3.
「お邪魔します」
四、五分ほどで着いたのは築年数の古そうな三階建てのアパートだった。その一階の角部屋が鷹楽くんの住処らしい。
幼い頃から人間の友達がいなかったのもあり、文香さん以外の人の家に足を踏み入れるのはこれがはじめてだった。
少しだけ緊張しながら、鷹楽くんが開けてくれたドアを潜って中に入る。水色の塗装が薄汚れひび割れた外観と打って変わって、綺麗なワンルームがそこには広がっていた。
「家族の方は」と家族で暮らすには狭いのではと思いつつ問えば「ひとり暮らしだ」と鷹楽くんは答えた。
「タオル持ってくるから、そこで舞ってろ」
鷹楽くんは先に玄関から部屋に上がると、短い廊下の途中にあるドアを開けてはいる。それからすぐに、白色のバスタオルを数枚抱えて戻ってきた。ふんわりとしたそれを一枚は床に敷き、もう一枚は俺に渡した。
「ありがとう」
「きちんと拭かないと家にあげないからな」
じっと瞳を細めて俺に釘をさしながら、鷹楽くんも頭から順に自身の体を拭い出す。
「お前、服のサイズ大して変わらないよな」
鷹楽くんは濡れているのが鬱陶しいといわんばかりにパーカーを脱ぐ。その下には、思ったよりも太くかたそうな腕や、しっかりと割れた腹筋があった。
「多分……?」
そう答えつつ、それでも、背丈は……ほんの一、二センチくらいは俺の方が上だと思う、思いたいとつい心の中で足掻いてしまう。体づくりは圧倒的に鷹楽くんの方が上だが、背丈においてはほんの少しくらい優っていたい。俺にも思春期らしい年上の矜持はあるのだ。
「じゃあ着替え貸してやるから、先シャワー浴びてこい」
と、先のドアの方を顎で指される。
「え、でも」
「つべこべ言わず浴びろ。一応、客人なんだから。洗濯機もそこにあるから、タオルと服入れとけ。あとで回す」
「あ、ありがとう」
もしかして鷹楽くんって、意外と面倒見がいいのかもしれない。
促されるままに洗面所で脱いだ服を洗濯機に入れ、シャワーを浴びる。水垢の汚れひとつないすみずみまできれいな浴室だった。
洗濯機の上に用意されていた新品らしい下着とスウェットを纏いワンルームの居間に向かえば、鷹楽くんは眺めていたスマートフォンから顔を上げた。
一瞬だけ視線がかちあったが、すぐに逸らされる。
「お風呂ありがとう」
「ん」
鷹楽くんはスマホを机に置くと、気だるげに腰を上げた。それから「物色するなよ」と言い残して、入れ替わりで洗面所へと向かった。やがて洗濯機が動くごう、とした音と、シャワーの水音が壁越しに聞こえた。
座布団に正座になった俺は、勿論物色なんてことをする気はなかったけれど、そわそわと落ち着かずに周囲を見渡しはしてしまう。
シンプルできちんとした部屋だった。ぱっと見の家具や物の数が少ない。ベッドは起きっぱなしのままではなく、きちんと調えられている。棚の本は作者順に並べられている。ローテーブルに用意された、湯気立つ緑茶が注がれたふたつの湯呑みの下には布のコースターが敷かれている。
やっぱり几帳面なんだなと思った。そんな整然とした部屋の中で、カーテンレールにかけられた先の羽織だけが唯一目立っていた。
深紅の生地に金糸で花柄が施されたそれは上質なものに見える。術を使ったときに鷹楽くんはそれを羽織っていたが、もしかして特別な力でも宿った物なのだろうか。
しばし見つめてみるも、何も分かるはずもなく。
再び机上に視線を戻し、ざらりとした湯呑みに触れてみた。
嵩の減っていない片方は俺に煎れてくれたってことでいいのだろうか。
あと、もうひとつ。机上に用意された救急セットも、もしかして――。
