第13話 着々と迫る運命の日
誰もが寝静まった深夜。光も差さない闇の刻。
ザラキエルは寝静まった振りをして、樹生の部屋に忍び込んでいた。
「…………すぅ」
布団に包まって静かに寝息を立てて眠っている樹生は愛くるしく、無垢に見えた。
「ああ……樹生様……ってダメダメ。確認しないと」
頭の中を横切った邪な思考を切り捨て、ザラキエルは本来の目的を果たすために動く。
布団に包まりきらなかった樹生の腕に自分の腕を近づけて、天使の象徴である翼と光輪を顕現する。闇を切り裂くような眩い光の天使光が放たれたが、自分の力でそれを抑えた。
そして樹生の腕に向かって浄化の力を放つ。
グチャ……キチャ……ペチャ……。
「——っ! ったく、慣れないな……コレ」
黒いヘドロのようなもの——エレボスの侵蝕が樹生の腕から蛆虫のように湧き出てくる。
浄化の力によって白い光に包まれたエレボスの侵蝕は、断末魔のような悲鳴も死に際に最後の力を振り絞って行ってくる抵抗もせずに消えていく。
エレボスの侵蝕の量は樹生の腕を覆う。
顔を覆って、布団を覆って、全身を覆う——
「——ぐっ!」
ついには樹生の寝ているベッド全部を覆い尽くす程の、エレボスの侵蝕が有象無象に湧き出てきた。
グチャキャチャ……と聞くにも耐えない水のような音の共にエレボスの侵蝕は、ザラキエルまでも包み込もうと動く。
「——エレボスの劣等種共がぁ!」
ザラキエルは掌を床に叩きつけ、小さな水色の魔法陣を展開した。魔法陣からは視界を消し去る程の強い浄化の光が放たれ、樹生の部屋は白に染まる。そのまま全てのエレボスの侵蝕は悉く消滅していった。
やがて光が消え、部屋が見えるようになってくる。
樹生は何事も無かったかのようにぐっすり眠っており、樹生を覆っていたエレボスの侵蝕はいなくなっていた。だが——
グチャ……キチャ……ペチャ……。
再び樹生の腕や顔から溢れんばかりのエレボスの侵蝕が湧き出てくる。
「ますます増えてる……この様子じゃ大天使長様でもお手上げ、かな?」
ザラキエルはやりきれない感情を隠して翼と光輪の顕現を解除した。翼と光輪が消え、それと同時に樹生から湧き出ていたエレボスの侵蝕は樹生の体内へ戻っていく。
「決行は——今週の土曜」
冷たく、それでいて意を決したようなザラキエル。
「——さようなら樹生様。救世してあげるから許して」
そっと空気と闇夜に溶けるような言葉を吐いて、ザラキエルは自室へ戻っていった。
♢ ♢ ♢
ザラキエルが天界から人間界に降りてきて三週間くらい経過した。
世間は天空からじりじりと照りつける太陽が猛威を振るい始め、人間たちは涼しさを追い求めていた。
相変わらず僕の不幸な出来事は収まっていない。そればかりか僕が死にそうな目に遭うものが増えてきている。車や自転車に轢かれかける、剛速球の野球のボールが僕の頭に当たる、駅のホームで待っていたら後ろの人の鞄がぶつかってホームから落ちそうになる——というように挙げたらキリが無いくらいに僕は命の危機に脅かされていた。今日だって東高に来るまでに一時不停止の車に出会い頭でぶつかった。その車の速度がそんなに出てなかったとはいえ、もう少し速度が出ていたら僕は吹っ飛んでいたのかもしれない。
ザラキエルの方も頑張って対処してくれているのだが、まだ僕を救世するには至らないらしい。僕の不幸体質の力が徐々に強くなっているらしく、ザラキエルの力でもすぐに解決に向かわせ辛くなったとこの前言っていた。
そんなにすぐに救世されるものだと甘い考えを持っていた僕が愚かだった。
一方のザラキエルだが、既に人間界に染まりきっており、
「ねぇエルちゃん、この後私たちとカラオケ行かね?」
「あー、ごめん。ちょっと今日は難しい……かな」
