2.

 軒の向こうでは雨がざあざあと降っている。一メートルほど離れたところで、鷹楽くんはそれを忌々し気に仰いでいた。

 たしかに鷹楽くんと話そうと意気込んだけれど——さすがにこれは、機会が巡ってくんの早すぎでは?俺の思いが天に届いたにしたってとんでもない偶然が起きたものである。

 今から少し前——妖たちとの宴を楽しんでいるうちに、日がだいぶ傾いた。ポケットでぶるっと震えたスマートフォンを見ると、近所のスーパーで行われる卵の特売セールが迫っていることを知らせていた。すっかり忘れていたそれに、俺は別れの挨拶もそこそこに、意地悪でやさしい恨み言や応援を背に受けながら慌てて丘から街の方へと駆け下った。その最中に、そういえば前にキタに教えてもらった近道があったなと閃いてしまったのが失敗だったというか、偶然を呼んだというか。一度教えてもらったきりの道を俺が辿れるわけもなく、見事、迷子になった。

 まっすぐに伸びる一本の道路、広々とした畑、少し遠くに見える線路。街からすっかり外れた田舎風景に出てしまった。セールの時間はとうにすぎて、我ながらずいぶん歩いたものだといっそ感心を覚えたところで、ようやく地図を開く発想に至った。

 その矢先に予報外の雨が降った。

 そしてどこかに避難せねばとあたりを見渡して目に付いた駄菓子屋の軒先に駆け込むと、先客がいた。それが、鷹楽くんだった。

 グレーのパーカーに黒のスキニーという私服姿を見るのは当然ながらはじめてだった。制服姿の段階からも思っていたが、顔だけでなくスタイルまでもいいとは。やはり微笑めばアイドルのようになりそうなものだけれど。しかし、むっすりと不機嫌そうな表情しか見たことがないから、上手く想像ができない。

「すごい偶然だな」

 我ながらぎこちない笑みを作って声を掛けてみる。鷹楽くんはちらりと俺を見るも、返事はしてくれず、ポケットから取り出したスマートフォンに視線を落とした。

 雨雲で薄暗くなった景色の中、液晶の光が鷹楽くんの顔をぼうっと照らし出す。しっとりと濡れた白い前髪から雫が煌めき落ちる。

「鷹楽くんも雨宿り?」

「……」

「予報になかったもんな。いきなりこんなに降ったらびっくりするよな」

「…………」

「…………」

 だめだ、ちっとも相手にされない。

 鷹楽くんは画面に何度も親指スライドさせたり、たまに両手で持っては素早く操作する。ゲームでもしているのだろうか。現代っ子め。

 ……金輪際かかわるなと言われたし、俺を見るなりスマホを取り出し弄り出したのも「話しかけるな」というポーズだったのかもしれないけれど。

 だが、ここまで無視されたら、唐突な偶然によるパワーもあってかいっそ嫌われるまでとことん攻めてみようかという気が湧いてきた。どちらにせよ雨脚は強いし、俺は勿論、先に雨宿りに着ていた彼も傘を持っていないから、当分はこの軒先に二人きりだろう。

「鷹楽くんって、京都出身だったりする? 進学を機にこっちに引っ越してきたの」

 プライバシーに足を突っ込む質問に、鷹楽くんの眉はぴくりと動かしはじめて反応を見せた。

「お前は詮索が趣味なのか。父親が祓い屋だったからって、ちょっと妖が視えるからって、無知で無力のお前がそう好奇心丸出しに生きてたら身を滅ぼすぞ」

「まぁ、お前がどうなろうが俺には関係ないけどな」と鷹楽くんは鼻を鳴らした。

「いや、この前、あんたの後をつけてたのは」と弁解しようとしたが、素直に話せば錦戸さんの方に鷹楽くんの怒りが向いてしまうかもしれない。それに、依頼を受諾したのも実際に後をつけたのも俺ではある。

