第2話 勇者、熱い夜を過ごす。



 あれは今からひと月ほど前のこと――


 魔王軍幹部の一人、死霊術師ネクロ・リソマは強敵だった。

 動きを止めることを知らない無数のアンデッド兵に、居城に多数仕掛けられた巧妙な罠。勇者一行は体力と精神をすり減らした状態でネクロ・リソマと戦わなければならなかった。

 長時間に及ぶ激闘。

 相討ち覚悟で斬り込んだ勇者の剣がなんとか敵の核を貫き、戦いの幕が降りた時にはパーティー全員がまともに歩くのすら困難なほど満身創痍だった。

 しかし、そんな中で主を失ったアンデッド兵たちが暴走。絶体絶命かと思われたその時、しんがりを引き受けたのが聖女セリアだった。


「私の光属性魔法ならしばらく足止めできます。さあ、早く!」


 彼女は仲間たち三人を無理やり突き放し、自ら城の扉を閉ざしてしまった。


「セリア! 開けるんだセリア! 君だけを残すわけにはいかない……!」


 ラカンは頑丈な扉を叩きながら叫んだ。

 向こう側からは、城内唯一の生者に群がるアンデッドたちのうめき声が不快に響いてくる。

 確かに彼女の魔法はアンデッド兵には有効だ。しかし、ネクロ・リソマとの戦いで彼女も魔力をほとんど使い果たしているはず。なのにどうやって一人でここを乗り切ろうというのか。


「まさか――」


 扉の隙間から虹色の光が漏れ出し、ラカンたちは弾き飛ばされた。

 この光、魔力反応、おそらくは……自らの命と引き換えに、邪悪なるものを殲滅する光属性魔法究極奥義〈慈悲なき神罰ディバイン・パニッシュメント〉。


 彼女、死ぬ気だ。


 そう思うやいなや、ラカンは駆け出していた。


「ばか! 巻き込まれるぞ!」

「大丈夫、なんとかなる! 二人は先に行け!」


 全身が悲鳴を上げる。

 仲間の制止が聞こえる。

 それでも彼は城に向かって引き返した。

 膨れ上がる虹色の光球。城の輪郭をいとも簡単に飲み込んでいく灼熱。

 そのまばゆい光の中に飛び込んで――


「セリアッ!!!!」


 彼女に向かって手を伸ばす。

 魔法はすでに発動しかかっており、耳をつんざく轟音と共に膨大な魔力の波動がラカンを襲った。鍛えた身体がちりのようにいとも簡単に浮き上がる。

 近づけない。力が入らない。光に手足が引きちぎられそうだ。

 それでも、ラカンは彼女に向かって手を伸ばす。


「戻ってこい、セリア!!!!」


 ……その後のことは、よく覚えていない。

 冷たく暗い水の底にいたような感覚だけが残っている。

 それからしばらくして、真っ暗闇の中に柔らかな光が差し込んだ気がした。

 じわじわと冷え切った指先に血が巡り出す。

 心地良い――まぶたを閉じて、その温もりに身を委ねていると、頬の上に水滴が落ちたような気がした。水なのに熱い。……水の中にいるのに、水? 妙な感覚に急にぼやけていた頭が冴え渡ってきて、ラカンは重いまぶたを開けた。


 まず視界に入ったのは、ぼろぼろと涙をこぼすセリアの顔だった。


 ラカンは横たわり、彼女の大腿ふとももに頭を預ける格好になっていた。

 彼女の全身はびしょ濡れである。涙のほかにも濡れそぼった金色の髪からはぽたぽたと雫が垂れ、修道服は身体のラインが見えてしまうくらい水気を吸ったままになっている。


(何が、起きた……?)


 身体が痛くて動かない。なんとか今の姿勢のまま視線を巡らせてみる。

 どうやらここはネクロ・ソリマの居城の側の湖のほとりらしい。対岸にあったはずの城はいしずえだけを残して跡形もなくなっている。おそらく消し飛んだのだろう。ラカンもまた例外でなく、セリアと同じく全身濡れているところからして、きっと湖まで吹き飛ばされたのだ。