「じゃあエルちゃん、買い物行こうよ買い物! あのデパートのコスメ店、新作のコスメ仕入れたってバイトの先輩が言ってたんだ!」
「本当!? あー……でも……お金が、ね?」
「なるー。それでカラオケもダメなんだ」
「そうなの。だから、ごめん」
「いいっていいって気にしないで」
「お金入ったらまた一緒に行こ?」
「そうしよっか。じゃあね」
「「じゃあねー」」
という風にクラスの女子たちと完全に打ち解けていた。最初の頃は留学生の淑女っぽく演じていたようだったが、今では素の自分を完全に曝け出しているように見える。化粧品に興味を持ち始めたらしく、クラスの女子たちからは勿論のこと、晴榎の母親から試作品の化粧品の実験台っぽいようなこともし始めた。前にザラキエルの部屋を覗かせて貰った時は、ドレッサーの前にこれでもかと言うほどの化粧品が並んでいて困惑した。
東高は過度な化粧さえしてこなければ生徒指導の先生は特に何も言ってこないので、化粧に敏感な女子たちは盛らない程度にしてきている。ザラキエルもその内の一人だった。
男子たちからは「変わっちまったな……」と嘆く声があちらこちらから聞こえてくる。それは僕の前の席の一田君も例外では無かった。
「なぁ幸河、冴良木さん何であんなに変わっちまったんだよ!」
「ぼ、僕に言われても……」
「だってお前一緒に住んでんじゃんか! 動向くらい分かっただろ!」
「ええ……そんな無茶苦茶な……」
ずっと天界で見守っていた天使なのだから、見守っている最中に気になるものが出来たとしても不思議では無い。それがたまたま化粧品だったというだけだ。
そうこうしている内に放課後の時間は過ぎていく。
「一田君、野球部の方はいいの?」
「あっ! いっけね!」
慌てて鞄をひったくるように取ってドタバタと教室を去って行った。
「はぁ……一田君は一体何だったんだろう……」
少し溜め息を吐いて鞄を持つ。ザラキエルの方も会話が終わったようなので、鞄を持って僕の所に来た。
「晴榎ちゃん、作品をトラックに積んだらすぐに来るって言ってたよ」
ザラキエルは携帯の会話アプリの履歴を見せてくる。
ザラキエルの携帯は二週間程前に契約したものだ。今の時代、携帯無しで生活するのは不十分だろうという理由で母さんが契約した。引き落としの口座は母さんのものだが、ザラキエル曰く「その辺は大天使長様が動いてくれるから問題無い」と言っている。天界がサポートしてくれるとは言え、人間界のお金をどうするのか不安で仕方なかった。金を司る天使とかいるのだろうか。
「ああ、そっか……明後日だもんね……」
今週の土曜に迫った六咲市民美術コンクールで美術部の方は大忙しらしい。
絵はかなり前に出来上がっていた用だが、何やら付け加えたいものがあるからと、部長と顧問の先生を揉めたらしく、本当に完成したのは一昨日らしい。昨日はその疲れが祟ったのか、学校が終わるや否や家に帰って眠ったと聞いた。
「それで、君はこのコンクールっていうの見に行くの?」
「勿論だよ! 晴榎がどんな絵を描いたのか気になるし」
今日に至るまで晴榎は一切絵に関する内容を言ってくれなかった。秘密にしたい気持ちは分からなくもないが、どんなものを描いたのか大雑把にでもいいから教えて欲しかった。
「そっか……ふーん……」
ザラキエルは何故か顎に手を当てて考え事を始めた。
「どうしたの?」
「あ、いや……ちょっと……」
何だろう。ここまでザラキエルが狼狽えるのも珍しい。今週の土曜日に何かあるのだろうか。
「もしかして今週の土曜日、一緒にコンクール見に行けないってこと?」
「——え?」
「あれ? 違った?」
「あ、ううん。そうよ。実はその土曜日の日、実は用事があって……」
