2.

 鷹楽くんが入部したことを機に、文香さんはマグカップを新しく買い足した。種類違いの猫の柄が入ったものをみっつ、部員専用のマグカップである。

 俺が三毛猫、文香さんが白猫、そして鷹楽くんが黒猫だ。文香さんの号令でどれがいいか指をさして一発で決まったものだ。

 そのときの鷹楽くんは興味なさげな態度だったが、俺より先に部室に来た際にはコーヒーを用意してくれていて、その際にもきちんと選んだカップを使うし、コーヒー渋が残らないように丁寧に手入れもしている。几帳面なだけかもしれないけれど、それは気に入っている振る舞いにも見えた。普段つけているピアスも黒猫の形をしているし。もし、彼がうちに来ることがあって猫と合間見える機会があればクロに構うかもしれない――なんて起こり得ないだろう出来事だろうけれど。

 俺と文香さんがこれまで使っていたマグカップは来客用となった。白磁のそれに新たに淹れたコーヒーを注ぎ、向かいに座った茅ヶ崎くんに出す。一度に二杯分しか作れないから、茅ヶ崎くんに席を譲って俺の隣に来た鷹楽くんと視線をかわし、好きにしろというように顎を向けられたので、残りは彼のカップに継ぎ足した。

「ミルクやガムシロはいる?」

「い、いえ、大丈夫です」

 茅ヶ崎くんはマグカップに口をつけると、しかしすぐさま「あちっ」と呻いて口を外した。それからふうふうと息を吹きかけて、改めて飲みなおす。一口含むと明らかに眉を顰めた。

「えっと、やっぱり、ミルクとガムシロ使う?」

 もう一度尋ねたら、茅ヶ崎くんはしょぼしょぼとした様子で頷いた。

 そのやりとりを半目で眺めていた鷹楽くんの顔には露骨な呆れが浮かんでいた。

「それで、弟を助けてほしいってのはどういうこと?」

 一息ついて互いに落ち着いたところで、本題を切り出すと、茅ヶ崎くんは眼鏡のブリッジを指でそっと押し上げながら瞳を伏せた。

「うちの弟、四月末からずっと家に引きこもってるんです」

 茅ヶ崎くんがマグカップをそっと机上に置く。

「今年度で小学五年生になったんですけど、その、ちょっと変わったところがあって」

「変わったところ」

「現実的じゃないものがすごく好きなんです。サンタも、魔法つかいも、おばけも、なんでも信じるんですよ、昔から。物語になるくらいなんだから現実にもいるはずなんだって、調べたり探したりしては僕やまわりに嬉々と話して。幼い頃はかわいいで済んだんですけど、今でも変わらないどころ情熱は高まっていく一方で――いかんせん、僕とそっくりなぱっとしない見目をしているものですから〝オカルトオタク〟みたいに思われて周りの子たちから敬遠されて友達もあまりいないみたいで」

 なんとも、身につまされる話だ。一瞬にして昔のことが脳裏を駆け巡って、皮膚が冷えたような火照ったような不思議な感覚がした。

「父と母は放任主義なところがあって。成長すればそのうち〝まとも〟になるだろうって、あんまり気にしてないんです。僕は一応、妄想好きなのはいいけどあんまり人に話すと友達いなくなっちゃうよって注意したこともありました。弟はそれを歯牙にもかけなかったし、まぁ僕もその時は、そんな大ごとにならないだろうって早々に諦めて放って置いちゃって」

 けど、と茅ヶ崎くんの顔がさらに翳った。

「四月に進級してすぐに、ちょっとやんちゃな、それも結構声が大きいタイプの子に目をつけられたみたいで……あ、声量ではなく、発言力の方ですよ。大将気質というか、取り巻きがいる類で。それで、幽霊はいるのかいないのかで揉めたらしいんです。多勢に無勢の論争の結果、弟が幽霊が存在することを証明する、みたいな話になって……ここから三つ先の終点駅から歩いて二十分くらいのところに廃校があるじゃないですか。ネットとかでも心霊スポットって結構噂になってる」

 五年ほどこの街に住んでいる俺はぴんと来ず首を傾げたが、最近越してきたばかりの鷹楽くんは知っていたようで「ああ」と頷いた。

「四月末に友達の家に泊まりに行くって言って弟が帰ってこなかった日があったんです。そのときに、ひとりでそこに行っていたみたいで。それで、弟はそこでなにかを見た……らしいんです、けど。証拠はなくて。それからまた主張し合い揉めた果てに、相手の子に言われたらしいんです。「お前気持ち悪いよ」って」