思うも、物色するなと言われたし、彼の私物を勝手に飲んだり弄ったりするのもな、と窓の方を向いて雨を眺めながら待っていると、シャワーの音が止んだ。
やがて洗面所から、肩にタオルを掛け俺に貸してくれたものと色違いのスウェットを纏った鷹楽くんが出てきた。
「手当くらい自分でしろよ」
鷹楽くんは、呆れた様子でこちらを見下ろした。
「あ、やっぱ使ってよかった? 勝手に触んのもあれかなと思ってさ」
鷹楽くんは奇妙なものでも見るように目を眇めると、やがて大仰に息を吐き、俺の隣に腰を下ろした。
「腕、出せ」
言われるままに差し出すと、鷹楽くんは救急箱を開けて消毒液を取り、俺の腕に思いきりかけた。
「痛っ⁉」
「自分でつけた傷だろ」
「そりゃそうだけど! そんなかけなくてもいいじゃん! すごい沁みるんだって!」
眦を濡らして訴える俺に鷹楽くんはふんと鼻を鳴らし、手当を施していく。消毒液がたんまりと掛かったそこを、しかし丁寧な手つきでガーゼで拭ってから大きめのサイズの絆創膏をぺったりと貼った。
それから、鷹楽くんはローテーブルを挟んで俺の向かいに腰を下ろし、茶を啜った。
俺も目の前の湯呑みを手に取り「これ貰っていいやつ?」と尋ねれば鷹楽くんは「見ればわかるだろ」と言わんばかりに呆れ気味の眼差しにこちらに向け、一度瞬いた。
湯呑みに口をつけて飲んだお茶は少しだけ温くなっていたけれど、美味しかった。
「お前の勝算ってなんだったんだ」
喉を流れていく穏やかな苦味をしばしゆるりと堪能していると、ふいに鷹楽くんが尋ねてきた。
「術も何も知らないって言ってたろ。あれは嘘だったのか」
「嘘じゃないよ。俺の父さん、俺に祓い屋になってほしくなかったみたいだから、俺が聞いてもほとんど何も教えてくれなかった」
今になってみれば色々と教わっておけばよかったと思うけれど、後の祭りである。
「ふぅん。聞いた通りの人だな」
「え?」
「……
鷹楽くんの唇から紡がれたその名前に目を瞠り、思わず身を乗り出す。
「あんた、俺の父さんのこと知ってるのか」
「まぁな」
「だってその人は――」と鷹楽くんが言いかけたそのとき、インターフォンが高らかに鳴った。あまりのタイミングの悪さに肩透かしにあった気分だったけれど、この状態で話の続きを優先しろとも言えない。口を噤んで、玄関に向かう鷹楽くんを見送る。
と、ドアから朗らかな男性の声がした。
「久しぶり。新生活はどうだい? 謳歌してる? 友達出来た?」
「久しぶり」の一言から躊躇いなくずかずか朗々とプライバシーに踏み込む容赦のなさ、というか、気安さ。
鷹楽くんの友達だろうか。なんというか……意外なタイプの友達を持っているんだな、とつい好奇心のままに玄関の方に目を凝らして、驚いた。
相手の顔の半分が見えなかった。
鷹楽くんで隠れているからではなく、その人の背丈が、百八十センチほどの縦幅のある玄関を越えていた。
「噂をしていれば……」
鷹楽くんがぼそりと呟き、ため息を吐く。
その言葉に、俺もドアの向こうの人も「え?」と不思議の声を漏らした。
「誰か来てるの?」
「……百々瀬サンとこの息子」
「本当に!?」
ドアの向こうからどん、と激しい音がしたかと思うと「痛っ」という声がした。
間もなく慌ただしい足音とともに、深い藍色の着物と同色の羽織を纏ったなかなかに体格のいい男が近づいてきた。
男は大きな手のひらで俺の両肩をがっしり掴むと、興奮気味に頬を上気させ瞳を煌かせながらも人好きのする笑み浮かべて、言った。
「君、凛兎くんかい?」
そう問う言葉はどこか妙な訛りを帯びていた。
「そう、ですけど」
