隠し事

1.

 海がさざめき、若い男女や家族連れの賑やかな声があちこちから聞こえてくる。水着姿で砂浜を歩いたり海の中に入る彼らはとても涼しそうで、鉄板と睨めっこの俺にはとても羨ましく思えた。

「焼きそば、大盛り三」

 隣で接客係の鷹楽くんがぶっきらぼうに言う。文香さんに「愛想よくがんばれ」と言われたのを忘れたのか――いや物覚えのいい彼のことだから、ただ単純に従う気がないだけな気もするが、客にも俺にも日頃と変わらない態度で接していた。強いて言えば、雑踏に紛れないようにほんの少しだけ声は張っているけれども。

 八月に突入した、夏休み第二週――俺と鷹楽くんは海の家でアルバイトをしていた。


 澄北では学校側に申請をすればアルバイトをすることが許可される。その審査はわりとゆるく「将来のため」ということを、ちょっぴり膨らませて書けば大体は通る――バイ、文香さん。

 まだ七月に入って間もない放課後に、勢いよくドアを開けて部室に来た文香さんがお「少年たち、海に行こう!」と宣った。

 俺はきょとんとして、鷹楽くんは嫌な予感がすると言わんばかりに顔を顰めた。 

「海って……ゆらビーチですか?」

 家から車で三十分ほどのところにある海水浴場の名を出せば、文香さんは「そう」と嬉々として頷いた。

「この間、大学の漫研時代の友達と飲みに行ったんだけどさ。毎年あそこで海の家開いてんだけどここ最近華も人手も足りないって言うから、うちの若いの貸そうかって言ったら、是非ーって言われちゃってさ」

「そんな勝手な……」

「こっちにも予定ってもんがあるんですけど」

 鷹楽くんがむっすりと言うが、当然文香さんは意に介さなず、

「これは部活動の一環よ。海の家のお手伝いなんていかにもなんでも屋のお手伝いっぽいじゃない」

 とにこやかに請け合う。

「なにも夏休み中ってわけじゃないわ。八月の頭にほんの三日程度よ。その間はその子が経営してる宿に泊まらせてもらえる上にバイト代も出るんだから、悪い話じゃないでしょ? あ、これ、バイト申請書ね」

 俺と鷹楽くんの前にプリントが差し出される。仕事が早いというか、やっぱり勝手というか。

 顔を見合わせる鷹楽くんと俺をよそに、文香さんは白猫のマグカップを用意すると俺の隣に腰を下ろし「コーヒーよろしく〜」と手を振る。

 文香さんが部室に来るときは基本的には休み時間などに「今日コーヒーよろしくね」と声をかけられるが、こうして突然訪れることもしばしばある。四月までではそういうときは俺が席を立ちコーヒーの用意をしていたけれど、鷹楽くんが入部してから彼が真っ先に動いてくれるから任せっきりになってしまっていた。別に後輩だから雑用を積極的にこなさなくちゃいけない、なんて意識を持たなくてもいいとは伝えたけれど、彼は変わらなかった。やっぱり律儀というか真面目というか、彼の美点なのだろうと思う。

 鷹楽くんがコーヒーサイフォンの用意をするその間に俺は目の前のプリントをひとまずリュックにしまおうとしたが、しかし文香さんにぴたりと机に押し付けられて止められた。

「今書いちゃいなさい。善は急げ、よ」

 頑固ながらもどこか歌うように跳ねる声音に、予感はあったけれどやはりなにか裏があるな、と思った。

「……俺らをダシに何か取引でもしてる?」

「あんたのような勘のいい子どもは好きよ」

「勘いいか? そいつ」

 アルコールランプに火をつけながら、鷹楽くんがさらりと突っ込む。俺も俺のことを勘がいいだなんて思ってはいないけれど、人に言われると微妙にむかっとする現象はなんなのだろうか。

「あら。凛兎になにか思うところでもあったの? 鷹楽少年」

「……別に」

「ふぅん」と文香さんがにやつけば、鷹楽くんは忌々しげに顔を背けた。

「まぁたしかに、勘のいいは言い過ぎたわね。あんたら一家はみんな自分に関する勘は馬鹿になってるもの。遺伝なのかしら? まぁ、それはいいとして……いや、よくはないけど」

 文香さんは咳払いを一つすると、机上に肘を立てて神妙中尾の口元の前で両手を組んだ。

「あんたら紹介する代わりに、チケット取り協力してもらう約束してるの。だから、よっぽどの用事がない限り、ノーとは言わせないわ」

「暴君……」とぼやく鷹楽くんに「あら、なにかいったかしら」と文香さんがすかさず威圧的な微笑みを向ける。どうせそんなこったろうと思っていた俺は肩をすくめた。

「俺はやることもないし別にいいけど、鷹楽くんは分からないだろ。実家に帰るとかあるかもしれないし」

「別に、そんな予定はないけど」

「なら、オーケーってことね」

「……」

「あんたこそ、今回の目玉なんだから」

「……どういうことすか」

「鷹楽は華にも力にもなるじゃない」

 たしかに文香さんの言う通り、鷹楽くんには華も力もある。少しもケチのつけようがないほどに美人だし、肉体も鍛えているようで俺より逞しい。

「まぁ、無愛想なところが難点だけれどね。当日は愛想よく振る舞いなさいよ」

「もう行くのは確定なのかよ」

「だって用事ないんでしょ?」

「だからって……鷹楽くん、嫌なら断ってもいいんだからね」

 鷹楽くんは文香さんと俺を順に見てから、短くため息を吐いた。

「……別にいい。部活の一環なら。それに、そっちの方もそのうち行きたいと思ってたから」

 それは、祓い屋の仕事絡みか、それとも鷹楽くん望みにまつわることなのだろうか。

 聞いたら教えてくれるだろうか。

 文香さんの登場により切り出すのを失敗したのもあってか、先の勇気が尻込んでしまう。

 結局聞きたいことは何も問えないままに――俺たちはアルバイト申請書類を作成し、文香さんのアドバイスもあってかあっさりと許可を得て、迎えた八月の早朝から、文香さんの運転でゆらビーチに足を運んだ。

