第6話 天使ザラキエル
大天使長——セラフィエルは雲間から差し込む光の中から、世界全体を見渡していた。セラフィエルの後ろには多数の天使たちがセラフィエルと崇拝するが如く陳列している。
「リシテアの器が溢れた。明日、降り注ぐ天の
「「「——っ!!」」」
セラフィエルの発言に周りにいた天使たちは驚きを隠せない。
「リ、リシテアの器が溢れた……」
「いよいよか」
「ああ、
大天使長は大天使の象徴である六枚の純白の翼を広げ、背後の天使たちに使命を下す。
「さぁ行けよ我が天使たち。己が力導きて、迷える人々を救世せよ」
「「「はっ!!」」」
命じられた使命を重く受け止めた天使たちは、固く敬礼し、それぞれの方向へ純白の翼を広げて飛び立っていった。
「さて、ザラキエル。こちらへ」
「はい」
ザラキエルと呼ばれた天使は重々しく大天使長の前まで跳び、頭を下に向けて膝をつく。
「面を上げよ」
大天使長に言われ、ザラキエルは大天使長の神々しい姿を目に焼き付けた。
「冥界との橋を架け、堕天の天使である其方に伝えよう。薄命の灯、涙落覆う黒雲を示さん」
「はい」
「其方ならもう分かっておろう。さぁ、灯救うは我らが天使の役目也。心してかかれ」
「はい」
ザラキエルは頷くように深く頭を下げると、他の天使と同じように純白の翼を広げて六咲市へと飛び立った。
「ふふ。よーやっと君に直接干渉出来る。ったくさっさと救世の因果開ければいいものを。リシテアの器も使い物にならないなー」
大天使長に聞かれない程遠ざかると、ザラキエルは一人小さくぼやいた。
♢ ♢ ♢
今、僕の目の前にはまごう事なき天使と呼べる人物が存在している。
年は僕と同じくらいだろうか。整った綺麗な容姿に、毎日念入りに手入れしている程の艶やかな長い銀髪。面皰一つ無い潤いを持っている顔から、覗く透き通るような水色の瞳。そして自分が天使だと象徴する目を引かれる純白の翼と光輪。白いフリルのような羽衣の衣装は、神々しくそれでいて煌びやかな印象を植え付けてくる。
何故、こんな天使の少女が夜中の僕の部屋にいるのだと困惑する。
「やっほー。こんばんは。ちゃーんと私見えてる?」
そしてその可憐な天使から発せられる陽気な明るい声。
厳かで凜々しい雰囲気は微塵も感じられない。
空想上の天使の威厳が崩れ去った。
「き、君は……」
僕は困惑しながらも、単刀直入に思ったことを口にした。
「私はザラキエル。大天使長様から仰せつかった君を救世する天使。よっろしくー」
「ザラ……キエル?」
「そ。ちゃーんとエノク書の中にも登場する堕天使……じゃない、天使だよ。ま、エノク書に登場するのは私のようで私じゃないんだけどねー」
「え、えっと……」
僕は何が何だか分からなくなり、微妙に頭が痛くなってきた。
天使がいきなり僕の部屋に舞い込んできて、その天使がエノク書と呼ばれる聖書に実際に登場する天使……そして僕を救世する……。
「ごめん、ちょっと顔洗ってきていいかな?」
「いいよいいよー。ご自由にー」
「…………」
まるで近所のおばさんみたいな手の動きをして、僕はそれに甘えて洗面所で顔を洗う。
バッシャ! バシャ!
本来なら今頃床について明日に備えているはずなのに、どうして僕は顔を洗っているのだろう。顔から滴り落ちる雫が物悲しげにそう語っていた。
それよりも今の時間帯に母さんも父さんもどちらもいないことが幸運ではないだろうか。実在の天使、綺麗で僕と同じ年くらいの少女が同じ部屋にいたらきっと誤解を招かねない。
いつも不幸な出来事に遭っている僕だけど、久しぶりに幸福を味わえた気がする。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップ一杯に注いでゴクゴクと一気に飲み干して自分の部屋に戻る。
戻ってもザラキエルという天使がまだ存在していた。どうやら今の現象は夢ではなく現実のようだ。これはもう腹を括るしかない。
丁寧な正座をしているザラキエルは僕が戻ってくると「おっかえりー」とこれまた陽気に言ってきた。
「それじゃあ、改めて私のこと話すね」
僕は覚悟を決めてザラキエルの話に耳を傾けた。
ごくりと唾を飲み込む。
「私はザラキエル。天界に住んでいて、大天使長様の元で働いてるしがない天使の一人。普段は天界から君たちのような人々を見守ってる」
「その……天界って場所にはザラキエルさん以外の天使もいるの?」
「ザラキエルでいいよ。うん。私以外の天使もちゃーんといるし、みんな聖書やエノク書とかに出てくる天使だよ。姿形はぜーんぜん違うけどね」
今の話を聞く限り、御伽噺や聖書に描かれる天使は実在するようだ。