「用事? あの女子たちと遊ぶこと?」
「違う違う。もっと別」
「別……?」
僕はザラキエルの別の用事が何なのか検討が付かなかった。
「実はその日、大天使長様に報告しないといけないの。救世の現状報告的な?」
「大天使長様に?」
「そ。ちゃんと私たちが人間たちの救世に向けて動いているのかーとか、今の人間界についてとか、救世の人間はどうなのかーとか、そういったことを報告するのよ。しかもこの日は救世に動いている全天使が大天使長様の元に集まるの。つまり行かないと……ヤバい。行かなかったら明けの明星落ちてくるし」
「そ、それは……ヤバいね」
「でしょ!?」
大天使長に報告しないといけない、必ず出席ということなら一緒にコンクールが見に行けないのも頷ける。ザラキエルも人間界に来た時に言っていたが、天使にとって救世は使命なのだ。救世の現状を大天使長が把握する上で報告は必要なのかもしれない。
「うん?」
「どーしたの? 何か変な点あった?」
変なのかどうなのか分からないが、こればっかりはザラキエルも知っているかどうか怪しい。
「ねぇザラキエル、大天使長ってどこにいるの?」
「あ、ああ……えっと……」
ザラキエルも分かっていない様子だ。報告するとは言え、事前にどこで報告するのか聞かされてなかったのだろう。
「多分……バチカンじゃないかな? 他の天使も日本って言われても分からない奴いるから。バチカンなら『天の涙落が落ちて救世の因果が開かれた』ってあの場所で大天使長様が仰せつかったし、あの時は救世に動く天使全員いたし」
「そっか……」
再びバチカンまで飛ぶとなると一日はかかるだろう。つまりコンクールを見に行く時はザラキエルの力無しで過ごすことになる。
最近の不幸な出来事の傾向を見ている感じ、ザラキエルの力無しで出かけたら死は免れないかもしれない。大人しく家で過ごすのが一番だと思うが、晴榎はそれを許してくれないだろう。
何たってコンクール初日にその絵を真っ先に僕に見せたがっているのだから。
「分かった。土曜日はザラキエルの力無しで頑張ってみるよ」
「私も報告が終わったらすぐに向かうから。死なないでよね」
「……ぜ、善処してみるよ……」
車や自転車に轢かれそうになった、駅のホームから落ちそうになったような不幸な出来事は、ザラキエルの力があってこそ僕はこうして生きながらえている。無惨な遺体の姿で発見されてもおかしくない日常だったのだ。
「校門で晴榎待ってようか」
「ん」
机の横に掛けてある鞄を持ってザラキエルと一緒に教室を後にした。
美術部の作品積み込みは僕が想定していたものよりも早く終わったようだ。
校門で五分くらい待っていると晴榎から「終わったー今どこ?」とメッセージが来たので「校門で待ってるよ」と返信をした。可愛いキャラクターの「OK」スタンプが届き、数分待っていると晴榎が駆け寄ってきた。
「じゃあ帰ろうか」
そうしてバスに乗っていつもの帰路につく。
バスに揺られて降りて住宅街へ。
「——でね? 部長ったら——」
「あ、あはは……」
何度聞かされたか分からない美術部部長の愚痴を吐く晴榎。僕は苦笑いを返すことしかできず、ザラキエルは何食わぬ顔で歩いていた。
「ねぇねぇエルちゃん、エルちゃんもコンクール来るでしょ?」
「え? も、勿論……」
「本当!? エルちゃんにも私の絵、見てもらいたかったんだー」
「どんな絵を描いたの?」
「それは秘密だよー。実際にコンクールに来てからのお楽しみ!」
ザラキエルまでも絵のことは秘密らしい。こういうお転婆なのに強情で頑固なところは昔と全然変わっていない。
「そうなの? じゃあ期待しておく。だけど、土曜日は私用事で一緒に行けないから、日曜日ゆっくりと見させてもらうよ」
