第2話 濡れた数学ノート

 そのまま本校舎東側の階段を三階まで上がり、二年二組の教室へ入る。教室内には数名のクラスメイトがいたが、みんな僕に挨拶することなく、友人と話したり自分の世界に入ったりしている。

 僕の席は廊下側の前から二列目のところにある。別段この場所が気に入っている訳でもなく、ただ単にくじ引きで決まったからこの場所にいるということだけだ。

 ショルダーバッグを下ろし、ぐっしょりとしたパンツに嫌気を刺しながら座る。自分の席についたら後は朝のホームルームが始まるまで何もすることが無い。登校時の不幸な出来事を忘れようと気晴らしに寝ようと決めた。

 ところが——

「やっほー。おっはよーう!」

 僕の背中がポンと叩かれ、眠気がどこかに飛んでいってしまった。

 活気のある高い声は耳をつんつんと刺激させ、自分の存在感を大きくアピールしている。

「朝からうるさい……」

「あっはは。ごめーん」

 軽口で謝った女子生徒——新波晴榎あらなみはれかは自分の頭の後ろをわざとらしく掻いた。

 僕と晴榎は幼稚園からの幼馴染である。身長も僕とほぼ同じで、性格は昔から一切変わっていない。晴榎が僕を常日頃振り回し、振り回された僕はいつもくたくたになる。そんなところだ。それでも晴榎と遊んでいた日々はいつも楽しかった。

 天真爛漫で活発でお転婆なので、そんな晴榎を制御するのが僕の役目だ。この性格が暴走すると僕でも制御するのは不可能である。

 赤色のゴムで留めた黒茶色のポニーテールは昔からの幼さをそのまま引き継いでおり、童顔な顔はにきびの痕が無いくらい綺麗にケアされている。母親が化粧品ブランドの会社で働いていれば、自然とそうなるのだろう。

 ただ、昔と比べて明らかに違う点が一つ。それは思春期と同じように成長する二つの丘だ。小学校五年くらいからだんだんその形が露わになりつつあり、高二となった今では制服の上からもその大きさが見て取れる。それにこの晴榎という女、僕にだけTPOを弁えず色んなところでスキンシップを重ねてくるものだからさらに大変なのだ。

 それのお陰で僕は何度他の男子たちから、嫉妬の目線を向けられているのか数知れない。止めろと言っても止めないのがこの晴榎の難点である。もう慣れたことだが。

「お? 今日は膝をやったみたい?」

「……まぁ」

「あっちゃー、今日も不幸事件起こっちゃったか。三時間目の体育できそう?」

「どうだろう。無理っぽそうだったら言うよ」

「何かあったら私に言ってよね!」

「はいはい。てか、体育は男女別なんだから晴榎は何も出来ないでしょ?」

「あ、そうだった……えへ、うっかり」

「…………」

 ウィンクして空想の星を出す晴榎。

 晴榎は僕の不幸体質のことを知っている。僕がいつも怪我やヒヤリハットする事件に巻き込まれていることから、直感的に理解したようだ。誰かに言いふらしたり棚に上げたりするようなことはせず、僕と晴榎の秘密として口外しないでくれている。仮に話したとしても晴榎以外、誰もこんな不幸体質のこと何か信じないだろうし。

 晴榎が僕の不幸体質を理解してくれているのはとても有難いことだ。

「晴榎ちゃーん。おはよー」

「あっ、海希みきちゃん。おはよー!」

 晴榎の友達である女子生徒が登校し、晴榎はそっちに足を向ける。

「じゃね。今日は一緒に帰ろ?」

「……分かった」

 晴榎は「うん」と言いたげに首を縦に振ると、海希という女子生徒の所へ行って会話を広げ始めた。

 ようやくこれで寝られると思った矢先、僕の前の席の男子生徒が登校してきて「よっと……」と言いながら重たそうな鞄を机の上にドスンと置いた。

「よっ、おはようさん」

「おはよう、一田いちだ君」

 僕の前の席の男子生徒——一田和昭いちだかずあきは鞄の中身を机の中に入れながら僕に挨拶をしてきた。僕もそれに倣って返した。

 野球部に所属しているため、頭は丸坊主。最近まで小さな髪の毛が生えていたのに、今は髪の毛が一つもない坊主頭なので昨日剃ったのだろう。着崩している制服の下には泥だらけの体操服が見え、鞄の口からは泥だらけのユニフォームがちらりと見えた。右目の下に小さな絆創膏が貼られている。

「一田君、ここの絆創膏どうしたの?」

 僕は自分の右目の下を指しながら聞いた。

「あ? ああ、コレか。昨日、猫と遊んでたらバリッとやられてな。小さい猫だからこんくらいの傷で済んだけど、大きかったら多分目までいかれてた」

 前に写真で見せてもらったことがある。一田君の家で飼っている猫はマンチカンで、まだ成熟していない子供の猫のようだった。一田君はその猫を溺愛しているらしく、うっかり流れた動画では普段の学校生活では聞けないような一田君の声と姿が映っていた。

「ん? てか、まーた怪我したんか?」

 一田君は僕の膝の絆創膏を見て聞き返した。

「うん……」

「ほんっとドジだよなお前。もうちょっと体鍛えた方がいいんじゃねぇの?」

「鍛えてる最中にまた怪我するだけだよ」

「お前のドジっぷりなら腹筋するだけでも怪我しそうだな。ははっ」

「はは……」

 笑い事のように済ます一田君。僕は苦笑いをして一田君に合わせた。

 一田君は僕の不幸体質のことを知らない。ただ単純に僕がドジな人だと思っているようだ。ドジな人だけで済んでいるだけまだいい方なのだろう。不幸体質だと言ったら「近づくな」と拒絶されるのがオチだ。

