8.

 月曜日の放課後、茅ヶ崎くんが再び我が部室を訪れた。

 今朝から降り続く雨が窓を打つ音を横に、茅ヶ崎くんに俺たちと一緒に廃校に行って欲しいという話をした。

「え、えええ、な、なんで僕も行かなきゃいけないんですか? 証拠作りしてくれるんじゃなかったんですか」

「例えばお前がその写真を見せられたところで「幽霊って本当にいるんだぁ」ってなると思うか?」

 鷹楽くんの淡々とした問いかけに、茅ヶ崎くんがたじろぐ。

「そ、それはぁ……なるかもしれなくもないかもしれないというか」

「ああ?」

「な、ならないかもしれなくもないかもしれないです!」

 凄んでも変わらない曖昧に鷹楽くんは舌を打つ。茅ヶ崎くんはさらに縮こまる。噛み合わない二人に咳払いをし、俺は口を開いた。

「俺たちは証拠作りよりも、あんたと、あんたの弟が見たものを一緒に確認しにいく方がいいと思った」

「一緒に確認しにいくって……いや、何言ってるんですか。存在しないものをどうやって……弟に現実をつきつけるってことですか? それは、さらに傷付けることになるんじゃあ……ねぇ?」

「弟を助けられるのは、あんただけだと思うんだ」

「え?」

「弟が一番信じて欲しかったのはあんただと思うんだ。じゃなきゃ、自分の身に起きたことや、お兄ちゃんには分からないなんてこと、言わないと思う。だから、あんたが弟と弟の視たものをたしかめるのが一番いいと思う。存在してもしなくても、それが一番いいとい思う」

 とは言うものの。少なくても弟を連れていけば、悪戯好きのナノコはなにかしらしてくるはずだ――怪奇現象にはあうはずだ。それで同じものを見れば、少しは兄弟の心の距離が縮まるんじゃないかと思った。それに俺が「今何か視えなかった……?」なんて冗談めいた本当を嘯けばいい感じにならないかと……博打的だとは思うけれど、今の俺が描ける俺たちにできるなけなしの策だ。

「で、でもぉ……だからって廃校に行くのは……ちょっと」

「矛盾ビビり野郎め」

「ヒッ」

「大丈夫だ。なにかあったら俺と……鷹楽くんが、守るから」

 ちらりと視線を向ければ、鷹楽くんは面倒臭そうながらも浅く頷いた。

「まぁ、たしかに鷹楽くんぐらい怖い人なら、幽霊さえもびびらせることができそうだけど……」

 茅ヶ崎くんたまにめちゃくちゃ失礼だよな、天然なのかな……まぁ、たしかにできそうでもあるといえばあるけれど。祓い屋の術にどんなものがあるかは分からないが、暴走した妖を正すだけでなく、縛り付けることなどもできるらしいし。

「だから、なんとか弟を外に連れ出して、俺たちと一緒に廃校に行ってくれないか」

「こんぐらいのこと腹括れや……弟を助けたいんだろ」

 鷹楽くんの静かな言葉を受けて茅ヶ崎くんははっと顔を上げた。また鷹楽くんに肝を冷やしたのか、それともその言葉が刺さったのか、茅ヶ崎くんはきゅっと表情を引き締めた。

「 分かりました。行きます。行きますけど……絶対絶対ぜーったい、守ってくださいね?」

「もちろん」

 次の週末の夜に廃校に行く約束をしてから、茅ヶ崎くんはなにかに取り憑かれたかのような重たい足取りで教室を出て行った。

 それに伴い役目を終えた来客用のマグカップを鷹楽くんが流しへと持っていく。

「鷹楽くんってさ。弟妹いる?」

「なんで」

「茅ヶ崎くんへの当たりは強いけど、なんだかんだあの兄弟のこと気にかけてくれてるっていうか、面倒見がいいから」

「それはお前もだろ……まぁ、視えるやつは誰しもああいう出来事に覚えがあるもんだろうが」

 鷹楽くんが蛇口を捻る。水が落ちる音がする。

「ちょっとだけ、話してもいいか」

「なにを」

「俺のこと」

 鷹楽くんは肯定も否定もせず、スポンジでマグカップを洗っていく。それに苦笑して、俺は口を開いた。

「十歳の時にさ。周りとうまくかかわれない俺を心配してくれた先生がいたんだよ。先生は俺が何を言っても信じて寄り添ってくれていたんだ。けど、本当はそうじゃなかった」

 十八年の人生のどんないい思い出よりも、あの日のあの光景が一番鮮明にも射出される。忘れ物をとりに戻った夕刻の学校。薄暗い中で煌めく埃と、少しだけ湿った空気のにおいと、部活動をしている生徒たちの声。教室を出て、廊下を渡り、ついでに先生に会いたいななんて思って立ち寄ろうとした職員室の前で聞いてしまった話。