冗談と思えるような内容だが、話しているザラキエル自体が本物の天使のため疑いようがない。
「で、さっきも話したけど、私たち天使の役割は君たちを見守ること。どんな事故に遭っても、どんな事件に巻き込まれようとも私たちから干渉することは一切禁止させられてるし出来ない。ただ見守ることだけ」
「干渉……って?」
「干渉っていうのは、簡単に言うと君たち人間と私たち天使が関わること。触れたりこうやって喋ったりすることを干渉って言うの」
「でも、今の話聞いている限り、干渉って禁止されてるんじゃ……。いいの? 僕とこんな風に話してて。その……大天使長様? に怒られるんじゃないの?」
「大丈夫大丈夫。大天使長様は温厚な天使だから滅多に怒ったりしないよ。ま、怒らせると明けの明星を隕石っぽく落としてお仕置きしてくるけど……」
「え——」
あまりにもお仕置きのスケールが大きすぎる。中学校の天体で学んだことだが、明けの明星は金星のことを指している。それを落としてくる……僕にはあまり想像出来ないが、大天使長が相当な実力の持ち主だということは理解出来た。
「えっと……干渉の話だっけ? さっき言った通り人間への干渉は禁止されてる。私たち天使は古の盟約に従ってるせいで、人間に干渉することが出来ないの。古の盟約だから私はぜんっぜん信じてないんだけど、周りの天使とか大天使長様は未だに信じてるから、私は信じてるフリをしてるんだけどね」
「干渉以外の盟約ってあるの?」
「もっちろん。堅苦しい評議天使のジジィみたいなことばっか。一人の人間の一生を見守れとか、天使神様を思って毎朝、天使神様が仰せた啓示を唱えろとか。ほんと堅苦しいったらありゃしない」
評議天使とか天使神とか聞き慣れない単語がずらりと並んだが、これらはあまり聞かないでおこうと思った。まだザラキエルのことを知ることが出来ていないのに、それ以外の情報を頭に入れると頭がオーバーヒートを起こしそうだ。
「だけど、こうやって干渉が許されてるのは、リシテアの器から天の涙落が注がれて救世の因果が開いたからなの」
「リ、リシテア? 天の涙落? 救世の因果?」
また聞き慣れない単語がずらっと並ぶ。寝る前に勉強して頭を回転させてなければ、今頃脳のキャパシティはパンクしていただろう。本当にオーバーヒートも起こりかねない。
「あ、ごめんごめん。順番に説明するね。まずリシテアの器なんだけど、これは天界の主神様である
天主神……ギリシャ神話における最高主神の名前が出てくるとは。
「何で感情が液体になるの?」
「その辺はよく分かんない。私もリシテアの器は遠眼で一回くらいしか見たこと無いから」
ザラキエルがあまり見たこと無いなら、これ以上聞くのは野暮だろう。
これは予想でしかないのだが、リシテアの器に入る感情の液体には、感情ごとに着色されていたり液体の比重が違ったりして感情の比率が分かりやすくなっているのであろう。
「で、天の涙落ね。天の涙落はリシテアの器に溜め込まれた液体が溢れて人間界……君たちの世界に雨として降り注ぐことを言うの。今降ってるこの雨が天の涙落ね。一見、ただの雨と変わらないでしょ?」
そう言われて僕は窓を開けて今降っている雨を見た。
ザアァァ……。
夜中だからか雨粒が見えない。冷えた夜風が僕の頬をぴゅうと撫でて部屋に入っていき、夜風に煽られた雨粒が僕の頬や手に付く。
雨粒は透明だった。
ザラキエルの言う通り、普段見ている雨とほぼ同じだ。
「あ、感情の液体だからといって別に害があるって訳じゃ無いから。ちゃんと無害だよ? 人間にとってはただの雨だから。私たち天使にとっては特別なものだけど」
「いや、大事なのはそこじゃなくない?」
僕は窓を閉めて、ザラキエルの話に耳を再度傾ける。
「あ、そうだった。で、天の涙落はリシテアの器に溜め込まれた液体全部が降り注ぐの。感情の液体が全部人間界に降り注がれてリシテアの器が空になると、救世の因果というものが開かれて、私たち天使は人間と干渉することが出来るようになる。救世の因果は今降ってる雨を以て、今日開かれたんだ」
「救世の因果ということは、何かを救世……するってこと?」
「そのとーり! 私たち天使の役割は人々を見守ること、そして救世の因果が開いた時には人間を救世へ導くこと。この二つが挙げられるんだ。で、この救世の因果が開いて人間を救世へ導くことが天使にとって、とっても重い使命なの」
こうやってザラキエルが僕と会話、もとい干渉しているということは、天界では救世の因果というものが開いているということだ。
つまりザラキエルは僕を救世しようとしている。
でも、何から?