「あ、そういや二時間目の数学の課題やってねぇ! 幸河、お前やったか?」

「え? うん……一応やったけど……」

「頼む! 写させてくれ!」

「いいよ。ただ、僕も合ってるかどうか分からないけど……」

「いいよんなもんは。書いてありゃあいい」

「ちょっと待っててね」

 ガサゴソと鞄の中を漁って数学のノートを取り出す。課題が書かれたページを開いて一田君に渡した。

「はい」

「おおっ、サンキュー! 二時間目始まる前までにやっとくから」

 と言って一田君は自分のノートを広げ、僕のノートに書いてある内容を写し始めた。

「おっ一田。それ誰のノート?」

「幸河の」

「マジ? 幸河、後で俺も——」

「俺もいっか?」

 と課題を一切やってきていない運動系部活の男子生徒と、ムードメーカーの男子生徒が二人揃って僕に懇願してくる。断ったら断ったで「何で一田だけよくて俺たちはダメなんだよ」といちゃもんを付けられるだけなので、大人しく渡すことにする。

「……いいよ。ただ、二時間目が始まる前までには返してよね」

「わあってるって」

「じゃあ一田、後で俺に貸せよ」

「へいへ」

 一田君は適当に二人をあしらうと、そのまま黙々と課題の写しを再開し始めた。

 暫くは何も起こらないだろうと思い、ホームルームまで僕は机に持たれて少し小さめの仮眠を取った。


「——悪ぃ」

「どうしたの?」

 二時間目が始まる前の休み時間で、ムードメーカーの男子生徒がしょんぼりとした目で僕を見ていた。

 僕が貸した数学のノートを手に持っており、返しに来たのだと感づく。だが、ノートの角が何かに濡れたようにしわくちゃになっていた。

「さっき写してたらよ、江巳えみの奴が机にぶつかってきて、お前のノートにお茶零しちまったんだ」

「…………」

 僕はムードメーカーの男子生徒の口から出た江巳という男子生徒を無言で見た。

 校内での携帯電話の使用は放課後を除いて原則禁止なのに、他の男子生徒と一緒になって教室の隅で携帯を弄りながら「ガハハ」と笑っている。

「ごめん! わざとじゃねぇんだ」

「いいよ。零れたのって角だけでしょ?」

「え? まぁ……すぐに拭いたし……」

「そう。それならいいよ」

 ムードメーカーの男子生徒は少し濡れたノートを僕に渡す。受け取ってノートを開いてどのくらい濡れたのか確かめるが、ノート全面が濡れた形跡は無く、角だけ濡れたようだった。書く分にはあまり支障は無いだろう。

「本当にすまんな。ノートありがとよ」

 そう言ってムードメーカーの男子生徒は自分の席に戻っていった。

 ——♪

 三分前の予鈴を知らせる音楽が教室に鳴り響き、タイミングよくガララと扉が開かれて数学担当の男性教師が入ってくる。教卓に荷物を置くと、教務手帳を開いて何かを書き始めた。

 教室の隅で携帯を弄っていた江巳君たちは「ヤベっ」と言いながら携帯を制服のポケットに隠し、少し慌てた様子で自分の席に戻る。

 ——カーンコーン……。

 やがて授業開始を伝える本鈴が鳴り、日直がお決まりの号令をかけて二時間目の数学が始まった。

「ちゃんと課題やってきただろうな?」

 低い声で微妙に威圧してくる男性教師。生徒から微妙な反応が返ってくると、やれやれと言わんばかりにチョークを手に持って、課題の問題を黒板に書き始めた。

「じゃあ一番を一田、解いてみな」

「……へい」

 一田君は立ち上がり、ノートを持って黒板の前に立つ。そして右手にノート、左手にチョークというように持ち直し、ノートの内容をそのまま黒板に書いていく。全部書き終わると、男性教師の表情を数秒だけ確認して自分の席に戻った。

「サンキュ。当てられるとは思わなかったぜ」

 席に座ると同時に小声で僕にそう言ってきた。

「よし、正解だ。復習するが多項定理とは——」

 と課題の復習をした後に新しい内容に入り、授業時間が残り五分となる。

 男性教師も教科書を閉じ、授業終わりまで暇になるかと思われたが——

「よし、ノートを回収するぞ」

「「「ええっー。聞いてねぇよ」」」

 ブーイングの声は授業をいつも聞かず寝ている連中から上がった。

 だが男性教師はブーイングの声を完全に無視して、ノートを持って来いと強要する。

 渋々とノートを出しに来る生徒たち。僕はある程度人の流れが落ち着いてからノートを出しに行った。

「ん? 幸河。何でお前のノートだけ濡れてるんだ? しかもまだ水分が残ってるようだが……」

「え、えっと……」

 江巳という生徒がムードメーカーの男子生徒が写している時にお茶を零したとは言えない。この男性教師は「写し」を許容しないのだ。

 苦し紛れの言い訳にしかならないが、多少筋が通っている嘘をつく。

「す、水筒のゴム栓が少しズレてて、そこからお茶が零れて染みついちゃったんです……」

「ふむ……そうか」

 それで納得したのか分からないが、男性教師は僕のノートだけ横にどけてから他の生徒のノートを回収した。

 ——カーンコーン……。

 授業終了を伝える鐘の音が五十分ぶりに鳴り響く。日直が号令をかけて男性教師はノートの束を重そうに持って出ていった。

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