたこともある。
だけど恨んだってもう事は起きてしまっている。後の祭りだった。
僕は晴榎の手から自分の手をそっと離し、シーツの上に静かに置く。
「ごめん、そろそろ行かなきゃ。また来るよ」
目を覚まさない晴榎に軽く手を振って、病室を出ようとする。
その時、病室の扉が静かに開き、二人の男女が入ってきた。
「樹生君、来てたんだ」
入ってきたのは晴榎の父親と母親だ。母親の方は手に色とりどりの花束を持っており、大事そうに抱えている。僕に声をかけてくれたのは父親の方だった。
「…………」
母親は僕を目にしても何も言わず、晴榎のベッドの近くにあった棚の上から花瓶を取り、そそくさと部屋を出ていってしまった。
「もう行くのかい?」
「はい……学校に行かないと……」
「そうか。君が来てくれてるだけで晴榎は喜んでいるだろう。いつもありがとう」
「え——」
お礼を言われる筋合いでは無い。晴榎に怪我をさせて入院までさせてしまっているのは僕のせいなのだから。
「そんな……僕はただ……」
言葉に詰まってしまった。どう晴榎の父親に言えばいいのか分からなくなった。
僕は行き詰まった言葉を別の方向に持っていく。
「おじさんは……僕のこと、怒らないんですか……」
「うん? どうしてだい?」
「おばさんはどう見ても僕のことを避けているように見えるんです。それに怒ってるように見えて……だから……」
「あっはっは、そんなことか」
晴榎の父親は腰に手を当てて笑った。
「俺は怒ってなんか無い。むしろ樹生君が晴榎と一緒に色んなことしてくれて嬉しいんだよ」
「え……?」
「樹生君と一緒に何をやったのか、学校での出来事はどんなことだったのか、いつも夕食時に楽しそうに話してくれるんだ。俺はその話を聞くのが一番好きでね。もし樹生君がいなかったら晴榎はあんな風に楽しく話してくれないだろう。だから、いつも一緒にいてくれてありがとうって思ってるんだ」
「そんな……だって……晴榎に怪我させたの、僕なんですし……」
「君の怪我が多いのは俺もよく知ってる。晴榎もよく怪我してたしな。そりゃあ愛する娘を傷付けられたって考えると、妻のように樹生君を恨むのが正解なんだろう。だけど樹生君は意図的に晴榎を傷付けた訳じゃ無い。そうなんだろ?」
「そ、それは……そうですけど……」
恐らくこの感じだと晴榎の父親は僕の不幸体質のことを知っているだろう。晴榎が話したのかもしれないが。
「じゃあ俺は怒らない。それに前、話してくれたじゃないか。晴榎は樹生君を守るために樹生君を突き飛ばしたって。そこに樹生君が晴榎を怪我させた責任を負う必要があるかい?」
「…………」
「答えはNOだ。君が責任を負う理由なんか無い」
違う、違う。この責任は僕が負うべきものなんだ。
あの事故は僕の不幸体質が引き起こしたもの。つまり車に轢かれるべき存在だったのは僕で、ベッドに横たわるのは晴榎じゃなく僕のはずなんだ。晴榎は僕の不幸体質に巻き込まれただけ。車の運転手も僕の不幸体質に巻き込まれただけなんだ。
「だが——」
晴榎の父親は小さな間を置いて僕を見つめる。
「どうしても樹生君が責任を負うんなら、樹生君が俺たちに言えないようなことを包み隠さず話してくれ。それによって俺は樹生君に対する評価を改めよう」
「それは……」
つまりそれは僕の口から不幸体質のことを話さなければいけないことだ。この事故のこと、今まで晴榎を巻き込んでしまった出来事も含めて。
「勿論、今すぐ話してくれとは言わないし、無理に話してくれなくたっていい。樹生君だって両親に隠しているようなことの一つや二つくらいはあるだろう。それと同じさ」
「…………」
「おっと、ちょっと説教っぽくなっちゃったかな? 悪いね、今言ったことは忘れてくれ。こういった雰囲気になるの、俺は好きじゃないんだ。それに今ここは晴榎の病室だからね」
ははっと晴榎の父親は笑って、備え付けてあるテレビにカードを差し込んだ。電源を付け、リモコンを操作してニュース番組を流す。数秒経った後、テレビの電源を消した。
「樹生君、また晴榎の様子を見に来てやってくれ。樹生君がいてくれた方が、晴榎も早く目覚める気がするんだ。何となくだけどさ」
「…………分かりました」
すぐに「分かりました」とは言い出し辛く、少し躊躇ってから言った。
