第4話 悪運が強いこととは

『次は——』

 晴榎と他愛ない雑談をしていると、僕たちの住む近くのバス停に差し掛かっていた。『次、降ります』のボタンを押し、降車することを伝える。いつの間にかバスに乗っているのは僕と晴榎だけだった。

 バスが停車したので、席を立って運賃箱に料金を入れる。運転手に小さな声で「ありがとうございました」と言って、バスから降りた。僕がバスを降りると出口の扉が急ぐように閉まり、バスが発車していった。

 このバス停から僕たちの家までそう遠くない。雑談をしていればあっという間に着いてしまう距離である。道を左に曲がって、交差点を三つ通り過ぎて右に曲がれば僕たちの地域の住宅地だ。

 車通りは非常に少ないため、今朝方のような交通事故は起こりにくい。カーブミラーと左右確認を忘れないよう交差点を通り抜ける。

 右手の家からはカレーの香ばしい匂いが、左手の家からはニンニクの香しい匂いが漂ってくる。今日の夜ご飯は何だろうなと僕のお腹が準備体操を始めだした。

「…………」

「…………」

 常日頃一緒にいると会話の内容はもう全て出尽くしてしまったかのように、無言の時間が増えてしまう。晴榎は僕のことをほとんど知っていて、僕は晴榎のことをほとんど知っている。そんな知っていることを話したって会話は三分ももたない。

 それにお互いが興味の無いことは、ただの一方的な言葉のキャッチボールになってしまう。無理強いをする気は僕には無いため、こうやって無言の時間をただ歩いている方がまだマシだ。

 ぎこちない沈黙が続いていると、前方の電柱に作業中の看板が立てかけられていた。電柱の上を見ると、作業服を着た作業員が電柱の変圧器の点検をしている。

 あんな高いところに上って感電のリスクがある仕事は、僕には到底できっこない。中学校の時の理科で、電気関係の単元はかなりギリギリだったのを思い出した。

 電柱の上にいるとはいえ、下にいると邪魔になってしまう。僕はそそくさとその場を後にした。

 その時——

 ガッ、ガッッアァン!!

「——っ!?」

「なっ、何!?」

 不意に金属の高い音が僕たちの背後で鳴り響いた。

 僕は咄嗟に振り向き、晴榎は怯えて僕の背中に隠れた。

 背中から大量の冷や汗が吹き出てくる。

 高い金属音を響かせたのは銀色に光るスパナだった。使い古されたものらしく、ナット等を締める部分が微妙に錆びている。手持ちの部分にはシールで「渡長わたなが」と書かれてあった。

「大丈夫かーい?」

 と上の方から僕たちの安否を確認する声が聞こえる。四十代と思わしき作業員の男性が、慣れた手つきで足場ボルトを下って僕たちのところに来る。

「——っと」

 落ちたスパナの状態を確認し、作業袋の中にしまった。

「大丈夫だったかい? 当たらなかった?」

「え、ええ……」

「そりゃあよかった。もし落ちてたら僕の首が飛んでただろうね。あっはは」

「…………」

 とても笑い事で済む話では無いと思うのが。

 今日の物理の授業で高さと重さの落下エネルギーの関係について学んだ。それを思い出すと、あのスパナが僕や晴榎の頭に当たってたらと思うとぞっとする。

「ごめんね。気を付けて帰るんだよ」

「あ……はい」

 作業員の男性はまた電柱の上に上って作業を再開した。

 作業員の男性が上っていくと同時に僕たちも、家の方向へ歩き出した。

「さっきの……当たってないよね?」

 電柱から少し離れたところで、晴榎が僕を心配そうに見ていた。

「当たってないよ。頭にも鞄にも」

「そう……よかったぁ」

 ほっと胸を撫で下ろす晴榎。

「でも……何で落ちてきたんだろう」

「僕にも分からない。多分あの作業員の人が付けてた袋からぽろっと落ちたんだと思うよ。変圧器にスパナを使うかどうかは僕には分からないけど」

 こればかりは憶測でしか立てられない。あの作業員の男性を責める訳では無いが、道具の管理だけはしっかりとして欲しい。

「それに、落ちてきたところって、樹生がほんの前までいた場所だよね? 一歩間違ってたら……」

 晴榎の言う通り、あのスパナが落ちてきた場所は数秒前まで僕が歩いていた場所だ。靴紐が解けていたとか、誰かからの連絡が来たから携帯を見ていたとか、そういった要因で立ち止まっていたら大変なことが起こっていただろう。

「晴榎、あれってやっぱり……」

「樹生の不幸体質が招いたってこと?」

「う、うん……僕もそうだと思う」

「何でそう思ったの? あの人のミスかもしれないじゃん」

「だって、スパナが落ちてくることって、あの作業員の人が気を付けているか、作業員の人が付けてた袋にしっかりと入っていれば何も起こらないでしょ? だけどさっき起こらないはずのことが起きたの、晴榎も見たよね? これはもう、僕の不幸体質が招いたことって言っていいと思うんだ」