 それでもこうして陸の上で息をしているのは、彼女がラカンを引き揚げ、必死で回復魔法をかけ続けてくれているおかげだ。


「セ……リア…………」


 驚くほど喉に力が入らず、声が掠れた。

 涙で視界がいっぱいの彼女は、ラカンが目を覚ましたことにまだ気づいていない。


「ラカン……どうして、どうして戻ってきたのですか……! 私のことなど放っておけば良かったでしょう……! 私と違ってあなたは……勇者の代わりは、いないのに……! どうして、私なんかのために……!」


 彼女は懺悔のように「私なんか」と繰り返す。

 それは彼女の口癖であった。


 どういうわけか彼女は自分の価値を低く見積っていて、彼女の功績で戦いに勝った時も「これくらい普通のことですので」と謙遜し、稼いだ資金で装備を新調しようとすると「私のものは後回しで良いので」と遠慮する。

 初めはそれが彼女の美徳のように思っていた。


 だが、実際のところ、セリアはパーティー唯一無二の回復要因で、なくてはならない存在で、それでなくてもいつも気遣いを絶やさず、時には勢い任せの他の三人を冷静に引き止めてくれる大事な存在だ。だから、「セリアのおかげだな」「いつも助かるよ」「セリアがいてくれないと困る」――そんな言葉を普段から彼女にかけ続けているつもりだった。


 伝わっていると、思っていたのに。


 全身の痛みと疲労で、普段無意識のうちにかけていたタガが外れる。

 彼女が自身をおとしめる言葉を発するたび、ラカンの中でふつふつと怒りに似た感情が燃え始めた。


 彼女に分からせたい。

 どんなに必要な存在か。

 今すぐ気づかせたい。

 言葉でだめなら、どう伝えればいい?


