3.

 日が沈み、海水浴場が閉まるよりも一足早く、海の家は店じまいをし、バイト初日が終わった。

 文香さんと澪さんとともに今夜泊まる宿に向かった。たどり着いたそこは想像よりもずっと大きな旅館で、廊下を渡る間も広々とした和室に通されてからもついそわそわと周囲を眺めた。

「ここが今日から三日間君たちが過ごす部屋でーす。グレードは低いけど、まぁ、そこは勘弁ね。大人になってからまたいい部屋に泊まりにきて」

 澪さんがパチンとウィンクする。これでグレードが低いのか、とまた呆然と周囲に視線を巡らすとは反対に、鷹楽くんはさっさと部屋に上がると、荷物を広げた。

「夕飯までは後一時間くらいかるから、それまではのんびりくつろいでて。温泉行ってもいいし。あとなにかあったら、スタッフ呼ぶか、ここから反対側の突き当たりの部屋に来てね。アタシと文香はそこに泊まるから」

「じゃあまた夕飯の席で」と澪さんがひらりと手を振り「喧嘩すんじゃないわよ」と文香さんが笑って去っていく。

 鷹楽くんはあっという間に荷物の整理を終えると、スマートフォンを眺め出した。

 俺も明日着る服などを外に出してから、この空き時間をどう過ごそうかと思案した。

 風呂に入るには時間が足りないし、大人しく夏休みの宿題でもするか、と、テキストを広げた。全教科万遍なく毎日コツコツ進めているそれは、残り三分の一とほどとなっている。

「鷹楽くんは宿題どれくらい進んだ?」

「終わった」

「早っ」

「面倒臭いもんはさっさと終わらせた方がいい」

 そう言われるとたしかに、後回しにするようなタイプではないかと納得する。

「じゃあ、残りの夏休みはどう過ごすんだ。茅ヶ崎くんと遊んだりするの?」

 鷹楽くんは嫌そうに瞳を細めた。

「……一度は会った」

「会ったんだ」

「期末の補習のための勉強教えろっってうるせぇから仕方なく」

「補習になっちゃたんだ」

 ちょっと気の毒だが、それをきっかけに勉強会を開く二人の姿は微笑ましくも、羨ましくもあった。同級生だったらよかったのかなぁ、なんてしようもないことも考えてみたりするけれど、それが問題というわけでもないと思う。

「楽しそうじゃん」

「別に楽しくはない」

 と、鷹楽くんはぶっきらぼうに言ってから、

「……お前は」

 ぽつりと呟いた。

「夏休み。なにしてんだよ」

「なにって、いつもどおりかな」

「お前のいつもどおりなんて知らねぇ」

「えー……朝起きたらラジオ体操して」

「小学生か」

「小学生じゃなくてもラジオ体操はするって。俺は毎日やってんの。それから、猫に餌やったり」

 鷹楽くんの瞳がほんの少しだけ開かれたような気がした。やっぱり猫、好きなのだろうか。会いにくる? と言えば、うちに遊びに来たりしたり……しないか。普通に断られそうだ。

 鷹楽くんがこの部に入ることになったきっかけの日以来、学校外で会うことはちっともない。一駅違うところに住んでいるし、誘われることはもちろんなければ、俺からも誘いをかけられない。友達でもないのに、と断られそうだし、そうなったら悲しいから。

「あとは課題やったり、買い出しに行ったり、仲いい妖たちと会うくらいかな」

 鷹楽くんは黙り込むと、じっと俺を見つめた。

「……人より妖とお友達してるんだな」

「まぁ、人の友達いないからな」

 鷹楽くんにもぼっちと言われるくらいだいだし。と苦笑混じりに返したら、なぜか鷹楽くんは眉間に皺を寄せた。それから、ぷいとそっぽを向いて、スマートフォンと睨めっこをし出した。

 以前から、たまにこういうことがある。妖にまつわる話をすると、鷹楽くんの機嫌が降下する。

「鷹楽くんって、そんなに妖が嫌いなのか」

「別に好きでも嫌いでもない。どうでもいい」

「じゃあなんで妖の話出すと嫌な顔すんの」

「……妖の話じゃないだろ」

 鷹楽くんがぽつりと零す。なんだと首を傾げると、鷹楽くんは体ごと動かして俺に背を向けた。

「うるせぇ。大人しく宿題でもしてろ、愚鈍野郎」

「ええ〜……」

 なぜか罵られた。

 妖とのかかわりはあまり触れられたくない話題なのだろうか。しかし思えば、鷹楽くんの見鬼を奪ったのは妖を利用する禁書の術と言っていたし、筆舌に尽くし難いなにかがあるのかもしれない。