『先生のクラスの百々瀬くん大丈夫そうですか』

『いやぁ……正直ちょっと困ってるんですよね。きっと、彼なりに周囲の気を引きたいんだと思うんです。じゃないと妖だか幽霊だかが見えるなんておかしなこと言わないでしょう? とりあえず今は彼の心のケアをするために教官に回ってるんですが、これから先、どうやってまともな人との関わり方を教えてやればいいのか……』

 全身から血の気が引いて、凍てつくような心地がした。気がつけば学校を飛び出して、いつの間にか家に帰っていた。その夜は夕飯も食べなかったし、翌日は学校を休んだ。

 父の励ましによって持ち直したけれど、その次に転校した学校からは俺は視えることを隠そうと必死になった。何度もボロを出してはやっぱり避けられたし、うまくいっても人が怖くてかかわれなくなってしまった。

「だから、勝手に共感しちゃったんだ。信じて欲しい人に信じてもらえない悲しみみたいなのは、わかる気がするから。このままだとその弟も人のことを苦手になっちゃうかもしれないだろ。それはしんどいことだから。どうしても、どうにかしてあげたいなって思った」

 洗剤の泡を流し終えた蛇口の水を止める。

 あまり気持ち良くない話をしたという自覚はあるけれど、それでもなんとなく、彼に聞いて欲しかったのだ。いや、なんとなくなんかじゃない――少しでも分かってくれる人に、聞いて欲しかった、俺のエゴだ。

 鷹楽くんは布巾をとり、マグカップを拭った。

「……妹がいる」

「え?」

「お前が聞いてきたんだろ。弟妹はいるのかって」

「あ、うん」

「二つ年下で、世界一かわいい」

 世界一とは。冗談を言わない彼がつけたその枕詞にもしかして結構なシスコンだったりするのだろうか、とまた新たな一面を見た気がした。

「仲いいんだな」

 だから、それにも当然すぐに肯定が返ってくると思って尋ねたら、しかし鷹楽くんはマグカップを拭う手を止めた。

「言えない」

 それはコーヒーを一滴零したような、静かに低く、苦々しい声だった。

「仲がいいなんて言う権利は、俺にはない」

「なにか、あったのか?」

 鷹楽くんは胸に溜まったものをすべて押し出すように、短く息を吐いた。

「俺も結局、茅ヶ崎と同じだ。呪われて視えなくなったときに心配してくれた妹に言っちまったんだよ。お前には分からないって。妹は生まれたときから視えないやつだったから」

 鷹楽くんはゆっくりとした足取りで俺の背後に回ると、棚にマグカップをしまった。「心から心配してくれてたのは分かっていたのに、唯一の肉親で一番大切な存在だったのに。その時の俺には、その他大勢の嫌な言葉の方が突き刺さっていて……いや、こんなのは言い訳だな。妹はそれからも気遣ってくれたけれど、俺はいつまでも素直になれなかった」

「……なぁ、聞いてもいいか」

 棚の戸を閉めた鷹楽くんがこちらに振り返る。赤い瞳に俺が反射する。

「鷹楽くんはなんで呪われたんだ」

「やっかみだ。前にも言ったろ、俺は優秀な祓い屋だって。それを妬んだ同門に呪われた」

「他人(ひと)に呪いをかけられたのか」

「本人はちょっと悪戯を仕掛けるくらいのつもりだったらしいがな。中途半端な才能でどこからか見つけてきた妖を利用する禁書の術を使って失敗しやがって、こうなった。それでそいつは破門になって、俺は腫れ物になったってわけだ」

 鷹楽くんは鼻を鳴らし、席に戻った。

「かけた人に呪いを解いてもらうことはできないのか」

「言ったろ、これは失敗した結果だって。誰にも解呪の方法がわからない。けど、中三になる頃に久々にうちに帰ってきた叔父さんが教えてくれた。この街に行けばお前の望みが叶うかもしれないって。あの家から離れたかったのもあったから、俺は言われるままにこの街に一人で越してきた」

「この街に呪いを解けるなにかがあるってことか。なにが、あるんだ」

 鷹楽くんの目になり、鷹楽くんの望みを叶える手伝いをしていいと言われた。少しでも手がかりがあるのならば、妖に聞き込んだりしながら調べることができるかもしれない。

 鷹楽くんはしばし俺を見つめて、それから黒猫のマグカップに残るコーヒーを啜った。

「まずは茅ヶ崎の問題が先だろ」

「けど、並行して調べれば」

「こっちはわざわざ越してくるくらい長期戦で見積もってんだ。それにお前が並行して色々考えられるような器用なやつに思えない」

 う。

 たしかに、器用ではないけれど。

「だから、そっちが解決してから話す」

 うまく話を逸らされたわけじゃない、と思っていいのだろうか。

 日向の猫のようにあくびをする鷹楽くんを眺めて、そわそわとする気持ちを抑えて、俺も一口温くなったコーヒーを啜った。

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