第5話 雨の中現れたのは

「——き! ——つき!」

 誰かが僕の名前を呼んでいるような声が聞こえてきた。暗闇に落ちていた意識が徐々に浮かび上がる。

「——う……んっ……」

「樹生! 大丈夫!?」

 この声は……晴榎か……。

 背中に走っていた激痛はいつの間にか和らいでおり、多少ふらつきながらも立ち上がる。それでも痛いことに変わりは無く、背中を優しくさすった。

 灰色の空は藍色に染まっており、雲が覆い被さって星の光が届いていない。日没の時間的にどうやら倒れてから十五分から二十分くらい経過したようだ。

「いったた……」

「ねぇ大丈夫なの!?」

「……一応はね」

「よかったぁ……。もうちょっとで救急車呼ぶところだったよ」

 晴榎は胸を撫で下ろして僕の無事を安堵する。

「お母さんが樹生のお母さんから連絡を貰っててね。今日樹生一人だから、夕飯一緒にお願いって。だから誘いに行ったら樹生が道路の真ん中で倒れてたの。ほんっと焦ったんだから」

「そっか……ごめん」

 というか晴榎の母親に連絡したんなら『適当に過ごしていてね』という置き手紙は何だったのか。母さんを責めても仕方ない。書いた後に連絡をしたのかもしれないのだから。

「いいよ、樹生が大丈夫ならそれで。何で倒れてたの?」

「……自転車に、轢き逃げされたんだ」

「えええっ!?」

 近所に広がるような驚嘆が響いた。

「樹生、それ見た!?」

「ううん、見てない。倒れた後、声だけは聞こえたんだけど……」

「そっか……」

 顔や自転車の色等、特徴的なことが分かれば警察に被害届を出して刑事訴訟することは出来るだろう。だけど僕が分かっているのは声から男性だってことだけ。どんな顔をしていたか、どんな自転車に乗っていたかは分からない。

 それよりも道路の真ん中で倒れていたのにも関わらず、車に轢かれるどころか通行人にも通報されないことに驚きを感じた。この蕾区がどれだけ人通りと車通りが少ないのか、改めて実感した。轢かれず通報されなかったのは運がいいと言えるのだろうか。

「とりあえず、私の家に入ろ? そろそろ雨が降ってきそうだし」

「そうだね。お邪魔させて貰うよ」

 少しふらつきながら僕は晴榎の家まで歩く。

 玄関では晴榎の母親が僕を出迎えてくれた。

「いらっしゃい樹生君。澄奈すみなから聞いてるわ」

「あ……どうも。お邪魔します……」

 晴榎の家で夕飯をご馳走になり、晴榎が僕の背中に湿布を貼ってくれた。もうすぐ風呂で剥がすからという理由で速効性の湿布を貼り、追加で何枚か同じ湿布をくれた。

 晴榎の父親は工場勤務で、いつも腰を曲げて作業するため湿布は欠かせないものとなっており、ストックが大量にある。数枚僕にくれたところで支障は無い。

 玄関で靴を履いて家から出ようと思った時、晴榎がビシッと僕に指さした。

「明日は絶対一緒に学校行くよ。もう絶対不幸事故起こさせないから」

「うん……分かった。ありがとう」

 晴榎の素直な気持ちが僕に伝わってくる。けれど、僕は静かにそれを流した。

 ただ、今日の帰りのように晴榎にも僕の不幸体質のせいで怪我をさせるようなことだけは避けたい。そんなことになったら、僕はどう晴榎の母親と父親に顔向けすればいいのか想像もつかないのだ。

「じゃ、また明日ね。私が呼びに行くから」

「うん……お邪魔しました」

 晴榎の家の扉をバタンと閉める。

 ぽつぽつと降り始めの小雨がコンクリートを濡らしていた。ずぶ濡れになるほどの雨でもないので、駆け足で帰宅した。


 自分の家に帰ると、風呂を沸かしてゆっくりと肩まで浸かって入った。

 自転車に轢かれたとはいえ、目立った外傷は無かった。鏡で背中を見てみると、ぶつかった痕が赤く腫れ上がっており、お湯に浸かると微妙に痛く染みた。それでも速効性の湿布のお陰か少し楽にはなっている。一番痛く染みたのは転んだ時に出来た擦り傷だった。

 綺麗に髪の毛と体を泡で洗い、汚れた部分は念入りに洗う。痛く染みるのはもう我慢するしかない。

 風呂から上がると、お湯を全て排水する。母さんや父さんが帰ってくるのは明け方なので、風呂のお湯を残しておいたとしても冷めて水になってしまっている。

 体の水気を拭いて寝間着に着替える。擦り傷のところには絆創膏を貼り直し、鏡を見て背中に湿布を貼った。

 二階の僕の部屋以外の電気を消灯し、歯磨きをして就寝準備をする。

 ただ、僕は寝る前に決まってやることがある。それは勉強だ。

「ちょっとだけやろっかな」

 いつもこの時間は布団に入ってもあまり眠たくないため、眠気を誘うために勉強している。勉強の内容は今日の授業の内容がほとんどで、たまに予習をするくらいだ。これをするようになってからテストの点数が若干上がり、寝起きが良くなった。

