家族

1.

 香ばしいコーヒーのにおい。紙を捲る音、文字を書く音。ときたま、窓から吹き込むやわらかな風の感触。

 それだけが漂う静謐は、まるで街外れにひっそりと佇む喫茶店のようだ——しかし、ここは紛うことなき深ヶ澄北高校旧校舎四階、理科準備室。よろず倶楽部が活動中の放課後。

 活動、といっても部員総数はふたり。活動内容は悪意なき依頼であればなんでも応じ西へ東へどこへでも駆けていきますというものだが、相変わらずちっとも依頼が来る気配はない。

 だから俺はいつも通り本を読み、机を挟んで向かいに座る鷹楽くんは課題をやっている。たまにコーヒーを飲むあわいにちらりと鷹楽くんを見ては、淀みなくシャープペンシルを動かす姿に感心する。

 数学のプリントはみるみるうちに埋まっていく。そういえば前に文香さんが彼が入試主席だと話していたことを思い出す。容姿が淡麗な人間は文字も美しいものなのかと感心する。

 街中には鮮やかな紫陽花が溢れる六月。鷹楽くんが我が部の部員になってから早一か月が経った。

 その間よろず倶楽部への依頼は一件もなかった。妖に纏わるトラブルもなく、そして俺たちの関係もほとんど変わりない。

 それでも真司さんに脅され入部した鷹楽くんは、律儀に毎放課後、部室に顔を出してはなにかしらに取り組んでいた。

 俺も暇で大概本を読んでいるし、鷹楽くんはおしゃべりな方ではない。だから、この空間には自然や生活音ばかりが響く。言葉が生まれるのは、たまに俺から話を振ったときくらい。そのラリーも長くは続かない。顧問で唯一多弁である文香さんが来るときだけは、まんべんなく話が振られたり弄られたりするから少しばかりにぎやかになる。

 同じ姿勢に疲れてきたから本を閉じ立ち上がって、伸びをする。

 ぐい、と背筋を伸ばしてから肩を回すとぱきぽきと音が鳴った。

 毎朝のラジオ体操、長い坂道を上り下りする通学、体育の運動。それなりに体を動かしているつもりではあるけれど、この軋み具合を見るにそれだけでは不足という事だろうか。ランニングでもはじめるか。でもなぁ……走ることは好きだけど、迷わず往復できる自信のある道を選ぶと大した距離を稼ぐことができない。

 なんてしょうもない思考に耽っているとふいに、ドアからコンと音がした。

 軽い何かがぶつかるようなそれに、俺も鷹楽くんも反射のままに視線を向ける。するともう一度、コン、と音がした。

 なにが起きているのかと思って見に行こうとしたら、しかし鷹楽くんが先にシャープペンシルを置いて腰を上げ、ドアを開けた。

 そこには誰の姿もなかった。

 が、床にはくしゃくしゃに丸められた紙が落ちていて――少し遠くで走る音が響いた。

「チッ」

 鷹楽くんは盛大に舌打ちすると、教室を飛び出した。まさに「あっ」という間に遠ざかる背中に鷹楽くん足早いなぁ、と思いながら俺はドアの前に残された紙を拾い上げて広げた。

 そこには『たすけて』と記されていた。

 なんとも、穏やかじゃない文言だ。だれが、なにから、助けて欲しいのだろうか。

 顎手にを当て首を傾げていると、やがて重たい足音がこちらに戻ってきた。鷹楽くんが俺たちと同じ詰襟を纏った生徒の襟首を掴んで引きずり戻ってきた。

 さっぱりと切り揃えられた黒髪に、眼鏡をかけた小柄な彼はびくびくと震えていた。

「こいつだ、それ投げたの」

「だからってそこまでしなくても……」

「俺はしょうもない悪戯が嫌いだ」

 「ああ……」

 兒玉くんの膝カックンがのうりに蘇って内心で額を押さえる。

 それから、男子生徒の方をちらりと見れば視線がかっちりと絡む。

 彼の肩が大きく跳ね、ただでさえ青ざめていた顔が今すぐにでも泡でも吹かんばかりにさらに青くなった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 髪を乱し眼鏡を振り落とさんばかりに激しく何度も頭を下げる必死な謝罪っぷりに、俺と鷹楽くんが思わず顔を見合わせる。

「なんでもしますからどうか命だけはお助けください」

「……この状況におけるこの手の文言って、むしろ煽りだよな」

 鷹楽くんが辟易したように呟く。

「とりあえず、離してあげたら」

「この態度だ。離したら逃げるぞこいつ」

 まぁ、それはたしかに。少しでも隙を与えたら脱兎の如く逃げ出しそうなほどに、彼は怯えている。

「お前、三組の茅ヶ崎だな」

「ヒッ、な、なんで、それを」

「数学一緒だろうが」

 絶望が迸ったその顔は、正解、ということだろう。

「鷹楽くんって記憶力いいんだな」

 見る限り親しくはなさそうな、数学だけが一緒の生徒の名前を覚えているなんて。そう感心して言えば、鷹楽くんがちらりと俺を見て「お前が鳥頭なだけだろ」と、鼻を鳴らした。容赦ないが、物覚えの悪さは否定できない。

 中学入学当初、俺は友達を作ろうと意気込み、学校中の人の名前を覚えようと努力をしたが、うまくいかなかった。努力すらしていない今はクラスメイトの名前すらもあやふやである。ちなみに暗記系の科目も得意じゃない。クラス替えやテスト期間を乗り越えたらどうせその記憶も無に帰すだろうという諦めもあるせいだろうけれど。

「それで君は、鷹楽くんになにか用事があったの?」

 茅ヶ崎くんは首を横に振った。

「それじゃあ、もしかして、よろず倶楽部の方?」

 茅ヶ崎くんはう、と言葉を詰まらせ、視線を彷徨わせた。

「俺たちは君に危害を加える気はちっともない。けれど、納得できる事情がないと彼も放してくれないだろうし、俺もこんなもの投げられたら気になって放って置けない」

 先に拾ったしわくちゃの紙を掲げれば、茅ヶ崎くんは肩を震わせ、鷹楽くんは眉間に皺を寄せた。

「どういうことだ」

 茅ヶ崎くんは胸の前で両手をぎゅっと握る。やがて、意を決したように、唇を震わせた。

「……よろず倶楽部、さんは。どんな依頼でも引き受けてくれるって、本当ですか」

「一応、悪意がないものであればね」

「悪意……」と反芻した茅ヶ崎くんの瞳がかすかに揺れる。

「これが悪意になるのか分かりません。でも、もう誰も頼れなくて」

 茅ヶ崎くんの胸の前の指先が、雪のように白くなった。

「――弟を助けてほしいんです」

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