 ちょっぴり喉が痛んで、心臓がきゅうっと軋んだ。

「帰ってくるなり泣きじゃくる弟からそれを聞いたとき、僕はクラスメイト同士の喧嘩だと考えていましたし、弟が折れたらおさまると思っていました。だって、幽霊がいるなんて胸を張って主張する方が、やっぱり変でしょう?」

 薄い眉を下げて苦笑する茅ヶ崎くんに、俺はすぐになにかを発することも、表情を動かすこともできなかった。鷹楽くんも黙ったままでいた。それを肯定とでもとったのか、それとも返答を望んでいたわけではなかったのか、茅ヶ崎くんは躊躇も訝りもなく話を続けた。

「 だから弟が表面だけでも主張を曲げたら、相手の子も気持ち悪いといったことを撤回してくれて穏便に片付くだろうって、弟を励ましながら説得したんです。けど弟は「兄貴には分からない」って怒って、部屋にこもっちゃって……それきり、学校に行きたがらなくなっちゃったんです。幸いゴールデンウィークもすぐだったから、少し休んだら気分変わるかなって思ってたんですけど、今でも弟は家にこもりっぱなしです。僕は、そんなに傷ついていると思ってなかったし、父と母もさすがに心配はしていたんですけど……その年頃にはよくあることだろうって、まだ単位とかない義務教育の期間だし好きにさせなさいって、言ってて……中学にまで行って掛け合う勇気はないし、こんなこと友達にも話せないし、心配だけれど、どうしたらいいのか分からなくて……」

「それで、藁にもすがる思いでこの教室に紙屑をぶつけて逃走したってわけか」

「そ、そんな藁とは思ってませんよぉ……?」

 鷹楽くんが呆れたように肩を竦めた。

「つまり茅ヶ崎くんは、俺たちに弟さんを説得して欲しいってこと?」

「いえ、違います」

 茅ヶ崎くんは柔らかい声音とともに首を横に振った。

「僕も幽霊なんていないと思います。けど、僕は同じ主張の他人より、意見の合わない弟が大事です。だって、弟だから。それで、弟が教室に戻るためには勝利が必要だと思うんです」

「勝利?」

「つまり――弟をいじめたやつらを負かすための材料が欲しいってことか」

 鷹楽くんの問いに、茅ヶ崎くんはこくりと頷いた。

「廃校に行って証拠を作ってほしいんです——幽霊がいるっていう、証拠を」

 なるほど、彼がこの依頼を悪意かどうか分からないと言ったのはこのためだったのだろう――自分も弟のことを信じていない、けれど、だからこそ、弟を助けるために偽りの証拠を用意して相手を騙したい。大切な者のために、他人を騙すことは悪意になるのかと判断しかねたのだろう。

「証拠を作る、ね」

 鷹楽くんが不遜に鼻を鳴らした。

「〝作る〟でいいなら自分でもできるだろ。スマホのひとつくらい持ってんじゃないのか」

「持ってはいますけど……」

「なら自分でその廃校に行って適当に写真を撮って加工でもなんでもすりゃあいい。今時適当なアプリでも使えば簡単にできるだろ」

「……ご覧の通り、ビビりなので」

「幽霊なんていないって思っているのになにが怖いんだよ」

「いるかどうかと怖い怖くないは、別じゃないですか!」

「ダブルスタンダードかよ」と嘲る鷹楽くんに茅ヶ崎くんは納得がいかないような顔をしながらも、しかし舌戦に勝てないと思ったのかそれとも怖いと思ったのか、青い顔で俺の方をじっと見つめてきた。

「……お願いできませんか?」

 これまでなら俺の一存で決めていたが、今はもうひとり部員がいる。ちらりと視線を向ければ、鷹楽くんは短く息を吐いた。

「部長が引き受けるなら、平部員は従うだけだ」

 態度を改める気配は一向にないものの、一応上下関係みたいなものを重んじるのは、真司さんに指摘されたからなのか。それとも、あくまで先輩と後輩でしかないと、俺とは友達になりたくないという線引きを意図しているのか、計りかねている。それに寂しさも安堵も覚えるから、心というのは面倒だなと思う。

