第四話 針と糸

 夕方になった。店の外から、帰宅する小学生たちの声が聞こえてくる。そろそろ閉める準備かな。そう思っていたとき、中年の男性客が入ってきた。


 男はテーブル席にどっかりと座り、カバンの中の書類を漁っている。俺は水を出しながら、注文を聞いた。


「いらっしゃいませ。 ご注文はいかがなさいますか?」


「コーヒー、アイスで頼む」


「かしこまりました」


 男は老眼鏡をかけ、束になった書類を読み始める。ちらっとしか見えなかったが、何やら難しそうなことが書いてあった。


 しばらくしてコーヒーを持って行くと、相変わらず熱心に読み込んでいた。


「こちら、アイスコーヒーでございます」


「おお、すまんね」


 男は片手で書類を持ったまま、もう片方の手でコーヒーを飲み始めた。なんだか、忙しない人だなあ。


 しばらくすると、書類を読み終えた男が話しかけてきた。


「君、バイトの子?」


「いえ、甥でして。 しばらく店を任されています」


「マスターは元気なの?」


「ええ、変わりありません」


「そうか、なら良いんだ」


 男はそう言うと、カバンから何かを取り出した。あれは……糸?がついた針? なんの道具だろう。


「ティッシュを一枚くれないか?」


「は、はい。少々お待ちを」


 ティッシュを渡すと、針でそれを縫い始めた。いったい何をやっているんだろう?


「あの、何をされてるんですか?」


「練習だよ。 初心を忘れないように、毎日こうしているんだ」


 よく見ると、縫い方が特徴的だ。普通の裁縫とは明らかに違う。だけどなんだか美しい手さばきで、思わず見入ってしまう。


 間もなく縫い終えると、男は帰り支度を始めた。


「勘定を頼む」


「かしこまりました」


 レジを叩いていると、男がじっと俺の胸あたりを見ている。


「あの、どうかされましたか?」


「君、マスターと似て漏斗胸ろうときょうだねえ」


「なんですか?それ」


「胸が少しへこんでいるってことさ。 マスターのは特徴的だったから、よく覚えているよ」


「はあ、そうなんですか」


 この人、叔父さんとどういう間柄なんだろう。ん?男のネクタイを見ると、なんだか見覚えのあるロゴが印字してある。テレビ番組のロゴだったような……


「すいません、そのネクタイって」


「これ? 密着取材されたときのだよ。 記念に貰ったのを着けてるんだ」


「密着取材……ですか?」


「いやあ、あっちこっち追いかけられて大変だったよ」


 言われてみれば、この男の顔を何度かテレビで見たことがあるような気がする。この人は、たしか……


 そんなことを考えていると、男が店のドアを開けて出ようとしていた。俺は慌てて挨拶をする。


「ご来店ありがとうございました。 またのお越しをお待ちしております」


 すると、男は笑みを浮かべながら口を開いた。


「じゃあ、マスターに伝えておいてくれ。 『またのご来院をお待ちしております』ってね」

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