「私なんか……あの場で皆のために死ぬべきだったのに」


 うるさい。うるさいうるさいうるさい。

 それ以上何も言うな。

 いいからもう、黙ってくれ。


 ラカンは軋む身体を無理やり起こし、彼女の口を塞いだ。


「〜〜〜〜〜ッ!?」


 腕は骨が折れているのか高く上がらなかったので、口と口で。

 乱暴な口付け。

 非道ひどいことだとは分かっている。

 それでも。


「ラカ、んっ」


 彼女が言葉を紡ぐ前に、もう一度。

 温かな吐息に触れ、ラカンの瞳からも自然と涙がこぼれた。

 生きている。

 二人とも、生きている。


「ばかセリア。なんで死のうとするんだよ……!」


 彼女の濡れた身体を抱き寄せる。

 セリアは一瞬戸惑いを見せるも、抵抗はしなかった。

 力を抜き、うなだれるようにしてラカンの胸に頭を預ける。


「ごめんなさい、ラカン……。あの場で皆さんを救うには究極魔法を使うしか思いつかなかったのです。それなのに、あなたが飛び込んできてしまうなんて……」

「そうじゃなきゃ君は自分を犠牲にしてた」

「でも、もし二人とも死ぬなんてことになったら……!」

「ならないよ。君が僕にさえ気づいてくれれば、なんとかなると思ってた」

「どうして……?」

「だって君は、勇者一行の一人、誰より回復魔法が得意な聖女セリアだから」


 彼女はハッと顔を上げてまじまじとラカンを見る。


「そんな……他人任せで命を賭けたと言うのですか?」

「ただの他人じゃない。君だから賭けられたんだよ、セリア」


 セリアが周りをよく見る性質であるのをラカンは知っている。

 ラカン自身が自覚せずに流行病にかかっていた時も、彼女はいち早く見抜いて治療してくれた。

 だから、あの魔法の中に飛び込んだって、きっと気づくはずだと信じていた。


「ラカン、あなたという人は……」


 碧色の瞳が潤み、つうと涙が頬を伝う。

 ラカンはその頬に自らの頬をすり寄せ、涙を拭ってやった。


「もう二度と自分だけ犠牲になればなんて考えるな。代わりがいるなんて思うな。オレは君が良い。君じゃなきゃ嫌なんだ」


 彼女の顔がぼっと赤く染まる。

 つられてラカンも顔に熱が昇るのを感じた。

 勢いで物凄いことを口走ったような気がする。

 ……まあでもいいか。

 嘘はついていない。彼女のことを大切に想っているのは本当だ。

 それが恋愛感情なのかどうかは、深く考えたことはなかったが――


 彼女がくすりと微笑む。

 涙に濡れながらも、何か憑き物が落ちたようなその美しい微笑みに、


 今、火がついた。


「あなたはやっぱりすごい人です、ラカン。回復魔法ではどうにもできないものを、癒やしてしまう力があるんですから」

「セリア……」

「私もあなたが良い。ずっと、密かにお慕いしていましたから……」


 視線が交差し、二人の唇は再び自然と引き寄せられる。

 辺りはとても静かだった。木々の合間に潜んだ虫たちの鳴く声だけがわずかに聞こえる。湖面にはさざなみ一つ立たず、空高く昇った月が穏やかに揺蕩たゆたっていた。


「ダルトンとキャリィは、ちゃんと逃げられたでしょうか」

「あの二人なら、心配しなくても上手くやるよ」


 そんな話をしながら、ラカンの唇はセリアの首筋から下へと這っていく。

 彼女が小さくくしゃみをした。服が濡れたままで冷えてしまったのだろう。

 着替えはない。持っていた荷物は魔法で灼きつくされてしまった。

 ラカンの服もぼろぼろな上にずぶ濡れで、役に立ちそうにない。


「脱ぐ?」


 耳元で尋ねると、彼女はこくりと頷いた。

 ずぶ濡れで重い修道服を上からそっと剥いでいく。

 無垢な細い肩が月明かりのもとに露わになり、セリアはわずかに身震いした。

 同じく上着を脱いだラカンは、彼女をそっと抱き寄せる。

 肌と肌が触れる。温かい。

 上気していく身体。

 わずかに滲んだ汗で、皮膚と皮膚がしっとりと吸い付きあう。

 彼女の輪郭をそっと撫でると、小さく身じろぎ吐息を漏らした。

 繊細な楽器のようだと、ラカンは思った。


「セリア。嫌だったら言って」


 腕の中の彼女はふるふると首を横に振る。


「嫌ではありません。私は、幸せ者です……」


 彼女のその言葉を免罪符に、ラカンは後先の考えを捨てた。

 今日この一晩は勇者と聖女ではなく、一人の男と女として。

 互いに求め合う幸福へと、溺れていくのであった……。






 というわけで、十二分に思い当たる節があるラカンである。

 まさかたった一回で、とは正直予想もしなかったが、魔王討伐の旅の道中で他に彼女に男がいたわけでもない。

 あの日以来ますます彼女のことが気にかかるようになって、近づく男がいないか密かに見張っていたので、それは断言できる。


「最近お前たち二人の距離感が近くなったような気がしたが、まさかそういうこととは……」


 愕然とうなだれるダルトン。一方キャリィはきょとんとしている。


「えっ、そうなの? ボク全然気づかなかったよ。というかまだ相手がラカンだとは言ってなくない?」

「いや、言わずもがなだろ。ラカンのあれは、やっちまった顔だ」

「な、なんだそりゃ」

「見ろ。表情筋がセリアの話を聞く前から一ミリも動いていない。あれはな、セリアに対してなんて返すべきか、最適な言葉を選ぶのに脳がフル稼働しているせいで表情を動かすことを忘れてしまっているんだ」

「はえー、そうなんだ。面白い現象もあるもんだね」

「俺も、妻とは授かり婚だから身に覚えがある」

「そういうことかよオッサン」


 キャリィは呆れたように肩をすくめると、ラカンとセリアの顔を交互に見た。


「それで……お二人さん。めでたいっちゃめでたいけど、勇者一行としてはこの後どうするよ?」


 魔王の領地は目前である。明日には四人で攻め込む予定だった。

 セリアの顔はやや青ざめている。


「も、問題ありません。まだお腹も大きくないのでいつも通り動けますし、私はこのまま同行しようかと」

「本当に大丈夫なの……?」

「はい。ただなるべくお腹に衝撃が来ないようにだけしたくて、それで皆さんにお話を」


 彼女の言葉は前触れもなく遮られた。

 おろおろと吐き出した吐瀉物としゃぶつによって。

 あまり女の身体のメカニズムに詳しくないラカンでもさすがに分かる。

 妊娠初期の典型的症状、つわりだ。


「ごめんなさい、昨日あたりから何かを口にするたび吐き気がひどく……。今日は、なるべく食べないでいたはずなのですが……うっ」


 セリアは真っ青な顔でその場にうずくまった。

 こんな状態で魔王と戦えるだろうか。

 いや、無理だ。

 勇者ラカンは腹を括る。


「撤退だ――……!」


 こうして、勇者一行は魔王との決戦を前に、元来た道を引き返すことになったのであった。

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