 そうして、部室にいる時と変わらず一緒に居ながらそれぞれの過ごし方をしていると、夕飯の準備ができたという連絡が入ったから、揃って大広間へと向かった。

 廊下の途中で合流した文香さんたちは浴衣を纏っていた。髪の毛も少ししっとりとしていてどうやら先に温泉に入ってきたらしかった。

「いやぁ、ここの温泉は相変わらず最高だわ」

「そりゃよかった。君たちは温泉行かなかったんだ」

「いや、俺は……食後にしようかと思ってて」

 眉を下げて笑んで見せれば「楽しんできなさいよ」と文香さんがバシバシと背を叩いた。

 大広間につくと、四人並んで膳についた。今日の夕食はしゃぶしゃぶらしく、スタッフが各席を回っては、卓上コンロの固形燃料に火を灯す。そして、一人用の小ぶりな鍋に出汁を注ぐ。

 白磁のさらには質の良さそうな肉が整然と並び、他にもてんぷらや茶碗蒸しなどが並んでいた。

 以前から思っていたが、鷹楽くんは食事の所作がとても美しい。背筋はぴんと伸びていて、箸づかいには迷いなく丁寧で、なにかをこぼしたり跳ねさせたりはちっともしない。育ちがいいのだろうな、と感じる。文香さんたちの談笑を横に、俺もたまに鷹楽くんと言葉を交わしたりちらりと綺麗な所作を眺めながら、美味しい夕食を終えた。

 部屋に戻ると、鷹楽くんは着替えとタオルを用意した。それから、氷を入れた麦茶をのんびりと嗜んでいた俺に怪訝な顔をした。

「温泉」

「行ってらっしゃい」

「そうじゃねぇ……お前も行くんじゃないのか」

「あー……俺は今日は部屋風呂の気分だから」

「どっか怪我でもしてんのか」

「いやそんなんじゃないよ。気分だって。鷹楽くんは気にしないで行ってきて」

 手を振れば、鷹楽くんはしばしじっと俺を見つめてから、黙って部屋を後にした。

 一人きりになった部屋はしんとしている。鷹楽くんと二人でいてもだいぶ静かだけれど、呼気があるだけ、まだ寂しくないというか。

 一人は寂しい。

 父がかつて俺をそう慰めた意味を、歳を重ねるごとに、誰かと知り合うほどに思い知る。猫たちが庭に来てくれたら嬉しい。兒玉くんが遊びに来てくれたら嬉しい。文香さんがコーヒーを飲みに来てくれたら嬉しい。鷹楽くんが部室に来てくれたら嬉しい。

 そして、帰ってしまうと、やっぱり寂しい。父も母もいない今、俺は簡単にひとりきりになれてしまう。だからこそ、たくさんの存在と出会えてよかったと思う。父と母が恋しくなる。自然の音しかしない一人きりの空間になると、どうしてこうなってしまったんだろうとつい考えてしまう。

 沈む思考を払うように頭を横に振って、部屋風呂の用意にかかった。といっても、栓をして蛇口を捻って、タイマーをセットするだけだけれど。その間に、ちょっぴり庭先に出てみた。今日は天気がよく、星は点々と煌めき、三日月がくっきりと見えた。

 この部屋からは海を望むこともできて、なんとも贅沢な景色と共に、部屋から持ってきた麦茶を楽しんだ。

 真夏の夜の熱に氷が崩れてからんと涼やかな音を立てる。風流に気分を良くしてたそのとき――禍々しい気配がふいに肌を掠めた。

 はっと目を見開き、どこからだと視線を回らすと、砂浜を歩いている一人の女性がいた。どこか憂鬱な雰囲気のその人の背後には、輪郭が朧な血濡れの瞳の妖がいた。大きなウミウシのように見えるそれは、女性の背にぺったりと張り付いている。

 駆けつけようにも、敷地外には行けないように柵が張り巡らされている。ならば、こちらに妖を寄せるか。しかし、ここの地面は砂利で埋まっているし、それならば俺が砂浜に行った方が。ぐるぐる考えても時間の無駄だ、誰にも迷惑をかけない場所で対処すべきなのだから、と俺は部屋を飛び出した。

