第9話 本日の朝も不幸模様

 道路は昨日の雨でまだ乾いていなく、所々が湿っている。水溜まりに反射する太陽が目を刺して眠気を吹き飛ばす。

 夜中の土砂降りが嘘のように空は快晴だ。

「何か今日出てくるの遅かったけど寝坊した?」

「え? あ……うん。ちょっとだけ……」

「珍しいね。樹生が寝坊なんて」

「あ、あはは……」

 晴榎と登校中、僕は少しだけ気まずい雰囲気に陥っていた。

 言えるわけがない。昨日の夜中、僕の部屋に天使が僕を救世するために来たとは。

 ザラキエルから晴榎に言う時は僕の口から言わないといけないことになっているが、今はまだ晴榎はザラキエルの存在を知らないので、まだ話すタイミングじゃないだろう。

 と言っても、晴榎が天使のことを本当に信じてくれるのだろうか。昨日の帰り際に天使のことを話してきたので、案外すんなりと受け入れてくれるのではないか。

 でもザラキエルが本物の天使だということは言わない方がいいかもしれない。母さんや父さんみたいに知り合いの留学生という設定を晴榎にも植え付ける選択を取った方が安泰だろう。

「どうしたの? 何か考え事?」

「あ、いや……ちょっとだけ」

 晴榎が訝しむように下を向いていた僕の顔を覗き込んだ。

「ふーん。何か変なの」

「…………」

 やはり幼馴染というものは常日頃からお互いを見ているだけであって、お互いのことには敏感なようだ。これ以上ザラキエルのことを考えていると、いつか晴榎に見透かされそうだ。

「樹生、ちょっと今日は一緒に帰れないかも」

「絵の仕上げ?」

「うん……昨日帰った後に部長から連絡来ちゃって……『仕上げでも手を抜いたらダメだから来い』って」

 晴榎の携帯の画面に映っている連絡用アプリの文字を見た。そこには確かにそう書かれていた。

「厳しいね」

「ほっんと。部長のスケジュール通りに動いて、完成まで近づけてるってのに」

「そういえばコンクールのスケジュールってどんな感じなの?」

「えっと、まず題材作りとかスケッチとかを考えて、考えた人からは下書き。先生や部長のOKサインが出たらペン入れとかして清書。後は色を塗って、細部を仕上げて部長や先生の評価を貰ってコンクール出展って具合かな?」

「じゃあ晴榎は仕上げ段階まで来てるんだね」

「仕上げ段階まで来るのにも一苦労だったんだから……」

 はぁ……と重い溜め息を吐いた。

「もしかしてやり直し、多かった?」

「去年以上に多かった。十回は超えたかもね。やっぱもう卒業しちゃった部長の方がよかったなぁ」

 その卒業した美術部長のことは晴榎から何回も聞いているので人柄は知っている。

 非常に温厚で絵も各自の独創性を尊重していたようだ。的確なアドバイスをするだけで、今の美術部長のようにやり直しを何回も強要する人じゃなかったらしい。

 実際、晴榎も去年と比べて今年はあまり気合いが入っていないような気がする。

 少し進むと赤く地面が塗装された交差点に差し掛かった。交わる左右の道は急な坂になっている。カーブミラー付きの住宅街交差点なので道幅は広くない。ただ横断するだけなら五秒もかからない。

 カーブミラーで左右の安全を確認しつつ、壁から顔を出して左右から誰も来ないという二重確認を行った。坂の上の方に自転車らしき人影が見えるが、すぐにここまで来ない距離にある。

 不幸な出来事は起こらないだろうと思い、交差点に入る。すると——

「どいてどいてー!!」

「何!?」

 坂の上にいた自転車らしき人影が猛スピードで坂を下っていた。

 両手でブレーキを何度も握っている様子が見えるが、一向に速度が緩まらない。

 ブレーキが故障しているようだ。

 ちょうど交差点の真ん中にいた僕は急いで交差点を渡る。晴榎は危険を察知して交差点に入らなかった。

 その一瞬の内に——

 ギュン!!