「まさかこんなところで会えるとは。近いうちに会いに行こうと思ってはいたんだが、忙しくてね。しばらく見ないうちにこんなに大きくなって。全体的には椿さん似だけれど、鼻のあたりとか、耳の形はあいつにそっくりだ」
嬉々とした声が立て板に水の如く紡がれる。目尻に浮かんだ皺が、心から喜んでいることを表しているようだった。
「母のこと、知ってるんですか」
男はぱちりと瞬くと「そっか」と納得したように苦笑した。
「前に会ったときには、君はまだ幼かったもんな」
男は懐を探ると、黒く艶めく四角いケースから紙を一枚取り出した。
名刺と思しきそれには、きちっとした黒字の明朝体で『祓い屋一門 鷹楽家直系
「君の父親の親友であり、哉世の叔父であり、祓い屋一門タダシ派鷹楽の次男である、鷹楽真司だ。どうかな、少しは思い出した?」
鷹楽くんが「肩書の順番逆だろ」と突っ込むと「私としては祓い屋よりも満暈やお前の方が優先だからね」としれっと答える。
なるほど、鷹楽くんの叔父。髪や目の色こそは違うが、たしかに彼は鷹楽くんと同じ血を感じさせる整った顔立ちをしている。
そして――父の親友。
「今から……そう、十年くらい前だったか、私が名古屋に住んでいた頃に近くに越してきたからと満暈が君を連れてきて挨拶しに来てくれたんだが。覚えてないかい?」
かつて父の都合により日本各地を転々としていた頃、たしかに一度だけ名古屋に住んでいたことはある。しかし、真司さんの話のような出来事は記憶を手繰ってみても、言われてみればあったようななかったようなとぼやっとしている。
「すみません」
「仕方ないね、私と君が会ったのはそれの一度きりだったから。満暈のことは勿論、椿さんのこともよく知ってるよ。私としてはかなり親しくさせてもらっているつもりだ。なにせ、あいつが彼女との交際を真っ先に報告をしたのは親友であるこの私だからね。その頃からの付き合いさ」
そう言って、彼は誇らしげに微笑んだ。
父はかつて俺にこの世でふたりだけ親友と呼べる相手がいると話してくれた。もしかして、その片方が——妖ではない方が、この人なのだろうか。
「君が覚えていなくても、私にとって君は大事な親友の息子だからね。昔と変わらず、気軽に真司おじさんと呼んでくれたまえ」
「えっと……」
さすがにそれはどうなのだと応えあぐねていると。
「叔父さん」
玄関から戻ってきた鷹楽くんが俺から剥がすように鷹楽……真司さんの襟首を掴んで引っぱった。
「他人との距離感がおかしいとこ、マジでどうにかしたほうがいい」
「親しい相手への適切な距離感だろ?」
「親しい? 相手が覚えてないのにか?」
男は鷹楽くんを見てぱちりと瞬く。鷹楽くんがわずかに眉を顰める。真司さんは顎を指先で撫で、やがて、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて鷹楽くんの肩を叩いた。
「なんだかおもしろいことになってるみたいだな」
鷹楽くんがその手をすげなく弾き払うも、真司さんは変わらず笑みを浮かべて俺を見た。
「凛兎くんはどうしてここに?」
「雨のなかでたまたま鷹楽……哉世くんと会って。暴走した妖の対処をしてたらびしょ濡れになっちゃったので、お世話になってます」
鷹楽くんがぎろりと俺を睨む。名前の呼び方は現状の便宜上仕方ないだろ、という思いを込めて俺はそれを受け流す。
「それは災難だったね。その怪我も妖のことで?」
「それはそいつの自業自得だ」
「二人で対処したのかい」
「それは」
彼がやってくれた、と言おうとしたら、
「やむを得ず」
と鷹楽くんがぶっきらぼうに言った。
それに真司さんがにぱっと破顔した。
