10.

 目が覚めると、薄暗い青紫に陰る天井が映った。全身が妙に気だるく背が痛かった。後者は視界の端に見えるいくつかくっつけた机の上に転がっていたからだろう、と気づくも、なんでそんなところで転がっていたんだ、と眉を顰めながら体を起こしてあたりを見渡せば、すぐに四人の姿目に入った。

 不機嫌な鷹楽くん。

 耳まで真っ赤にした茅ヶ崎兄弟。

 それから、愉快げなナノコ。

 気を失う前とは全く違う三人の態度に困惑してから、気を失う直前にナノコに何かされたことを思い出す。

「ナノコ、なにしやがった」

「頼んだ通り、あなたの体に私の思いを伝えてもらいました」

「乗っ取られてたんだよ、お前」

 鷹楽くんが渋い表情と声で言った。

「乗っ取りなんて人聞き悪い。ちょっと拝借しただけですわよ。ちゃんと、あなたに許可も取りましたでしょう」

「あれは許可とったって言わねぇよ⁉︎」

「あら、それはうっかり」

「うっかりじゃねぇだろ! こんなことできるなんて聞いてないぞ」

「秘密の特技ですので」

「……悪用とかしてないだろうな」

「あら、私をなんだと思ってますの」

「過度な悪戯好きの性悪妖」

「ひどい! そんなこと言われたのはじめてですわよ」

 両手で頬を包み瞳を伏せながら大袈裟に身を捩らせるナノコは、しかしどこか楽しげだった。その証拠に、

「まぁ、あっさりと警戒を解く、お人好でからかい甲斐のあるあなたも悪いですわよ」

 なんてあっさりと開き直りやがった。

「そんなことはねぇだろ」

 というか。

 乗っ取られている間の記憶が全くない。

 が、茅ヶ崎兄弟の様子を見るに。

「あの、さっきの、百々瀬先輩の演技、じゃ、ないですよね? いやいいです、答えなくて。もし演技だったとしたら僕恐ろしすぎて、人間不信になりそう」

「これなら幽霊がいたって信じる方がよっぽどいいです」と茅ヶ崎くんが何かを思い出すようなそぶりをしながら、気まずそうに視線を彷徨わせた。

「告白なんて、はじめてされた……」

 颯くんが頬を抑えたままぼうっとしている。

「鷹楽くん」

「……なんだよ」

「俺、なにしたの」

「話してやってもいいが、知らない方がいいことも世の中にはあると思う」

 そっけなくもいつにない気遣いがこもった声に、俺はげんなりと首を横に振った。脳裏には先日ナノコが鷹楽くんに変身したまま愛を叫んだ姿が描かれていた。あんな感じのことをしたのか、それともあれより過激なことをしたのか。想像しただけで卒倒してしまいそうだったから、俺は思考にそっと蓋をした。

「ああ、忘れてましたわ」

 ナノコが上げた声に、つい身構える。

「そう警戒しないでくださいまし」

「するだろ普通!」

「今度こそあなたから伝言をお頼みしますわ――お返事は結構ですと、お伝えくださいまし」

 俺はぱちりと瞬く。

「……いいのか?」

「ええ。お互いのためにもそれがいいんですの」

 体を勝手に使われおそらく――間違いなく、珍妙なことをされたとはいえ、それでもそんなことを言われたら切なさを覚える。たしかに妖と人間の間の恋なんてのは障害が多いだろうしナノコの言う通りだけれど。

 複雑になる俺の心境を察したようにナノコは微笑んだ。

「もちろん、答えていただけたら嬉しいですわよ。それが是でも非でも」

「なら」

「ですが、私は恋多き乙女ですから、たとえ同族になりたいと思っていただけても一途に愛し抜く保証はできませんの」

 悪びれもなくナノコが言った。とんでもない理由だった。切なくなった俺の心を返してくれ。

「口調でだいぶカバーされてるけど、あんたさては結構なクズだな?」

「あなたは本当にお口が悪いですこと――でもね、リトさん。そうじゃなければ、私はとうに彼を呪っておりましたわよ?」

 ナノコがほんの少しだけ声に神妙を孕ませ、それでいて小学生の少女の姿であることを忘れそうになるほどに、妖艶に微笑む。

「私、これでもこの世界に生まれて結構長いので知っておりますの。恋の力は恐ろしいってこと。これでも、一度痛い目を見ているんですの――それこそ、おそらくあなたが望んでいる件の殿方に」

 目を見開く。視線を絡ませたナノコ微笑みに、ほんの少しだけ寂しさが滲んだように見えた。

「リトさん、今回はまことにありがとうございました。そして、ハヤテさんも。また会えて嬉しかったですわ。おかげで、とても楽しい時間が過ごせました。リトさん、件のお話は……また今度、腰を据えてゆっくりと、いかがでしょう。ああもちろん、話すことがないから焦らしている、などではありませんわ。私、冗談は言っても嘘はつきませんの」

 これでもかというほど振り回されたけれど、滲んだ寂しさにもその言葉にも嘘はないように感じた。「分かった」と頷けば、ナノコは薔薇が咲くように微笑んで、スカートの裾を掴んでお辞儀し、それから姿を消した。