晴榎の父親に向かって軽く頭を下げると、病室から出ようと扉まで向かう。
扉に手を掛けた途端、静かにスライドして開き、晴榎の母親が花を花瓶に挿して戻ってきた。そして僕を一瞥するや否や、ささっと通り過ぎて花瓶を元の場所に置く。
「し、失礼しま——」
「樹生君、ちょっといい?」
少し強ばった声で晴榎の母親が僕を呼び止めた。
「え……?」
「私の質問に答えて。いい?」
「は、はい……」
強ばった声質は僕に威圧感を叩き込み、怒りを露わにしているのが目に見える。
取っ手に掛けていた手を離し、晴榎の母親が見える場所まで戻った。
「樹生君、何で毎回晴榎の面会に来てくれるの?」
「それは……」
晴榎の様子を見に来るためとは言えない。
僕だって晴榎の様子を見ると、僕が怪我を負わせたんだという罪悪感が胸を締め付け、とても息苦しくなる。だけど、それでも晴榎の様子を見に来ないといけないという謎の使命感が僕の体にインプットされているようだった。
「答えられないのね」
「…………」
最早黙るほか無かった。
「答えられないのなら、もう二度と晴榎の様子を見に来ないで」
「え——」
一方的に告げられた言葉を僕はすぐには理解出来なかった。
「聞こえなかった? もう二度と晴榎の様子を見に来ないでって言ったの。面会もしに来なくていい。分かった?」
「…………はい」
押し止めた小さな声で僕は頷いた。否、頷くしかなかった。
無意識の内に手は握り拳を作り、何者にも言えない悔しさを体現しているようだった。
「分かったら出てって。もう金輪際、晴榎と関わらないで。澄奈とも縁を切るから」
「…………」
静かに病室のドアをスライドさせて部屋を出る。晴榎の母親から受けた言葉の針が僕の胸を、脳を、体をちくちくと痛めつけていた。
タンと扉が閉まり、僕は扉に背を預け、病院の天井に付けられている蛍光灯を意味も無く眺めた。白い光が僕の目を焼く。
晴榎の母親が僕を恨んでいることは明白だった。だけど今までこうして言葉を投げつけられたことは無い。ただ無言で通り過ぎるだけだった。きっとこうして言葉を投げつけてきたのは、もう僕に対する鬱憤が限界だったのだろう。
金輪際、晴榎と関わるな。その言葉はあまりにも僕の脳内をぐるぐると巡っていた。
『おい、いくらなんでもあの言い方は……』
病室の扉越しから晴榎の父親の声が聞こえてくる。聞くつもりは無いのに、耳はその声に傾けていた。
『あなたこそ分かってるの!? 晴榎がどんな状態なのかって!』
『勿論、分かってるさ——』
『分かってないから言ってるんでしょ!? よく目を覚まさない晴榎の前でそんなにのうのうとしていられるわね! 少し気持ち悪いわ……』
『…………』
『いい? あの子はこれまでに何度も晴榎に傷を負わせた、怪我をさせた。そして挙げ句の果てには事故まで負わせた! これはもう覆りようのない事実なの! あの子は疫病神なのよ!』
疫病神……か。確かに僕にとって相応しい呼び方かもしれない。僕が疫病神だとするのなら、僕の不幸体質は厄をばらまく根源といったところだろう。
『いい? あなたももう二度とあの子と関わらないで』
『くっ……わ、分かった』
もうこれでこの病室に来ることは出来なくなってしまった。であれば立ち去るしかない。
僕は背を預けていた扉から離れて、ゆっくりとぎこちない足取りで晴榎の病室から去った。
病院のエントランス。
様々な人々が診察待ちだったり、看護師と会話していたり、入院患者との面会をしていた。
『十三番、藤空様』と電光掲示板が更新され、杖をついたお爺さんが看護師に引き連れられて診察室に入っていく。
僕はエントランスを通り過ぎ、南口の自動ドアから出ようとする。
とそこで——
「やっぱここにいたのね。樹生君」
「橋里先生……」
養護教諭の橋里先生が、看護師たちに見えるような白衣姿で僕の目の前に立った。
「どうしてここに……」
「そりゃあ私、養護教諭だもの。晴榎ちゃんの様子を見に来て、管理職と担任に報告する。必然の義務よ」
「そ、そうですよね……」
「本来なら担任が行かなきゃいけないんだけど、授業の連続っぽいし、あの事故で通報したの私だしね。だから責任持って私が見に来てるって訳。まぁそれに、晴榎ちゃんの担当の看護師が私の知り合いってのもあるし」