 この海の家の経営者であり、文香さんの大学時代の友達である澪さんは気さくな人だった。午前中は学校の用事があるからと文香さんは一旦帰ってしまったけれど、初対面かつバイト初経験の俺たちを慮ってか、しばしこの海の家で起こった過去の出来事や大学時代の文香さんにまつわる雑談をおもしろおかしくしてくれた。おかげでなんとなく緊張がほぐれたところで、仕事についてレクチャーするから調理担当と接客担当に分かれてほしいと言われた。

 正直言って、俺はお世辞にも社交性に自信があるとは言えない。こう言っては失礼だろうが先生に敬語は使えても基本的に誰にでも不遜な態度な鷹楽くんも、接客向きではないだろうと思う。そもそもに、二人揃って、人が少し苦手なのだ。しかし鷹楽くんは「調理はお前がした方がいいだろ」とあっさり譲ってくれた。

 これには一応訳がある――遡ること、五月のこと。鷹楽くんの家に雨宿りをしたまま泊まったときに、手作りの夕飯も振舞ってもらったのだが、それがなかなかに……なかなかだった。具材自体にはおかしなところはない……少なくてもうざがられない程度に調理風景を盗み見た限りだとないように見えたのだが、なんとも形容し難い味で、あんなものを食べたのは人生で初めてだった。

 雨宿りさせてもらっている上にご馳走してもらった身だ、それに一人暮らしをはじめて間もないだろうに節約や健康のためにか自炊をしているだけで十分偉いのに挫くこともないだろうと、文句はもちろん言わずなるたけ顔にも出さないように尽力した。

 が、それはそれとして。鷹楽くんはこれを美味しいと思っているのだろうか……、と様子を伺いはした。彼は盛大に顔を顰めていた。味覚は俺と同じ方向にあるみたいだが、料理は苦手らしかった。なにげにこれが一番最初に知った、鷹楽くんのかわいらしい弱点だったりする。

 だからそれとなく、泊まらせてくれたお礼に朝は俺が作ろうかと申し出た。

 友達がいなくても家でできる趣味として子どもの頃から料理は好きだったから腕には多少の覚えがある。冷蔵庫にあった材料を見て、たまごサンドとキャベツとベーコンのスープを作った。それぞれに「いただきます」と挨拶をしてからスープ、それからたまごサンドを口に運んだ鷹楽くんの表情が、ほんの僅かだけれど綻んだ気がした。それから「あんた料理できるんだな」とも言ってくれたから一応口には合ったのだろう。

「いいの……? 鷹楽くん、接客できる?」

「馬鹿にしてんのか。別に注文受けて答えて金銭と商品を授受するだけだろ。できるわ」

「でもいろんなお客さん来ると思うよ。クレーマーとか来ても大丈夫?」

「腕っ節には自信がある」

「おい」

 暴力で解決しようとするな。

「冗談だ」

 珍しい冗談だったらしい。分かりにくい。

「口論も苦手じゃねぇからどうにかなんだろ」

「そういうもん……なのか?」

 と、首を傾げると、澪さんが楽しげに笑いながら日焼けした手が俺と鷹楽君の方に乗った。

「さすがにクレーマーが来たらアタシの方で対応するから大丈夫だよ。無線置いとくからなにかあったらちょちょいっと連絡して」

 澪さんはにかっと太陽のような笑顔を浮かべた。

 それから、俺と鷹楽くんはそれぞれ調理と接客のレクチャーを受けた。鷹楽くんは文香さんからそれはもう熱心にそしてゆらビーチに開場と共に店も開店した。

 最初の方は多くの人は水着に着替えるために脱衣所に向かったり、それ以外の人も砂浜にレジャーシートを敷いたり、パラソルや椅子を設置していた。

 俺たちはしばしの間はレクチャーしてもらったことを復習をしたり、海を眺めたりと平穏な時間を過ごした。しかし、一時間ほど経つと少しずつ客が訪れるようになった。

 暑い夏でも熱い出来立てが一番美味いからと作り置きは用意せず、客が訪れそうな気配がしてから油を敷いた鉄板に具材を投じて調理にかかる。鉄板もヘラも家庭料理じゃそう使わないから新鮮で、俺たちの昼食用というていの試作品を何度か作らせてもらってようやく少し慣れた程度だ。少しずつ客の列ができていくけれど焦らず「まずは速さよりも丁寧さを大事にしてね」と澪さんに言われた通りに美味しいものを作れるように注力した。

 それでも隣にいる鷹楽くんのやりとりは耳に入った。というか、気になって集中する傍で耳を欹てていた。やはり愛想こそはなかったものの、いつもより少しだけ声を張りたしかにマニュアル通りのきちんとした接客はできていた。接客担当はパック詰めも手伝ってくれるからそこは鷹楽くんに頼りつつ、俺はせっせと鉄板を掻き回した。

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