「不快だったよな、ごめん」

 鷹楽くんはほんの少しだけ目を見開き俺を見たが、しかしそれはまたすぐにスマートフォンの画面へと戻っていく。

「俺、妖の話ができる人に出会ったこと、ほとんどなくてさ。祓い屋も父さん以外知らないんだ」

「……だから」

「たしかに好奇心なのかもしれない。けど、同じ景色が視える人と話してみたいっていうのは、おかしなことか?」

「俺はあんたと同じ景色は視えない」

 ぴしゃりと言い放たれ、失言をしてしまったことに気付く。

「悪い」

「別に。事実だ」

 呪われて視えなくなったって本当なのか。

 そう尋ねたかった。

 けれど、呪いのことに触れられるのを他人はどう思うものなのか。自分以外に呪いを抱えている人間に出会ったことはなかった。ただ、もし俺が、俺に掛かっている呪いについて聞かれたとしたら——多分、困ってしまう。不快ではないけれど、いい気分ではない、というか。落ち着かなくなってしまう。

 鷹楽くんは俺よりもずっと繊細そうだから、もっと複雑な心境になってしまうかもしれない。ただでさえ確実に印象が悪く、先にも失言をしてしまった。今度こそ完全に相手にされなくなってしまう可能性だってある。

「……視えなくて困ったことないのか」

 この話題はひとまず避けた方がいいとは思いつつ、それでも気になっていたことを問うてみると、鷹楽くんは舌打ちした。

「お前に関係ない」

「なぁ、俺があんたの目になろうか」

「は?」

 鷹楽くんの画面を滑る指が止まる。丸く見開かれた眼がこちらを向く。俺を反射した赤い瞳が微かに揺らめいた。

「なんだ、それ」

 かっと鷹楽くんのスニーカーの底がアスファルトを擦る。

「同情か。俺のこと、哀れんでるのか」

「そんなつもりは……俺は、ただ」

 瞬間、強い風が吹き抜けた。二人揃って反射のまま道路の方を向けば、白くて大きななにかが駆けた。

 あっという間に俺たちの前を通り過ぎていったそれは一見野犬のようであったが、しかしその輪郭が壊れかけのテレビに映る映像のようにびりびりとぼやけ、瞳孔が収縮し血濡れ色に染まる――暴走した妖のそれが、たしかに視えた。

 軒先から飛び出してそれが駆け抜けていった先に目をやれば、合羽を着て自転車を漕ぐ老人が遠くにいた。白い獣は霧のようにそれを追尾している。

「くそっ」

 思考を素早く巡らせて、ポケットに手を突っ込み家の鍵を取り出した。

 たしかに俺は鷹楽くんの言う通り、無知で無能だ。それでも視えるからこそ、どうにかしたいときが、どうにかしなくてはならないときがある。

 過去の傷や様々な恐れから、高校では端から人間関係を作ることを諦めていた。それでも父から励まされ俺のひとつの信念となったこと――少しでも他者のためになったり他者を慮ることをなにかしたくて、「入りたい部活がないなら作りましょうよ」と文香さんから持ち掛けられて、よろず倶楽部を作った。

 だから。

 この身が届く範囲で誰かが傷つきそうになっているのを見過ごせるはずがなかった。

 左のシャツの袖を捲り上げ、晒した腕に鍵を突き立て一思いに傷をつける。瞬く間に、たらりと赤い血が滲む。

「お前、なにして」

 鷹楽くんの驚いた声が響くと同時、暴走した妖の動きがぴたりと止まる。そして、ゆっくりと、ぐるりと、こちらに振り返った。鷹楽くんの宝玉のような赤とはまるで違う、血濡れのような瞳が俺を捉える。

 真面目でやさしい父は、いつだって俺を大切にしてくれていた。だから、祓い屋を危ない仕事だと言っていた父は、そこから俺を遠ざけるようにその仔細をほとんど教えてはくれなかった。けれど、それでも護身のために教えてくれたことはいくつかある。

 たとえば、思いと言葉は強い力を持つということ。ぶれのない一途な思いや明確な輪郭を持ってあらわした言葉は、ときに強大な呪いも祝いも齎すと。

 それから、俺の血は妖がいっとう好むにおいがするらしいこと。だから、万が一外で怪我をするようなことがあったらすぐに帰ってくるようにと強く言い聞かせられていた。

 俺を守るために教えたことをこんなふうに使っていると知ったら、きっと父は叱るだろう。低く、やさしい声で。それでも、父からの受け売りでも自分で定めた信念は曲げたくなかった。

「こっちだ」

 来い。

 腕を高く掲げ、強い思いを込めて叫べば、野犬のようで白い霧のようでもあるそれは、喜色満面に笑い声をあげ、一心不乱に俺の方に駆けてきた。このまま、人がいないかつ土があるところへ行きたい。

