夢の叉路

御前黄色

本文

 夏休みが終わり、私はまた居場所のない教室に舞い戻った。きりつ、と言う声が聞こえる。何も考えなくたって身体が勝手に動く。空いたリソースで私はぼんやりと酸化還元反応の半反応式を思い出していた。

 そういえば、まだ名乗っていなかった。私はサチ。名字は諸々の理由で伏せるが、当時は化学がほんの少しだけ得意な高校二年生だった。思えばここが私の原点の、そのまた原点なのかもしれない。少し長いが、この物語をかたらせて欲しい。

 私は国語が苦手だった。ある人は答えなんて文の中にあるの一点張りだし、ある人は読む量が足りない、なんて論理的じゃないことを言う。私は、国語が苦手”だった”。そう、あの人に出会うまでは。

「モリ先生が育児休暇のため、今年いっぱいは私が務めさせていただきます」

 その先生は、丁寧な口調で言った。

「私はシラフユオビトと申します、お好きにお呼びください」

 黒板に書かれる、「白冬帯人」という文字。綺麗な名前だと思った。未だ残る、うだるような暑さをかき消してしまうような優しい冷たさが、その先生にはあった。

 シラフユ先生の授業は、いわば私の理想だった。文章の読み解き方を、心情の察し方を、すべて一から教えてくれた。時間が余ると、よく先生は私たちに思考実験のような問いを持ち掛けてきた。たまに先生の考えも聞かせてくれたが、とても敵う気がしなかった。

 もっと先生と話したい。そう思えど、私にはそうすることに勇気が必要だった。

 ある進路指導のための面談の日。私の前に座っていたのは担任ではなく、そのシラフユ先生だった。

「どうしても、と言われまして……。貴女さえよければ、お話をしましょう」

 はい、だったか。もちろんです、だったか。そこから先は、とにかく夢のようだったと記憶している。最近国語が好きになったこと。尊敬してる人のこと。それから、先生のこと。

「他人の生きざまをかいつまんで己のものにする、これも悪くない考え方です」

「貴女も、何かなりたい者はありますか」

 私は……。

「人でよいのです。貴女はまだ人なのですから」

 その言葉は、まだ私には難しかった。でもたぶん、その時の私を肯定してくれていたと、そんな感じがする。

 事務的な、つまり進路指導的なことは織り交ぜてあったようで、そう言った後、先生は立ち上がった。私は自然に先生を見上げた。

「それでは、また明日」

 それからは先生と少しだけ話すようになった。相変わらず話しかけるのに勇気は必要だったが。

 そのようにして、ほんの少しの月日が流れた。

 先生から年賀状が届いた。頑張って住所を調べた甲斐があったというものだ。お返しで、という形で送られたそのはがきには、「今年も生きてください」と、どこか妙な文が書かれていた。

 年始。冬休み明けの教室はなんだか騒がしかった。それでいて、どこか不穏な、私にとって不都合な何かを内包しているかのような。少ない友人が私に、その騒がしさの渦中であろう、ひとつの新聞記事を見せた。怪死事件。被害者男性。その男は、綺麗な名前をしていた。

 涙は出なかった。しかし腹に空洞が開いたかのような痛みが走った。そこで初めて、私にとっての先生という存在の重さを知った。同時に、軽さも。


 虚無と死。私を彩る、無色透明な花。私は先生に、何もしていなかったのだ。何も繋がっていなかった。ただ依存していたものがひとつ消えただけ。また元の虚ろに戻っただけ。

 言われるがままに答えを入れ、言われるがままの大学に入った。

 ぽっかり空いてつぶれやすくなった心を、上から押しつぶすようにしながら修士まではやった。

 そして誰にも言われなくなってから、最悪手のような場所に勤めた。

 まだ名字を言っていなかったが、おそらく語る必要もないだろう。この時の私は言わば怪しげな教団の薬品開発部門の人間、こんな妙な経歴は他にない。

 ヒーローだと、その時は思った。

「初めまして、お嬢さん」

 その声の主のことを、私は特別に”あの人”と呼んでいる。彼女はまだ10代の、しかしこの教団トップの戦闘員だと誰かが言った。”あの人”の言葉には、私はお嬢さんと呼ばれていい年齢ではない、といったものを返した。世界から己を閉ざすように前髪を伸ばして、口数も極力減らした私のことを、それでも”あの人”はお嬢さんと呼んだ。きらきらとした笑顔はまるで太陽のような、もしくは辺り一面の雪景色のような、そんな輝きがあった。

 久しぶりに憧れを思い出した。極限のような環境の中で、私は確かに彼女に引き上げられた。暗闇に佇む私を、彼女は全て照らした。もう一度救われたのだ。私は彼女に何かしてやりたかった。しかしそれを思いつく前に、先に彼女が私の前で命を、まだ20にも満たない人生を散らした。天使の翼のように飛び出す赤。彼女は終ぞ醜い姿を見せなかった。どこまでも輝き、その血までもが、輝いて見えるほどに。

 銃弾をかばうようにして崩れ落ち、焦点の定まらない眼で”あの人”は私に言葉をくれた。私はまた貰いっ放しになった。

「生きな、君は」

 また生きろと言われてしまった。また、あの時のような、腹に穴が開いたような痛みが走ったのを覚えている。きっとまた、私は同じ過ちを犯す。それでも生きろと言うのだろうか。

『貴女は、何かなりたい者はありますか』

 頭に焼き付いた、二度と聞けない声がする。

『気丈に振舞えば、何とかなる物さ』

 ”あの人”の声も、もう聞くことは叶わない。

 でも、従うことは出来る。私は生きる。悪夢を背負って。なりたい者は既に決まっている。気丈に振舞って、これからを誤魔化そう。そして”あの人”のように生きよう。二度と返すことのない借り物の言葉と、髪留めで、私はもう一度世界に目を向けた。


 しかし、二度あることは三度ある。事実として、ここに語られない三度目がある。

 これはどこからか受けた罰なのだろう。だからこそ、私は今日も、悪夢のような地獄を生きるのだ。

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夢の叉路 御前黄色 @Omaekissyo

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