「うーん……」

 晴榎は何かを言いたげに考え出した。

 これが不幸体質が招いた出来事で無いなら、一体何なのだろうか。

 そのまま晴榎は必死に言葉を捻り出そうとし、晴榎の家の前まで来てようやくその答えが見つかった。

 晴榎は庭の門を開け、僕にビシッと指を向けて言った。

「樹生の悪運が強いだけだと私は思うよ」

「悪運……?」

「そ。樹生の不幸体質って、樹生のみに降りかかってるんでしょ? だけど降りかかってても樹生は軽症で毎回済んでる。これって悪運が強いって思うんだ。不幸な出来事ばっかだったら、きっと私や樹生はもうこの世にはいなかったかもしれないからね」

「…………」

「とにかく、何か言葉ではあんまどう言えばいいか分かんないけど、私はそう思ってる」

 軽症で済むのであれば安い話なのだが、それが積み重なると大きな不幸な出来事を引き起こしかねない。大は小を兼ねると言うし、ハインリッヒの法則にもそう定義されている。

「樹生の悪運が強いなら、その悪運を取り除いてくれる天使様とかいたら樹生も少しは不幸な出来事で頭を抱えなくていいんじゃない?」

 何故この話で天使が出てくるのか。

「天使?」

「そ、天使様。だって天使様って幸福の象徴でしょ? そんな天使様がいれば樹生の不幸もどっかに吹っ飛ぶと思うんだ」

「天使なんているはず無いよ。あれらは聖書の中での存在であって、現実の僕たちの世界には想像の産物でしかないんだから」

「もう、樹生っては夢が無いよね。例えばだよ例えば」

「例えば……かぁ」

 僕の不幸を救ってくれる天使なんかこの世にいるはずが無い。神様は理不尽に世界を支配し、それに従う天使は神様の言いなりとなって世を動かす。子供の頃は神様によく愚痴を吐いていたものだ。

「それじゃあね樹生。また明日」

「あ……、うん。また明日」

 晴榎は「ばいばい」と手を振って家の中に入っていった。僕は晴榎が言った天使の話よりも「悪運が強い」という言葉が頭から離れられず、もやもやした気持ちで家へ足を向けた。

 僕の家は晴榎の家から右に二軒先の家だ。僕と晴榎の家の間にある家には、この地域を治めている区長が住んでいる。

 ガチャッ。

「ただいま」

 と言っても「お帰り」と帰ってくる返事は来ない。

 やや暗くなった玄関の明かりを付け、靴を脱いで靴箱に入れた。鞄を居間のテーブルの傍に置き、洗面台で綺麗に手を洗う。手を拭いて、台所の冷蔵庫から麦茶を取り出して、自分のコップに注いだ。麦茶を飲んでいると、台所のテーブルに置き手紙があるのを見つけ、内容を読む。

『今日は二人とも夜勤です。適当に過ごしていてね』

 と書かれてあった。

 僕の母さんと父さんはよく夜勤で、夜に家を空ける。母さんはコンビニの夜パート、父さんはある製造会社に務めており、三交代の夜勤の日が今日のようだ。

 冷蔵庫の中をパカッと開けると、豚肉の切り落としやウィンナー、キムチ等が入っており、野菜室には人参やキャベツ、白菜等が入っていた。炊飯器の中には茶碗一杯程度のご飯が入っており、今日の夜ご飯は豚肉の野菜炒めにしようと決める。

 だけどまだ夜ご飯を食べようと思う時間では無い。外は雨雲が広がりつつあったが、まだほんの少し明るかったため、僕は一旦家を出た。空き巣に入られないよう、しっかりと鍵をかう。

「あそこに行こ」

 僕は制服のまま住宅地をぶらぶらと歩く。

 六咲市の辺境、隣町との区切り付近の蕾区つぼみくが僕と晴榎が住んでいる場所だ。周りは電信柱から電線が張り巡らされ、どこを見ても家しかない。他人の家から飛び出ている緑が視界に入る唯一のアクセントになっている。

 蕾区から北西に進むと柳区やなぎくに入る。ここはマンションや団地がドミノのように建ち並んでいる。家の立地条件としては、マンションや団地が太陽光の入射を妨げてしまい、ほとんどないようなもののためあまり宜しくない。五、六件に一件は空き家だとどこかで聞いたことがある。

「天使……ね。いる訳無いんだよ」

 ふと上を見上げて団地の屋上から誰か見ていないか見てみた。

 けれど誰も僕を見下ろしていなく、塗装の剥げた壁に曇天の灰色だけが広がっていた。

 団地が並ぶその横には、緑の葉が生い茂った小さな公園がある。柳区団地前公園と書かれた表札と防護柵をくぐり抜け、一つ寂しく揺れるブランコを横目に、すぐ近くのベンチに座った。