「救世の因果における救世は多岐に渡るの。病気から救う。事故から救う、死亡から救う、落第から救う、重い責任から救うとか。それと、不幸から救うとか……ね」
「——!」
「あ、その様子だとどうやら私が人間界に来たことが分かったみたいだね」
「うん。つまり……ザラキエルは僕を不幸から救世するために来た、ということ?」
「正解! 私は君の不幸な出来事から救うために大天使長様から派遣された天使なのだ! 実は君が生まれた時から、君の守護天使? みたいな感じで天界から見てたの。君が生まれた時から多少干渉してたんだけど、救世の因果が開かないとちゃんとした力で干渉出来ないからね」
救世の因果が開いたから、満を持して人間界の僕の元にやってきたということだろう。こんな綺麗な天使が僕の事をずっと見ていたと考えると、少し恥ずかしいが嬉しい。
「ま、私は天使の中でもちょっと特殊な位置に属しててね。その特殊な位置のお陰で、実はこっそり人間界に干渉してたんだ。大天使長様にはバレないようにね」
「え……いいの? それ。盟約で決まってるんじゃ……」
「いいのいいの。盟約なんて破るためにあるもんなんでしょ? 人間たちも『ルールは破るためにある』とか言ってるじゃん」
「…………」
間違ったことをどうやら覚えてしまっているらしい。弁明が難しそうだ。
「さて、じゃあ質問です。今日君は二回くらい死ぬかもしれない出来事に遭ってる。さて、どんな出来事でしょうか?」
「え、ええ? 死ぬかもしれない出来事?」
いきなり言われた「死ぬかもしれない出来事」という言葉に耳を疑った。
「それってつまり、ザラキエルの干渉が無かったら僕はもうとっくに死んでたってこと?」
「そうだね。今日じゃなく今までもそんな出来事はめーっちゃあったんだけど」
「えっと……」
勉強に使い、ザラキエルの話を理解するのに疲れている脳に「あとちょっとだけ協力して」と言うように今日起きた出来事を振り返った。
軽トラックに衝突されそうになった、小学生の傘に躓いた、ノートにお茶を零されて男性教師に怒られそうになった、バスの乗客から小銭を出すのが遅いと怒鳴られた、作業員の男性のスパナが落ちてきた、自転車に轢かれた……。
「一つ目が軽トラックに衝突されそうになったこと?」
「そう! アレは危なかったよね。仮に私の干渉が無かったら君は轢かれてて、あの軽トラックの人たちは君を無視して轢き逃げしてたんだけど。その三十分後には警察に捕まるけどね」
「もしかして、未来まで予知出来るの?」
「まっさか! 私は予知の天使じゃないよ。ある分岐点の結果が分かったところで、もう片方のルートの結果はどうなったのか見れるくらいだもん」
恋愛シミュレーションゲームとかにおける、もう一方の選択肢を選んだ場合、どのようなことが起こるのか分かるといった具合だろうか。何にせよもう過去のことなので、ゲームのように時間を巻き戻して事の顛末を知ることは出来ない。
「あ、その軽トラックの件なんだけど、私は軽トラックのタイヤに干渉して、ブレーキを効きやすくしたの。あの軽トラック、右折するにも関わらず、反対車線の車がいないことをいいことに結構スピード出してたからね。青信号になった時にあの交差点に進入してきたわけだし」
「そうなんだ……」
「はいじゃあ二つ目は? 何だと思う?」
「夕方、自転車に轢かれたこと?」
あれも一歩間違えれば大怪我に繋がっていたかもしれない。けど、ザラキエルから返ってきたのは予想外の言葉だった。
「あー、それね……違うよ。私は一切干渉してない。あ、でも君にぶつかってきた人のことは分かるから、明日にでも慰謝料請求しに行く? それとも警察に言う?」
「いいよ、別に。あの人だってぶつかりたくてぶつかった訳じゃないんだから」
「あら、そーなの? 天界から見てて思ったけど、やっぱりお人好しだよね。晴榎ちゃんの買い物にもちゃーんとついて行くし、バスで怒鳴られても小銭出すのが遅いって自分を卑下にしてたからね」
「……それって僕をバカにしてる?」
「まさか。感心してるだけだよ」
僕はそんなにお人好しだろうか。母さんの友人からよくその手の話を聞かれることが多い。けど僕は他人が僕のせいで迷惑を被るのが嫌なだけなんだ。
「それで、二つ目は?」
「今のが違うとなると、スパナが落ちてきたことしかないよ?」
「その通り! 正解!」
「じゃあザラキエルはどこに干渉してたの。作業員の人に干渉出来なさそうだし……」
「あの時はスパナに干渉してた」
「え? でも結局落ちてきたじゃん」
「うん。私の干渉が無かったら君の頭にスパナが直撃してたよ。で、私はスパナに干渉して少しでも作業袋から落ちないよう粘ってたんだ。地球の重力とかの自然現象は私たち天使にとってもどうにもならないからね」
「そ、そうなんだ……」
この話を聞いていると、やはり僕はザラキエルの干渉のお陰で今まで生きながらえているんだと思い知らされる。もしザラキエルが天界にいない、もしくは僕じゃない誰かを守護する位置にいたらきっと僕はもうこの世にはいなかった存在になるのだろう。
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