第14話 蝕まれる最大の不幸
「いってきまーす」
樹生は少し楽しそうに玄関の扉を開けて晴榎の家に向かった。
時刻は午前九時五七分。
玄関でザラキエルは樹生を「いってらー」と見送る。玄関の鍵をガチャッとかけて樹生の部屋に向かう。
部屋の窓を開けて樹生が晴榎と合流し、六咲市大体育館へ向かったのを遠眼で見る。
「私も行くかな」
窓から身を乗り出して光輪と翼を顕現する。
翼をバサッと広げ、他の人間から感知されない力をかけて飛び立つ。
不審者が入らないよう窓を閉めて、ロックをかけて樹生の後を上空から追う。
六咲市民美術コンクール開催初日の土曜日は嫌気が差す程の快晴。これなら樹生の不幸体質で雨が降っていた方がマシかなと思うザラキエルであった。
「樹生様が侵蝕されるとはいえ、晴榎ちゃんにも辛い思いさせちゃうな……ごめんね」
ザラキエルがエレボスの侵蝕から感じた気は、樹生に降りかかる史上最悪の不幸そのものだ。樹生が不幸に飲み込まれるということは、必然的に近くにいる晴榎にも辛いものを見せてしまう。
それにエレボスの侵蝕は既に樹生の大半を蝕んでいる。ザラキエルはおろか、大天使長でもエレボスの侵蝕を止めることは不可能になりつつあった。
樹生と晴榎は東高へ向かういつもの通学路を通っている。三車線の大きな交差点を渡らなければ東高へ行くのだが、六咲市大体育館はその三車線の交差点を渡らなければならない。非常に交通量が多い場所のため、樹生の不幸体質が車を呼び寄せることも捨てきれないのだ。
いや、侵蝕はここで起こる。絶対に、確実に、無慈悲に。
ふとザラキエルは樹生たちから視線を外し、全く別方向の場所を見ていた。
「——出たか」
樹生を侵蝕する最悪の元凶が動き出した。
ザラキエルは樹生が侵蝕される原因を知っている。侵蝕日が今日だと推測したあの日、浄化の最中にその原因を予知していたのだ。だがそれはザラキエルが干渉して遅延させたとしても必ず起こりうるものとなっており、止めることは出来なかった。
「はぁ……せめて精神安定の力でもかけておこ……」
そうこうしている間にも樹生と晴榎は歩みを進める。
坂道が交わる赤色の交差点を通り、三車線の県道へ出る。
あとはこのまま県道の歩道を進み、その場所を右に曲がってさらに歩道を進めば東高、その県道を真っ直ぐ進んで交差点を渡れば六咲市大体育館だ。
土曜日だからか県道はそこまで自動車が走っていない。疎らに走ってはいるが、ガラ空きも同然だった。
交差点を渡ろうとした樹生だったが、歩行者信号が丁度赤を指し歩みを止めた。
「晴れてよかったわね」
「そうだね」
「いつもだったら樹生の不幸体質で雨のはずなのに」
「あ、あはは……ザラ……じゃないエルのお陰じゃないかな?」
「え? エルちゃんが? 何で?」
「あー……えっと……ほら、ここ最近雨が降ってないでしょ? 僕が一人だったら絶対雨が降るはずなのに、エルが留学しに来てからほとんど降ってない。だからエルの加護? とかエルが晴れ女だったとかそんな感じじゃないかな?」
樹生の少し苦しそうな言い訳にザラキエルは上空から笑みを漏らした。
「なるほど! エルちゃん晴れ女っぽいもんね」
(よかった……)
上手く誤魔化せた樹生は安堵の息を吐く。
「樹生ってエルちゃんが来てから怪我もあんまりしなくなったよね。もしかしてエルちゃんが樹生を守ってくれてるのかな?」
「え!? ど、どうだろう……」
ザラキエルの正体が晴榎のバレたのかと焦った樹生。心臓の鼓動が途端に早くなる。
「でも心配しないで! 例えエルちゃんがいなくても、私が樹生を守ってあげるから!」
「……うん。ありがと。晴榎がいてくれれば心強いよ」
晴榎は親指をグッと立ててドヤ顔をキメる。
(晴榎が僕を守ってくれるのは嬉しい。けど、守って貰った代償として晴榎が怪我をしてしまったら僕はどうすれば……)
いやいや、そんなことは起こらない、と首を振って考えをかき消す。
今のことは一旦忘れて、話をちょっと前に戻した。
「ちょっと話戻るけど、晴れってことはバザーもあるよね?」
「うん。昨日準備しに行った時、設営してるの見たよ」
六咲市民美術コンクールはちょっとした祭り感覚であり、バザーが開催される。焼きそばやたこ焼き、フランクフルト等の屋台でよく見るようなものばかりだが。
「お昼そこで済ませちゃう?」
「うーん……そうしようかな。エルに土産の焼きそばでも買っていくかも」
「あっ、それいいね。私もエルちゃん用に何か買ってこー」
そうしている間に車の信号機が右折の右矢印を出していた。曲がる車は二、三台くらい。
信号が黄になり、緑の矢印が消えて赤になる。少し間を開けて歩行者信号が緑に変化した。
車が発車しだし、樹生と晴榎も横断歩道を渡ろうとする。
「バザー楽しみなんだけど、ごめんね、樹生様、晴榎ちゃん」
ザラキエルは人差し指と中指の二本を立てて、二人に向けて十字を切る。
指を重ねて二人に謝罪した。
謝罪の言葉は樹生と晴榎に届かない。
横断歩道に一歩踏み出す。二歩踏み出す。
そんな中、樹生の方を見ていた晴榎が何か異変に気付いた。
車が迫ってきているのである。
交差する信号は先程赤になったばかり。
なのに止まれる速度じゃない。
その距離はみるみると縮まる、縮まる。
ちょうど片側三車線の横断歩道の真ん中を通っていた晴榎は、樹生に車の存在を知らせる。
「樹生! 後ろ!」
「え——?」
その距離五十メートルも無い。
ドッ!