「そうかそうか。いやぁ、雨宿り先で出会うなんて運命的だし、そのうえ早速コンビを組むなんて、さすがは私の甥と満暈の息子って感じだね」
「親しくねぇし運命的な出会いもしてねぇ。そもそもこれが初対面なわけじゃない。数日前に一度、こいつと会ってるし話もしてる」
「おや、そうなのかい?」
「……同じ学校だったんだよ」
鷹楽くんは肩を竦めるが、真司さんはいっそうその瞳を煌めかせた。
「ほう。隣駅に家があるのは知っていたけれど高校が同じとは。なんとも縁があるねぇ。ふふ、やっぱり運命的じゃないか」
「叔父さんの確信犯じゃないのか」
「どう答えても疑うくせに」と真司さんはくすりと笑う。
「というか、哉世。同じ学校なら凛兎くんはお前の先輩じゃないのかい?」
「だったらなんだよ」
「それなのにその口の利き方はいかがなものか」
「年功序列の縦社会の風通しの悪さに嫌気がさして家を出ていった人に言われたくない」
「嫌気は差しても礼儀は欠いていなかっただろう? 凛兎くんは今の歳だと、三年生かな」
「年齢的には一応そうです、けど」
真司さんと鷹楽くんの視線がこちらに集まる。面映い気持ちにはなるが、隠すことでもないから、俺は続けた。
「学年は二年生です」
「そういうことか」と、鷹楽くんが納得したように呟いた。
なにが「そういうことか」なのだろうかと不思議に首を傾げると、視線が合った鷹楽くんは僅かに瞳を見開き、ぱっと逸らした。
「……百々瀬サンのところの息子、今は十八歳のはずって、叔父さんから聞いてたから。なのに二年のバッジ付けてるから、おかしいと思ってたんだよ」
「正確には、中学浪人ってやつだけどね」
「バカだったのか?」
あまりに容赦のない。
まぁ、それを速攻否定できるほどにも賢くはなかったけれど。
「こら、哉世」と真司さんがそれを窘めつつ、いくらか神妙になった眼差しで俺を見た。
「それは、もしかして……満暈のことが関係しているのかな」
真司さんの放った言葉がしんと胸を突く。
「たしか、二年前の三月だったよね」
「はい、二年前の三月三日です。ただ、俺もあの日のことはあまり覚えてなくて」
腹の前でそっと手を組む。右手の親指を左手の親指で擦る。
「俺が覚えているのは、その日が高校入試の日だったことと、父がいなくなったことだけで。現場には、俺もいたんですけど。なにがあってどうしてそうなったか、思い出そうとしても思い出せないんです」
「ああ、私も椿さんから連絡を受けたときにそう聞いた。よほどショッキングな出来事だったんだろう」
「そう……だったんだと思います」
気づけば俺は中学浪人になってて、母が父を探すために旅に出ていた。
暗くならないように苦笑しながら、そのことを話す。俺と真司さんの横で話を聞いていた鷹楽くんはわずかに驚いたように瞬き、それからばつが悪そうに俯いた。
「……悪かった」
「なんだよその顔」
「いや、なんというか、意外と素直というか真面目なんだと思って」
「あ?」
「この子はちょっとツンデレを拗らせてるだけで根はいい子だよ。叔父の私が保証する」
「黙れ、このクソ叔父貴!」
「こら哉世。さっきからバカだのクソだの汚い言葉を使うんじゃない。それに前に教えただろう、相手を本気で罵りたいときはより綺麗で丁寧な言葉を使う方がプライドを抉れるって」
鷹楽くんは「うっさい」とそっぽを向いた。
俺は真司さんの平然と放った言葉に、なんだその教えは、ちょっぴり肩を強張らせた。変わらず温和そうな雰囲気を纏っているのが、むしろ恐ろしい。第一印象と違って、なかなかどうして、底知れない人のようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。