 妖の多いこの街では二、三ヶ月に一度ほど暴走した妖に出会う。そんな中、中学二年の自立心が育ち始めたころ、言い換えればちょっとした反抗期の時分に、父や仲間に助けてもらってばかりは嫌だと編んだ秘密の技がある。

 そのひとつが、先のように俺の血を餌にすること。けれど餌にするだけでは俺の命はいくつあっても足りない――だからもうひとつの技がある。

 土の上に大きく「正」という文字を大きく書いて、そこに己の血を数滴たらす。すると、そこに呼び寄せられた妖はその場から動けなくなり、時間をかけてゆっくりとあるべき姿に戻っていくのだ。その後は凄まじく気力が奪われてしばらく動けなくなる。

 強い意志を持って明確な輪郭を作ってあらわした言葉は力を持つのならば、と考えて編み出したものだが、実際のところどういう仕組みになっているのかはよくは分かっていない。なにせ、反抗期を終えてからも心配させてはいけないと周囲には教えていないから、父や妖たちの意見は聞けていないのだ。まさに秘密の技である。

 迷子になって辿り着いたここがどこなのかよく分からないが、幸い運動センスと体力には自信があるから走っていればそのうちつくだろう、と雨に打たれながら駆け出した――。

「あるべき姿に戻れ!」

 と、大きな声が響いたとともに、あの時と同じ青い光がそこいらに満ちるのを見て、勢いづいて数歩余りがながらも足を止めた。

 光は降りしきる雨を美しく煌かせ、白い妖を包む。それはやがて玉となり、ばちんと弾けた。黒く塗れたアスファルトの上に、ゴールデンレトリバーのような妖が気絶したように横たわる。白い額には青い滴を模した紋が浮かんでいる。

 その向こうに立つ鷹楽くんは、いつの間にか深紅の生地に金糸で花の柄が入った羽織に袖を通していた。足元には、先まで背負っていた黒のワンショルダーリュックが転がっていた。鋭い針のように降りしきる雨にふたりしてぐっしょりと濡れていた。

「助けてくれてありがとう」

 妖を抱え上げながら鷹楽くんのもとに歩み戻るも、鷹楽くんは俯いて立ち尽くしたままだった。

「……お前なんなんだよ」

「え?」

「死に急ぎてぇなら俺の目の届かないところでやれよ!」

 鷹楽くんがばっと顔を上げたはずみに雫が散った。

 雨に濡れたせいかいっそう色白に見えるその顔には怒りが漲っていた。

 美人は怒ると怖いと言うが――彼は日ごろ怒ったような顔をしているけれど――本気のそれはたしかになかなかの迫力だ。

 なんて思っていると、胸ぐらを掴まれ勢いよく引き寄せられた。危うく腕の中の妖を滑り落としそうなったがなんとか抱きなおす。

「別に死に急いでるつもりはないよ」

「視えるだけでなにもできなくせに勝算があったとでもいうのか⁉」

「そりゃあ、祓い屋であるあんたほどのことはできないけれど。視えていたらこんな状況には何度も遭遇するし、対処法くらいは見つけている」

「つうか、いい加減さ」と胸ぐらを掴む鷹楽くんの手を掴んだ。

「そのなにもできないくせにって言うのやめろ。わりとムカつくから。あんたが〝それ〟でどんだけ傷ついてきたのか俺にははかることはできない。でも、だからって、他人に当たったらあんたも、あんたをそうバカにしきてやつらと同じになる」

 むっとして返せば、鷹楽くんはさらに眉間に皺を寄せ、表情を歪めた。

「俺はあんたが視えないことをバカにする気なんてちっともない。俺があんたの目になるって言ったのは――」

 言葉が喉元を擽った。さすがに、気恥ずかしさがあった。

 まだ二度しか会っていないというのに、その二度とも胸ぐらを掴まれ誹られ、それでもなおそんなことを言うなんて、自分でもバカだと思った。

 それでも、どうしてか。

 それでも、どうしても――俺は彼から目を逸らすことができなかった。この縁を逃したくないと思った。

 妖の話ができる人間などこの先どれだけ出会えるか分からないから、という理由だけでは納められないほどの、言葉にできない不思議な引力がそこにはあるように感じた。その糸は俺の中のどこかと繋がりそうで、しかしうまく結びつかず宙ぶらりんである。