「わかった。週末にでも調査するから、来週にまたこの部室に来てくれ」

「ありがとうございます!」

 茅ヶ崎くんは立ち上がり、頭を下げると、ほっと胸を押さえた。

「噂よりもずっとまともというか、思ったよりやさしいんですね!」

 ちっとも悪気のない態度を見るに、彼なりの激励だったのだろうが、言葉のチョイスが下手というか、思ったり他人に話す分には結構だが本人を前にしていうことかというか。俺は苦笑し、鷹楽くんはため息を吐いた――この状況におけるこの手の文言って、むしろ煽りだよな、というやつである。

 会った時よりは血色の良くなった顔で教室を出ていく茅ヶ崎くんを見送る。それから元の席に戻るでもなく、むっすりと頬杖をついている鷹楽くんに問うてみた。

「幽霊、いたと思うか?」

 かつて妖と幽霊の違いが気になって調べたことはあったけれど、「成仏できなかった魂」とか「人智を超えた存在」とか言葉で書かれていても現実で区別する術がないからあまりピンとこなかった。

「前提として、一般に視えざるものはこっちの界隈では全部妖に一括りだ」

「そんな雑でいいもんなのか?」

 たしかにその方がわかりやすいし、俺も区別できないからすることを諦めたけど。だから、ただならぬ力のことをまとめて〝霊力〟と呼んでしまうけれど、俺はさておき本業の人たちが、という意味も込めて尋ねると、鷹楽くんがちらりと俺を見て短く息を吐く。「面倒臭ぇやつ」と。

「妖や幽霊は人間が勝手に貼っているラベルだ。やつらが自らを妖だ幽霊だと認しているわけじゃない。だからどう括ろうが人間様の勝手だろってのがクソジジイ共の解釈だ」

 クソジジイ共って。祓い屋の偉い人たちのことなのか、それとも鷹楽くんのお爺さんのことなのか。どちらにしても、物言いからして良好な関係ではないだろうことは窺える。

「あいつらは嫌いだが、そこんとこの考えは俺も同じだ。俺も幽霊だろうが妖だろうが呼び名なんてのはどうでもいい。視えざるものにゃあ変わりねぇんだし」

 飽々とした様子だが、きちんと説明してくれるあたり、やはり律儀というか几帳面というか、根はいいやつなんだな、とほっこりすると、鷹楽くんは鋭く「なんだよ」と睨め付けてきた。

「茅ヶ崎くんの弟は視えていたと思うか」

「話を聞いただけで分かるわけないだろ」

 すげなく一蹴された。まぁ、そりゃあそうだ。いくら妖とかかわりのある人間だからとて、伝聞だけでは判断しかねる。

 でも本当に視えたのなら。それで信じてもらえなかったのだとしたら。

 そう思うと、胸の奥の古傷がじんと疼く。

「だが、あそこの妖の気配はそこそこ濃い」

「行ったことあるのか」

「それが俺の仕事だからな」

 きっぱりとした声が言う。

「お前、妖と親しんでるんだろ。そのうえ、暴走する妖にも何度も遭遇してるってんなら、妖が人間が産む邪の気配を好むことぐらいは把握してるだろ」

「妖がみんながみんなそうじゃない。邪を抱いた妖だけだ」

 見過ごせずに言えば、鷹楽くんが目を眇める。「俺は妖の心情なんざどうでもいいが」

「最も標的にされるのは人間に纏わる邪。俺とお前が出会ったときのあれもそうだ、あの妖はさんざん噂されたことにより俺が纏うことになった邪を吸おうとしたんだろう。それで、人間の次に標的になりやすいのは、場所だ」

「ああ、事故物件とか心霊スポットとか」

「そういうよく噂されて注目されるところ、なおかつ、立地も陰気なところだと、邪が黴みたいに蔓延っている。そこには往々にして……お前が言う、邪を抱いている妖が多く住んでいる。そういうところを見回って浄化したり、暴走した妖がいたら祓うのが、祓い屋の努めだ。お前の父親もそうだったんじゃないのか」

 そうだ。だから父はよく引っ越しをした。ここいらには大小様々多くの妖が住んでいるが、長老のチーリンでも祓い屋は数えられるほどにしか会ったことないと言っていた。父が来るまではこの土地はしばらく無法地帯だったととも。件の廃校がそれなりに有名な心霊スポットだと言うのならば、父もそこに赴き、祓い屋としての仕事をしたことがあったりするのだろうか。

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