「うわっ!?」
晴榎は思いっきり樹生を押し飛ばし、三車線の安全地帯へ追い込む。
安全地帯に転げ込んだ樹生。少し擦りむきながら起き上がる。
逆に晴榎は歩道へ戻った。樹生を押した反動を利用して後ろへ下がる。
「うわあああああっ!」
運転手は今頃二人の存在に気付き、ブレーキを勢いよく踏んだ。
キイイイイイイィィィィィッッッ!!
猛スピードの車は急には止まれない。
このままでは二人にぶつかると思い、左にハンドルを切った。
左——晴榎が戻った方向に。
「え——」
ギャッシャアアアアアアアアン!!
車がガードレールに衝突した。
晴榎を巻き込んで——。
「えっ——」
何が起きたのか理解が出来ない樹生。
エアバッグが開いて体を預ける運転手。
ぐしゃぐしゃに凹み、原型の形もないガードレールと車。
歩道で倒れている晴榎。
「は、晴榎ぁ!!」
樹生は大きく叫びながら倒れている晴榎の元に駆け寄った。
「晴榎! 晴榎!!」
横たわる晴榎の体を揺さぶり、必死に晴榎の名前を呼ぶ。
しかし、返答は——無い。
倒れている晴榎の頭や腕からは血が流れていた。
綺麗だった服装は血や砂で汚れ、一部が破けている。
目は閉じており、体もだらんとしていた。
「あ——ああ——」
晴榎が倒れている。
一体何で、どうして?
血が……血が出ている。
晴榎の声が、聞こえない。
「あ、あああっ……」
樹生はぐったりと横たわっている晴榎を見て思考が真っ白になる。
横たわる晴榎の腕を持ち、膝をつく。
快晴の空を向き、零れてくる涙を流し、言葉にならない嗚咽を吐く。
樹生は絶望に染まっていた。
事故が起こっていながらも見て見ぬふりをして通り過ぎるドライバーたち。巻き込まれたくないからか、窓からは悲痛な表情が浮かんでいる。
とそこに——
「樹生君!」
一人の女性が事故現場近くに車を止めて、絶望に打ち拉がれている樹生の元に来る。
だが、その女性の声は樹生の耳には届かなかった。
「樹生君! しっかりして! 私よ! 橋里よ!」
東高の養護教諭である橋里が、樹生の肩を揺さぶって意識を取り戻そうとする。
それでも、樹生は橋里の方を見なかった。
「何があったの!? ねぇ!?」
樹生からの返答は無い。
「聞こえてないっぽいわね……原因は後で聞くとして今は——」
橋里は樹生との対話を諦め、倒れている晴榎に呼びかける。
「晴榎ちゃん、聞こえる!? しっかりして! 晴榎ちゃん!」
晴榎からの返答も無い。
橋里は樹生が大切そうに持っていた腕を持ち、手首付近に自分の指を当てる。
「脈はある……気を失ってるだけっぽそう。だけど——」
歩道に広がる血液が橋里の鼓動を加速させる。
「出血が多い……それに頭も打ってる。早くしないと——」
晴榎の腕を優しく歩道に置き、自分の車へと戻る。
ナビ用に固定していた携帯電話を持ってきて、一一九番をかけようとする。
「橋里先生?」
電話画面を開いた途端に誰かに呼びかけられて振り返る。
そこには野球のユニフォームを着て、自転車に乗っている一田が不思議そうに見ていた。
「何してんすか?」
「見れば分かるでしょ!? 事故よ事故!」
「そ、そりゃあまぁ——って幸河!? 新波!?」
一田は事故現場を覗き、そこにいた樹生と晴榎に驚きの声を上げる。
「大丈夫なんすか!? あの二人」
「多分ね。だけど状況は分かったでしょ!? だったら一田君も手伝って!」
「う、ういっす。で、俺は何をすれば……」
「一一〇番して! 今すぐ! 私は一一九番するから!」
「うっす!」
一田は背負っていた野球鞄から携帯を取り出し一一〇番する。
(一一〇番とか初めてなんだが……)
同じように橋里も一一九番をかけて今の状況を事細かく説明した。
(樹生君、ツイてないってレベルじゃないわよ……)
「救急です——」
「頃合いね」
上空から事故の様子を見ていたザラキエルは、樹生が絶望に落ちていく様を眺めていた。
同時にエレボスの侵蝕が湧き出て樹生を包み、全てを侵蝕している光景も。
樹生の涙も、胸の内に秘めていた魂までも。
「これも君を救世へ導くための一歩なの。悪く思わないで」
ザラキエルは冷酷に吐き捨てる。
「——死の因果からは逃れられない」
それだけ言って樹生を助けること無く別方向へ飛び去った。
下では救急車と警察のサイレン音が鳴り響いていた。
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