 それでも。

 ここで下手に誤魔化してしまったら、壁を作ってはまたかかわれずに終わってしまうことは分かっているから。それに、これだけ容赦のない怒りをぶつけられるほどにすでに嫌悪されてしまっているのだ。進むも戻るも大して変わらないのなら、少しでも悔いの残らない道を進むべきだ。

 ひとつ深呼吸をする。それから、愚かで子どもじみた、子どもの頃からの願いを素直にぶつけた。

「あんたと友達になりたかったから」

「は?」

 あ。

 言った瞬間、間違えたと思った。

 そこまで言うつもりはなかった。

「友達になりたいから、その代わりに俺の目になるって?」

 否定するのも失礼かと思って「えっと……まぁ、そんなところ」と曖昧に頷けば胸ぐらを掴む力が緩んだ。鷹楽くんはぽかんと目を見開き、じっと俺を見つめた。

「お前バカなのか?」

 またバカにされてしまった。けれど、その顔には今までのような嫌悪はなく、どちらかというと困惑のような色が浮かんでいた。

「そういうのは利害の一致でなるもんじゃねぇだろ」

「うん……それは、たしかに、そうだね」

 ド正論である。

 想像以上の勢いで口を滑らせてしまったばかりに、余計に呆れられてしまった。そう肩を竦める俺の向かいで、鷹楽くんは眉根をきゅっと寄せ、少し妙な顔をした。

「……鳥頭野郎め」

 微かなその声は雨音に掻き消されて届かなかった。やっぱり罵られたのか、それとも違う言葉だったのかと俺は首を傾げた。

 鷹楽くんは大きくため息を吐き出すと、すっかり濡れた銀髪を鬱陶しげに掻き上げた。その弾みにこの間にもつけていた、右耳に下がる黒猫のミニチュアのようなかわいらしいピアスがしゃらりと揺れた。お気に入りなのだろうか。

「とりあえず、軒先に戻ろう」

 もうどうしようもないほどに濡れているけれど、雨に当たり続けるのも良くないだろうと先までいた駄菓子屋の軒先を指す。

「帰る」

「え、この雨の中帰るの」

 鷹楽くんは羽織を脱いで綺麗にたたむと、足元のリュックを拾い上げて中にしまった。

「こんだけ濡れたなら止むのを待ったところで意味がない。帰ってさっさとシャワーを浴びるほうが、よっぽど建設的だ」

 たしかに、それも一理あるかもしれない。

 結局卵も買えなかったし、折角の偶然もちっともいかせなかった。やっぱり俺は人間と上手くかかわれない命運にあるのだろうか。

 まぁ、でも。

 あんなにも俺を思ってくれる妖たちがいるのに同胞とも親しみたいと、これ以上友達が欲しいと思うのは欲張りだ。それに――俺に掛かっている呪いを思えば、これが正解なのかもしれない。俺がどれだけ人との関わりに焦がれていたとしても。実際に繋がりを持つのはきっと、お互いのためによくない。

 内心で自嘲し諦念を噛む。彼が帰るのなら俺も帰ろうかと、ここから家までの距離はどれだけだろうかと駄菓子屋の脇にそっと妖を置いて、スマートフォンを取り出そうとしたとき。

「おい」

 と、声を掛けられた。

「なに」

 やけっぱちに返せば、鷹楽くんがぶっきらぼうに言った。

「お前の家、隣駅だろ」

 隣駅。ということは。

「え、もしかしてここって澄北の近く?」

 というか、なんで鷹楽くんは俺の家の最寄りを把握しているんだ。

「迷子だったのかよ」鷹楽くんは怪訝な顔をし、ため息を吐いた。

「お前もこい」

「こいってどこに」

「うちに」

「え?」

「こっからすぐだから。そんだけ濡れたのを放って帰って風邪でも引かれたら寝覚めが悪い」

 鷹楽くんは降りしきる雨の中を毅然と歩いていく。

 ——もしかしなくても、俺、鷹楽くんの家に呼ばれた? もしかして、少しぐらいは心を開いてもらえた……とか?

 遠ざかっていく鷹楽くんの背をしばらくぼうっと見つめてから、はっと駆け足で地面の水を弾き近づく。鷹楽くんは振り返ることもなかったが、文句を言うこともなかった。

 もしかしたらほんの少しくらいは、脈があるかもしれない。

 先に抱いた自嘲と諦念はどこへやら。俺は少しだけ期待に弾む胸を抱き、鷹楽くんについて歩いて行った。

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