 自転車は風を切るような猛スピードで坂を下り、小さな突風が巻き起こる。

「…………」

 僕は猛スピードで坂を下っていった人を心配しつつ、走り去った後を見ていた。

 晴榎が交差点を渡り、同じように坂の下を見つめる。

「な、何だったの……?」

「さぁ……でも気付いていなかったら危なかったかもしれない」

 これも僕の不幸が招いた出来事なのだろうか。あの人が叫んでいなければ僕は今日も自転車と接触事故を起こしていたかもしれない。

 それよりもこの出来事に関しては僕が不幸というより、自転車に乗っていた人の方が不幸である。ちゃんと止まれたのだろうか……。

「と、とりあえず行くよ。あの人も心配だけど僕たちが遅刻しちゃったら意味が無いよ」

「う、うん……そうだね」

 学校までの間、僕たちは周りに気を付けつつ慎重に歩き出す。

 僕たちの家から学校まではそんなに遠くない。そのはずなのだが、いつも慎重に登校しているせいで、登校時の体感時間が長いように感じる。

 晴榎がいてもいなくても、不幸な出来事は僕を襲うことを知らない。

 晴榎まで巻き込んでいることには申し訳無いのだが、晴榎も「私が好きで樹生と一緒に登下校してるんだから気にしないの」と言ってくれるのでまだ助かっている。

 住宅街を抜けてようやく都市部へ。県道や国道の歩道は歩行者専用レーンと自転車専用レーンとで分けられているので、自転車に轢かれることはない。

 修繕工事に入った歩道橋は周りが木の板で覆われていた。昨日は『工事に入ります』の看板だけ見ていたので、工事期間がどれほどまでかは分からなかったが、今出ている看板にきちんと記載されていた。どうやら工事期間は四ヶ月程かかるようだ。夏休みが終わって少し経ったくらいには使えるようになるらしい。

 昨日軽トラックに轢かれかけた横断歩道の前まで来た。横断歩道で信号待ちをしているのは僕たち以外に誰もいない。

 尻もちをついた先にあった水溜まりは少し広がっており、タイヤ痕が車道にまで続いている。

 ザラキエルの話によればあの軽トラックは反対車線の車がいないこと、ちょうど青信号になったことを気に、かなりの速度で右折して僕を轢きそうになったということだったはず。今もちょうど右折車はおらず反対車線にも車は通っていない。

 こんな如何にも安全そうに見えても、不幸は僕を襲ってくるようだ。

 カッコー、カッコー……。

 信号が青に変わった。隣の車道を注意して横断歩道を渡る。

 車は来ない。来ない。

 そして安全に横断歩道を渡り終えた。

「ふぅ……」

「どうしたの?」

「いや、何でも無い」

 いつも登校している道なのに、不幸な出来事が起こった事例があるとどうしても慎重にならざるを得ない。ある意味精神が擦り切れそうだ。

 この先は昨日小学生の傘に躓いて転んだ道路だ。今日は一日中快晴だと携帯の天気予報で伝えていた。傘に躓いて転ぶことは無いだろう。

 と思っていた矢先——

「…………」

 ずかずかと少し怒り気味のお爺さんが僕と晴榎を睨みつけながら近づいてきた。

 まるで僕たちが何か悪いことをしたような疑いの視線を送られている。

 このお爺さんとは完全に初対面である。名前も聞いたことが無く、この近所に住んでいるかどうかすら知らない。

「あ、あの……何か用ですか……?」

 恐る恐るお爺さんに声をかけてみると——

「かーっ! これだから近頃の東高生ときたら……」

 何もしていないのに、急に嫌味っぽく言われた。そして怒号を放ってきた。

「最近の東高生らはなっとらん! ワシが近づいたら言うことが一つあるじゃろうが!」

「え、えっと……」

「な、何なの……?」

 僕も晴榎もいきなり怒鳴ってきたお爺さんの言葉に疑問しか浮かんでいなかった。

 初対面のお爺さんに対して何か言うことでもあったのだろうか……。

 考え込んでいる僕と晴榎を見て、痺れを切らしたのか更に怒号を浴びせる。

「分からんのか!? 何故そんな簡単なことが分からんのだ!!」

 ダンッ!