「そうなんですね……。今なら晴榎の部屋におじ……晴榎の父親と母親がいます。見舞いに来てました」
「あらそう。ちょうどいいタイミングね」
橋里先生を今の状態の晴榎の母親が受け入れてくれるのだろうか。単純に僕だけがダメだということもある。
「で、樹生君はこれから学校に行く感じよね?」
「はい」
「ちょっと訊くけど、無理して学校に行ってない?」
「い、いや——」
「いーや、絶対無理して学校行ってるでしょ。そんな精神状態で授業の内容、頭の中に入ってきてる?」
「…………」
「ほら図星。別に無理して学校に行くのは構わないけど、事故を目の当たりにした樹生君のメンタルの方が私は心配なの。たまには休むことも大事。そうでしょ?」
実際、橋里先生が言ったことは本当のことだった。あの事故の日以降、僕は晴榎の様子を見に行ってから学校へ遅刻して行っている。だけど授業の内容が頭に入ってこない、思いがけない場所で転倒して怪我をしてしまうといったことを起こしている。
一田君や周りのクラスメイト、担任の先生からも「帰った方がいい」と助言されているが、結局僕は無理して学校生活を送っていた。
「今の樹生君、どんな顔してるか分かる?」
「そんな酷い顔してます……?」
「してるも何も、もう目が虚ろよ。さっきだってふらふらと歩いてたじゃない。そんな様子で私が学校行かせると思う?」
橋里先生は手に持っていたバッグから携帯を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。
「あ、もしもし、養護教諭の橋里です。管理職お願いできますか?」
「あの……橋里先生?」
どう見ても学校に電話をかけている。連絡しなくてもいいのにと言いたかったが、橋里先生は「大人しくしてなさい」というような手振りで僕を制止した。
「橋里です。今、六咲市民病院で幸河樹生君を見つけましたが、精神状態が不安定なのでこのまま家の方に返そうと思います。はい、はい。親さん方の方には私から連絡しますので——はい、ではよろしくお願いします。失礼します」
タッと携帯の通話終了ボタンをタップし、鞄の中にしまった。
「はい、これで樹生君は今日は学校に行けません。分かったら大人しく家に帰ってなさい」
「でも……」
「でもじゃない!」
突如エントランスに響き渡る橋里先生の怒声。
ピリピリとした緊張感と威圧感が僕を圧倒し、周囲の人々はみんな僕たちの方を向いていた。
「本当に樹生君は自分のこと分かってないの? そんな状態で学校生活を送ったとしても無意味なだけ。授業も何も分からない、頭に入ってこない。友人関係も徐々に薄れていって孤立するだけよ。それによく怪我をする樹生君のことなんだから、大きな怪我をするのは明白。怪我のことは樹生君が一番分かってるんじゃないの?」
「…………」
「樹生君の精神が不安定なのは晴榎ちゃんの事故のことだと思う。きっと樹生君は晴榎ちゃんが事故に遭ったのは自分のせいだと思い込み、事故に遭った責任は自分にあるって思ってるんでしょ?」
橋里先生にまで僕の考えが見透かされている。
「でもね、それは履き違いよ。樹生君が自分から起こしたんじゃないんでしょ?」
「…………」
「それなら尚更、樹生君が罪悪感に苛まれる必要は無い。今の樹生君に出来ることはゆっくりと休養を取って、晴榎ちゃんの無事を祈ることでしょ? 晴榎ちゃんだって、今の精神が不安定な樹生君は見たくないはずよ。元気な晴榎ちゃんに振り回されて、よく怪我をする樹生君が見たいはず。そうじゃない?」
「……少しバカにしてます?」
「まさか。でもほら、少し表情が和らいだ」
言われてみれば、妙に顔の筋肉が緩まったような気がする。
「うんうん、やっぱり私も振り回されて怪我する樹生君の方が樹生君らしいもん。今のように不安定で悩みに悩みまくってる樹生君は普段の姿じゃ無いから。人生に悩め若人よ、ってよく言うけど、私は敢えてこう言わせて貰うよ」
橋里先生は僕の頭をぽんと撫でてこう言った。
「人生には休憩も必要よ、若人」
カッカッと靴音を鳴らして、橋里先生は病室の方へ向かっていった。
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