 懸命に走って砂浜に駆けつけると、妖はまだ女性に張り付いていて、暴走をしていなかった。まだ邪が上手くなる気を伺うだけの理性があるということなのだろうか。それでも、危ういことに変わりはないから俺は急いで砂浜に我流の陣を描いた――描こうとした。しかし。

「人の世を見出しき悪しき邪よ。災禍の償いにその身を焼き尽くせ、焼き尽くせ」

 淡々とした声がした瞬間、妖は言葉のままに、青い炎にその身を焦がした。そして――何も残さずに消えた。

 なにが起きたのかさっぱり分からなかった。呆然と立ち尽くしていると、

「やっぱり、こちら側の人だったのね」

 と声がかけられた。それは先の恐ろしい文言を唱えた、昼間に聞いた、少女の声だった。

「でもあなたに見覚えはないのよね。ねぇ、ともり」

「ゆ、ゆかりが覚えてないなら、僕も覚えてるわけないよ……」

「そりゃあそうね。愚問だったわ」

 振り向けば、セーラーを纏った双子がいた。

「こんばんは」

 月光を受けた微笑みとともに紡がれた挨拶に、しかし答える気は起きなかった。先の光景が目に焼き付いて離れなくて、言いたいことがすべて体の中途でつかえてじりじりと喉を焼いた。

「私たちは名乗ったのに、名乗ってもらうのはすっかり忘れていたことに気づいて、あなたを探していたの。ああ、別に無礼をされたなんて思ってないわ。あのときは、あなたのことをおまけのオブジェクトとしか見てなかったから。それで、あなたの名前は? どこの祓い屋? もしかしてフリーなのかしら」

「……なにをした」

「なにって?」

「さっきの妖になにをしたかって聞いてる」

「別に、普通に祓っただけよ。ともり、なにかおかしなところでもあった?」

「なかった、と、思うよ」

「思うって、あんたはいつもあいまいで頼りない」

 辟易と言った直後、ゆかりさんはともりくんのスカーフをぐいっと引っ張った。

「この私が、おかしな祓い方をする可能性が一ミリでもあるとでも思ってるの」

「な、ないよ。ない」

 身を竦めるともりくんにゆかりさんはふんと鼻を鳴らすと、スカーフを離した。ともりくんが咳き込むのも気にせず、打って変わって笑みを讃えて俺を見た。

「ともりもこう言ってるけれど。私の祓い方のなにが気になったのかしら」

「あの妖をどこにやった」

「だから、祓ったって言ってるでしょう? 祓ったんだからもうこの世のどこにもいないわよ。それが祓うってことじゃない」

 そんなこと――と思ってから、頭の中の引き出しががらりと開いた。鷹楽くんが前に言っていた。祓い屋にはタダシとコワシという流派のようなものがあると。俺は彼らと関わらない方がいいと忠告してくれことを。

 タダシがその名の通り妖のあり方を正すように、コワシもその名の通りの術を使うと――彼女はもしかして、妖を壊したのか。

「……もしかして、あなたタダシの派閥? だとしてもコワシのことをなにも知らないなんて、なかなかに見上げた根性ね。教官は誰なのかしら」

「俺は祓い屋じゃない」

「はぁ? あれだけ明瞭に妖を捉えておきながら? 名前。名前を名乗りなさいよ」

 覚えのある流れながら、あの時とは比にならない不快が皮膚を張っていた。

「……百々瀬、凛兎」

「百々瀬って……まさか、お爺様が嫌っているあの百々瀬? でもこんな年若いわけないし……息子ってこと? 妙な巡り合わせもあるものね。ああでも、組合を抜けたあとは禁則の地に居を構えているってお爺様が言っていたっけ」

 ゆかりさんが一歩こちらに近づきまじまじと俺を見つめてきた。

「ふぅん。その血筋で、ただ見えるだけの一般人が生まれたってわけね。もったいない。たしか百々瀬もタダシの系列だったわね。じゃあもしかして、コワシの祓い方をみたことなくてビビっちゃった?」

 ビビった。それも、たしあかにあるかもしれない。けれど、それよりも俺の中には、皮肉がじりじりと焼けるような怒りがあった。

「あんなやり方、間違ってる」

「間違ってる? おかしなことを言うのね。祓い屋じゃないと自分で言っておきながら、祓い方に善悪を唱えるの? もしかしてあなた、妖が見えるってだけで妖に同情してるタイプの人間? ねぇ、そういうの、なんて言うか知ってる?」

 砂を踏んでさらに歩み寄った少女が俺の眼前で囁いた。

「詭弁よ」

 と。

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