「土曜日無理なの!?」
「うん、ちょっとね」
流石に大天使長のところに行くとは言えまい。ザラキエルも言い訳が少し苦しそうだ。
「そっかぁ……エルちゃんとも一緒に行きたかったんだけどなぁー」
「また今度のコンクールの時に誘ってよ。なるべく予定は入れないようにしておくから」
「うん! 分かった!」
次の六咲市民美術コンクールは来年だ。来年まで僕が救世されずに生きていたら、必然的にザラキエルもいることになる。それに来年は高校三年生、卒業制作のようなものだ。晴榎も最後の集大成として僕でも想像が付かないような絵を描くのだろう。
「じゃあ樹生、十時に私の家来てね。一緒に行こ」
「分かった。十時だね」
六咲市民美術コンクールが開かれる場所は、六咲市大体育館と呼ばれる場所で行われる。六咲市役所の隣にあり、一階部分は講義場、二階部分が体育館となっている。広い体育館に大きな仕切りが設けられ、壁や仕切り全体に六咲市の小中高校の美術作品が並ぶ。
「東高の場所ってどの辺になるか聞いてる?」
「うーんと……確か北側の奥……入って右手の奥って言ってたような気がする。まーいいって、明日飾りに行くからそのついでに確認してくるよ」
「頼むね」
体育館内は学校の体育館と比べて少し広く感じる。仕切りや壁にまで作品が飾られているので、どこの場所にどの作品があるのか探すだけでも少し手間なのだ。
そんなこんなで歩いているといつの間にか自分たちの家に着いてしまった。
「じゃあね樹生、エルちゃん! また明日!」
腕をブンブン振って家に駆け込む晴榎。僕とザラキエルはその様子を微笑ましく見守って家に戻った。
金曜日の深夜、丑の刻。
ザラキエルは一人、窓を開けて翼と光輪を顕現して六咲市上空に飛び出していた。
バチカン方面を向き、指を重ねる。目を閉じ、首を少し下に向けて小声で発した。
「ああ、我らが天使神様よ。どうか天使神様の御心のままに」
ヒュオォと夜を駆ける涼風がザラキエルの髪や肌を撫でる。
「大天使長様、我ザラキエル、救世の刻来たれり」
送電塔の航空障害光が怪しく、不気味に世界を照らす。
「必ず使命を遂行してみせる故、どうかお見守り下さいませ」
それから強く深く大きく念じる。
もはや人間界の喧騒はザラキエルの耳には一切届かない。
ただひたすらに祈る。
その姿は肖像画のように美しい。
「——アーメン」
天界に伝わる詩を朗読し、最大級の祈りを天に捧げた。
組んだ手を離し、ザラキエルは「はぁ……」と息を吐く。
「こんなことしても無意味なのは分かってるんだけどなー。天使が神に祈ってどーすんのって話よ」
頭上を見上げる。薄い雲が星を覆っており、朧星の輝きがザラキエルの目に焼き付いた。
「でも、今まで見守ってた樹生様が明日侵蝕されるって分かってたら、そりゃ天主神様にもお願いしたくなるもんよ。頼れる存在、いない訳だし」
天界から見ている大天使長はどう思っているのだろうか。
天使は全において平等で在れ。
天使は全において公平で在れ。
天使たちに伝わる古の盟約の一つだ。『平等と公平の天秤において、台座は必ず水平でなければならない。傾きは天の綻びである』とされている。天使が人間を平等かつ公平に見ているように、天使を見定める大天使たちも下にいる天使たちを平等かつ公平に見定めなければならない。大天使長もザラキエルのみ特別視することは許されない。
「樹生様の救世は私の責任であり罪罰なんだから」
天に背を向けてザラキエルは空を降りる。
雲が晴れ、朧星となっていた星は大天使長の瞳のように鋭く威として煌めいていた。
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