「「——っ!!」」

 強く地面を踏んで怒りを露わにするお爺さん。

 そんなこと言われても……と思いつつ、このお爺さんが何を求めているのか推測する。

 だが、僕が答えを出すよりもお爺さんが先に答えを言ってしまった。

「挨拶をせい! 挨拶を! 常識じゃろ!」

「「お、おはようございます!」」

 僕と晴榎はお爺さんが「挨拶」と言った言葉を聞いて反射的に挨拶を言った。

 姿勢は気を付け、視線はお爺さんの方を向いて。

 これがお爺さんの求めていたもののはずだが、イマイチ違っていたらしい。

「気持ちが籠もっとらん! 何じゃその挨拶は! ワシをバカにしておるのか!?」

「「おはようございます!」」

 大きな声で、元気よく、目線はお爺さんの方を向いて、気を付けの姿勢から礼。

 まるで小学校に入学した頃のような挨拶をした。

「うむ。それで良い。最近の東高生らは挨拶をせん。それは何故か分かるか?」

「え? えっと……」

 また回答に苦しむ内容の質問である。

「ち、ちゃんと私たちは学校内で挨拶をしていますよ」

「挨拶をせんからこうして言っておる! お前は何を聞いておったんじゃ!」

「ひぃっ……す、すみません……」

 晴榎はお爺さんに恐怖を感じたのか、数歩後ろに下がって僕の肩を掴んだ。

「挨拶もせん、服装も乱れておる、ロクな奴がおらん。いつから東高は不良の溜まり場になったんじゃ」

 お爺さんは何かを後悔するように語り出した。

「いいか、そもそもワシらの時代の東高はな——」

 過去の東高と今の東高と比較しての話や、再び僕と晴榎に向けての説教を交えつつお爺さんはただ淡々と語り続けた。


 キーンコーンカーンコーン……。

 ガラララ!

「「はぁ……はぁ……」」

 朝のホームルームが始まる鐘の音が鳴っている最中、僕と晴榎は息も絶え絶えになりながら教室の扉を勢いよく開けた。

 中にいたクラスメイトと担任の先生は驚きの表情を浮かべながら僕と晴榎をずっと見ていた。

「幸河、新波。遅刻寸前だぞ。もうちょっと早く来い」

「「は、はい……」」

 僕と晴榎はくたくたの状態で自分の席に着いてホームルームに参加する。

 先生が連絡事項を話している中、前の席の一田君が椅子を傾けて訊いてきた。

「お前どうしたんだ? 遅刻なんかしないタマだと思ってたのによ」

「えっとね……途中でお爺さんに捕まって叱られてて……」

「爺さんに叱られてた?」

「うん」

「なぁ、その爺さんって濃い抹茶っぽいような色の羽織っぽいの着て、髪の毛は白髪だったか?」

「え? うん……そうだったけど……」

「あっちゃー……捕まっちったか……それなら遅刻ギリギリなのも納得だわ」

 どうやら一田君はあのお爺さんのことを知っているらしい。

「一田君、あのお爺さんのこと知ってるの?」

「ああ、野球部内じゃ有名だよ。というか東高内でも有名かもな」

 あのお爺さんが東高内で有名だとは初耳である。前校長とかそういった類いなのだろうか。

「あの爺さん、事あるごとに変な難癖付けて怒鳴ってくるんだよ。この前なんか野球部で東高周りをランニングしてたら急に現れて「気合いが足りん」とか「そんなんだから東高野球部は弱小なんじゃ」とか言ってきやがってな。もうとりあえずぶん殴りたかったわ。マジで」

「へ、へぇ……」

「それによ、昨日帰ってる最中にも色々言ってきやがってよ。ホント何なんだ一体……。で、お前は何であの爺さんに捕まったんだ?」

「挨拶をしろって言われてから、昔の東高と今の東高を比べた話をされた」

「あー……なるほど。確かにそりゃあ面倒だわな」

 ある程度話していると、お爺さんの家族の人がやってきてお爺さんを連れて帰っていってくれた。それのお陰で僕と晴榎は遅刻ギリギリではあるものの、こうして朝のホームルームに参加出来ている。お爺さんの家族の人には感謝しかない。

「幸河、気を付けとけよ。あの爺さん、帰りも東高の周りうろうろしてやがるからな」

「う、うん……心がけておくよ」

 また何もしていないのに叱られるのはたまったものじゃない。登下校ルートを少し変えないといけないかもしれなさそうだ。

「お前たちに関する連絡は以上だ」

 一田君と話しているのに意識を削いでいたため、先生の連絡事項を完全に聞きそびれてしまった。後で晴榎にでも聞こう。

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