 鞄から数学の教科書と自主勉強ノートを取り出し、今日の授業での内容をカラーペンや蛍光マーカーを使いながら丁寧にまとめる。

「——♪」

 シャーペンが走っていると自然的に僕は鼻歌を口ずさむようだというのを、最近になって知った。三角関数の公式を写し、問題に取り組む。

 ザアアアァ——

 ふと窓を見てみると、知らない間に雨が降り出していたらしく、大きな音を立てていた。

「明日は濡れませんように」

 と叶うはずも無い出来事をぽつりと呟いて、取り組んでいた問題へ戻った。


 六咲市上空。

 ぽつぽつと降り出した雨がやがて大粒の雨粒へと変貌し、槍を降らせるが如く地上へ無慈悲に降り注ぐ。

「…………」

 止むことの無いように思える雨粒の下、白い羽衣のような衣装を纏った人物が送電塔の頂上に立っていた。送電塔の航空障害光がその人物を赤く怪しく照らし出し、白と融和していく。

 バサァッと背中に生えている純白の翼を広げ、六咲市を一瞥する。翼を広げた時に数枚の羽根が抜け落ち、ひらひらと舞っては雨粒に打たれて落ちていく。

「大天使長様はこう仰せつかった。【天の涙落注ぎし時、救世の因果は開かれた】」

 ぼそりと独り言のように何かを呟くが、上空にはこの翼の人物以外、誰もいない。

 まるで空の彼方にいる誰かを敬うように、手を合わせて祈っている。

 六咲市全体を見ていた視線は、ある住宅地のある家を見つめた。

 二階部分のみ光っているその家の窓から見えるのは、真剣に勉強をしている一人の男子。

「【薄命の灯、涙落覆う黒雲を示さん……】」

 ギッシャーン!!

 どこかに落雷が発生したような轟音が鳴り響き、世界が震える。

「【灯救うは我らが天使の役目也……】って」

 天使と自称した人物は、送電塔からふわりと飛んで翼を折りたたみ、急降下し始めた。

「さーて、ようやく会えるね。君の救世、ずっと待ってたんだから」


「ふあーっぁ……」

 ある程度勉強が終わり、一息ついたところで大きな欠伸が僕を襲った。

 布団に入れば五分も経たずに眠れるような眠気が脳を刺激し、瞼が虚ろになる。

 時刻は午後二十三時三十七分。寝静まる頃には良い頃合いだろう。

 僕は勉強道具を鞄にしまい、部屋の電気を消してベッドに入った。

「お休みなさい……」

 一人そう言うと、布団を肩までかけて仰向けになって目を閉じた。

 眠っている時間が一番の至福の時間である。

 今日起きた不幸な出来事のことをこの時間だけは忘れることができ、怪我をすることも無ければ雨に打たれることも無い。たまに夢の中でさえ不幸な出来事が起こるが、それはもう夢にまで出てくるくらい、僕と不幸が切っても切れない関係になっているからだろう。

 白い光が視界全体を覆う。

 何かの回廊だろうか。

 きっと夢の世界へ広がる入口なのだろう。

 その白い光はどんどんと強くなっていき、目を閉じていながらも太陽を直視しているかのように感じた。

「ん……んっ……」

 数分経ってもその光は収まらず、強くなり続けるばかり。

 とうとう夢に入ることさえ出来なくなってしまったのか。

 それとも電気を消し忘れて寝てしまったのだろうか。

 あまりにも眩しいため、一旦目を開ける。

 すると視界は夢の中の回廊と同じように真っ白に染まっていた。

「な、何……?」

 僕は無意識の内に目を閉じ、両目を腕で覆って光が目に入らないようにする。

「あ、やっば……天使光を消すの忘れちゃってた」

 と、どこかおちゃらけた女性の声が聞こえ、僕ははっとした。

 この家には僕だけしかいないのだ。母さんと父さんは共に仕事に出かけている。深夜に誰かが僕の部屋にいること自体おかしい。

「だ、誰なんですか……」

 目を覆っていた強い光は徐々に収まっていき、目を瞑っていた視界は白から黒へと戻る。

 また目をやられないか恐る恐る腕を目から放し、ゆっくりと目を開けた。

 するとそこには——

「やっほー。こんばんは。ちゃーんと私見えてる?」

 白いフリルのような羽衣を身につけ、純白の翼を広げた、まさに聖書の中に出てくる『天使』と言える少女が僕の部屋にいた。

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