 この公園はブランコや滑り台、タイヤ飛びの遊具、砂場がある変哲も無い小さな公園だ。幼稚園や小学校の頃に晴榎や近所の子、団地で仲良くなった子とよく遊んでいたのを思い出す。

「悪運……か」

 不幸と悪運とでは一体何が違うのだろうか。

 確かに晴榎の言う通り、僕は悪運に強いのかもしれない。今までだって命を落としてもおかしくない不幸な出来事は何度もあった。それらは全て悪運が強いがためだけに僕の命を守ってくれていたのだろうか。

「いやいや、そんな訳ない」

 僕はぶんぶんと首を横に振って考えを消去した。

 悪運と不幸は同一の言葉だ。そんなものが僕を守ってくれるはずがない。

 僕は悪運と不幸の意味は何が違うのだろうと思い、携帯を出して検索した。

『悪運:悪いことをした報いを受けることなく、逆に栄えること。運が悪いこと』

『不幸:幸福で無いこと、又はその様。不幸せ。身内の人が死ぬこと』

 運が悪いことと幸福で無いことはイコールで結びつく。今の僕の境遇に当てはめるとやっぱり不幸という言葉が相応しい。

 だけど僕は悪運の『悪いことをした報いを受けることなく、逆に栄えること』についてどういうことなのだろうと疑問を抱いた。

「これは……」

 言葉の使い方を調べていくと、晴榎が言っていた悪運が強いというのは『悪事の報いを受けることなく、栄える運が強いこと』と書いてあった。どうやら悪運が強いを『不幸な出来事に遭わなくて済んで良かった。不幸な出来事に遭ったが、大事にならなくて良かった』というような意味で使うのは誤用のようだ。『罪を犯したけれど、未だに捕まるようなことが無いくらいの運』を悪運と言うらしい。

 僕は罪を犯してないし、警察との関連も無い。僕が悪運を使う場合は『運が悪い』の意味で使うことの方がほとんどだろう。

 そしてやはり悪運の対義語は幸運であるらしい。ここの点からも不幸と幸福は表裏一体の関係が成り立っているように思える。

 公園にいた時間は五分弱。それなのに橙がどんよりとした灰色に飲み込まれてしまっており、いつ雨が降ってきてもおかしくない天気模様だった。

 僕の不幸体質だと、今から降ってきてずぶ濡れになるのがオチだろう。流石にずぶ濡れになって風邪を引きたくない。

「……帰ろっかな」

 何のためにこの公園に来ていたのかイマイチ分からずに、僕はベンチを立った。

 公園の入口へ戻ろうとすると、小さな子が母親の手を引いて「あそんでいきたい!」と駄々をこねている様子が窺えた。母親は「雨が降るからまた今度ね」とだけ言って一緒に団地の中へ入っていく。

 あんな頃もあったかなと懐かしく感じながら元来た道を戻っていく。

 パッと街灯が点滅した後に付き、僕の足下を白い光で照らしてくれる。

 ひとまず悪運とか天使とかの話は一旦忘れ、僕が明日気を付けることは、今日よりも不幸な出来事を少なくすることだ。今日だけで不幸な出来事は五つも起きている。まだ一日に起きる出来事の数の中では少ない方とは言え、命の危機に晒されるものが二つもあった。

 出来れば明日は一つになって欲しい。

 勿論ゼロが望ましいに越したことはないのだが、そう簡単にゼロにはならない。だから不幸な出来事をゼロにするには、せめて僕が普段から気を付けることで出来事を減らしていかなければならないのだ。

 不幸な出来事が起きることは、僕の注意力が不足しているのが大きな原因なんだから。

 家の前の交差点に差し掛かり、左右を確認して安全性を確かめる。

 左右から車の来る気配は無い。

 交差点を通り抜けようとした時だった——

 ドゴガッ!!

「あ——」

 不意に背中に強烈な衝撃が走り、僕は小さく宙を跳んで前から大きく倒れてしまう。

 あまりにも痛みが強すぎて、僕は背後で何がぶつかったのか把握出来なかった。

 けれど、

 ガッシャーン!

 というどこかで聞いたことのあるような金属が倒れる音がした。

 視界に黒い斑点のようなものが疎らに浮かんでは消える。テレビの砂のように。

「な、なんだよ——」

 と若干苛立ちの籠もった男性の声。起き上がって誰なのか見ようとしたが——

(ヤバい……体が……動かない……)

 アスファルトの冷たさが肌に直接伝わってくる。

「や、やっべぇ——お、俺は知らねぇ!」

 やがて苛立ちの声は急に焦燥に変わり、金属を立て直すような音と共に、ギャァーといった何かを巻き上げる音が少しずつ遠くへ消えていく。

 その音で僕の身に何が起きたのか理解することが出来た。

 自転車とぶつかったんだ。

 そして轢き逃げされたんだ。

 そう理解した時、僕の意識は真っ暗な世界へ落ちていった。

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