「……気配、消えたな」

 鷹楽くんが緊張ほどく。茅ヶ崎くんと颯くんは俺と鷹楽くんを交互に見た。

「もう幽霊、消えたの……?」

 颯君の問いかけにこくりと頷いて答える。

「颯くんに伝言を預かった」

「え?」

 颯くんがまたぽっと頬を赤らめる。それにあいつ本当になにをしやがったんだと複雑になりながらも、できるだけフラットにナノコの伝言をなぞった。

「告白の返事はいらないって」

「そう……そっか……」

 わずかに俯くその顔が少し残念そうに見えたのは、気のせいだろうか。

「……幽霊、いるかもしれない」

 そのとき、茅ヶ崎くんがぽそりと零した。それに颯くんがぱっと顔をあげた。

「だって、あんな気絶の仕方演技でもないだろうし……そもそも恐い百々瀬先輩が、あんなこと……う、トラウマもんだ」

 悍ましい記憶でも思い出したかのように茅ヶ崎くんが視線を逸らした。彼の天然の失礼っぷりは相変わらずで、俺はちょっぴりショックを受けた――茅ヶ崎くん俺のことも怖いと思っていたのか……。鷹楽くんにばかりびびっていたから、と思うのは鷹楽くんに失礼かもしれないが。

「お兄ちゃんも幽霊がいたって信じてくれるの」

「信じ難いけど、あんなもの見せられたらなぁ……それに、ここに来てから、おかしなことが多すぎるし……ドッキリ番組でもしなさそうな大形なものばっかりだったし」

「じゃあ、颯のこと信じてくれるの」

「うん――信じる。信じるよ」

 颯くんの瞳がぱあっと煌めく。だが、茅ヶ崎くんはまだ少し曇った表情のままだ。

「ただ……僕が信じても、やっぱり学校の子は信じてくれないと思う。だから、僕は……やっぱり、こういうことはあんまり外で話さない方がいいと思う」

 茅ヶ崎くんの認識は変われど意見は変わらない。それはやはり自分の世界を曲げろというような冷たさも感じるが、しかし、颯くんを思ってのことなのも伝わってくる。俺と鷹楽くんは口を挟まず、颯くんを見た。颯くんはゆっくりと瞬くと、茅ヶ崎くんをまっすぐに捉えた。

「颯は、誰かのために颯の好きを曲げたくない」

「颯……」

「もちろん、気持ち悪いって言われたのすごく嫌だった。思い出すと、今も、すごく、心臓がきゅうってなって……学校も、まだ、いきたくない。でも、でもね。お兄ちゃんが信じてくれたから。お兄ちゃんが信じてくれたから、颯、今日、すごく嬉しかった」

 颯くんが日向の猫のように優しく微笑んだ。茅ヶ崎くんはまだ少し何か言いたそうだった。それでも最後には弟の意思を尊重するように笑みを作り「うん」と頷いた。

 俺としてはほんの少し複雑が残る展開だけれど、それでも茅ヶ崎兄弟のためになれたのなら安い代償、と思うことにする。

 これから颯くんが学校に行けるようになるかはわからない。けれど、一番身近なところに味方ができたことで、良い方向に転がっていけばいいと思った。


 あれから、茅ヶ崎くんは放課後たまに旧校舎四階にある理科準備室を訪れるようになった。そして、颯くんのことをよく報告してくれる。特に熱心に絡まれる鷹楽くんはそれを面倒くさそうにあしらっているけれど「秘密を共有してる仲じゃないですか」といつも押し切られている――茅ヶ崎くんはあの夜のことも、俺たちのことも言いふらしたりはしなかった。

「あいつ教室にも来るようになってマジでうざい」

 颯くんが通うことになったフリースクールのお迎えの時間だと茅ヶ崎くんが帰っていったところで、鷹楽くんは盛大にため息を吐いた。

 七月に入り、空気はだんだんと熱を孕む。昨日から夏服移行期間に入り、俺も鷹楽くんもすぐに重く暑い詰襟を置いて切り替えた。

 半袖シャツから伸びて頬杖をつく鷹楽くんの腕は、顔と変わらずやはり雪のように白い。これから先、夏が訪れたら日に焼けるのだろうか。それとも、黒くはならないが火傷をするタイプか、はたまた日焼け止めを塗るタイプか、なんてしょうもないことに思いを馳せながら、俺は下敷きで自分に向かって風を起こした。

 これまた顧問の私物である扇風機が一応あるけれど今からつけていたら夏の盛りまで持たないだろうから、まだ我慢だ。

「同学年に話せる人がいるのはいいことじゃないか」

「あんなにうざくてもか」

「誰もいないよりはね」

「百々瀬先輩はぼっちだもんな」

「容赦なく言うね……まぁ、慣れたもんだよ。寂しくなったら妖たちに会いにいけばいいし、それに今は放課後になれば鷹楽くんに会えるから、今までを振り返ってみても一番って言えるくらいに恵まれている状況だよ」

 言ってからはっと焦りが生まれた。茅ヶ崎くんの一件で手を組んで以来、勝手に距離が縮まった気がしていた。実際、放課後の会話も以前より増えたし、弾むようになった、と思う。

 けれど、さすがにこれは距離を詰めすぎた……ちょっと気持ち悪い発言をしてしまったかと、久々に罵られるかもしれないと身構えた――しかし、鷹楽くんはほんの少しだけ変な顔をして、それからどこか罰が悪そうにそっぽを向いた。

「あっそ」

 と。

 弾いたり怒ったりはしていなさそうだった。

 ほっと息を吐くとともに、そういえば、とあることが浮かぶ――鷹楽くんがこの街で探しているものについて。

 茅ヶ崎くんの件が片付いたら話してくれると言っていたが、もう聞いてもいいだろうか。

「あのさ、鷹楽くん――」

 と、切り出そうとしたときだった。

 教室のドアが勢いよく開いた。そして、そこに現れたすらりとしたスタイルの凜とした女教師――文香さんは、俺たちを捉えると高らかに告げた。

「少年たち、海に行こう!」

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