2.

 翌日、俺はホームルームを終えるなり、教室を出て早足で廊下を渡り飛ぶように階段を下りた。

 玄関でさっと外靴に履き替えてから、校門を出てすぐの陰に潜む。鷹楽くんがまだ部活動に入っていないことを祈って、ぞろぞろと帰路に就く生徒たちを眺める。

 と、やがてふわりと靡く銀髪を見つけた。周囲のすべてが暗い髪色の中、柔らかな絹のような鷹楽くんのそれは極めて目立っていた。周囲の生徒もちらちらと目を向けては彼が気になるようだった。

 俺は鷹楽くんを見るのはこれがはじめてだった。文香さんから話こそは聞いてはいたものの、一年生の教室の方に行く機会も廊下などですれちがうこともなかった。そして、はじめて見たその容姿に、たしかに錦戸さんの言うことも分からなくはないとは思った。

 切れ長で鋭い瞳、眉間に薄く寄った皺からは不機嫌さが窺える。そんな表情を持ってひとりで淡々とした歩調で歩く彼は、たしかに近寄りがたい雰囲気がある。だがそれでも、どうしようもなく惹きつけられてしまうほどに、彼の容貌は美しく整っていた。

 凛々しい眉、すっと通った鼻梁、くっきりとした二重。赤い瞳は宝石のように澄んでいて陽光にきらきらと煌いている。白銀の髪とおなじくらい日焼け知らずの肌は陶器のようで、纏う詰襟が黒さもあっていっそう映えていた。

 疑っていたわけでもないけれど、あの容姿は本当に生まれつきではないのだろうか。アルビノの少年はすべてが清く華やかで、柔らかく微笑みでもすれば文香さんが好きだという中華だか韓流だかのアイドルに勝るとも劣らない魅力を発揮するのではないだろうか。

 高校の前は二股道になっている。片方は平坦な道に、もう一方は地下鉄の駅まで続く長い坂道となっていて、生徒の六割以上はその坂道を往復して通学していいる。俺もそのひとりだ。

 三段階にうねったなかなかの勾配を持つ通学路には朝も帰りも億劫な気持ちにさせられるけれど、坂を登れば学校に着くという迷いようがない分かりやすい作りは方向音痴の俺にとってはありがたかった。

 鷹楽くんは周囲との大半と同じように坂道の方へ足を向けた。そして周囲よりも澱みない足取りで進んでいく。

 俺はなんてことない帰宅途中の生徒を装ってそのあとをつけていく。やがて駅に着くと地下へ潜っていく学生服の群れから外れた鷹楽くんはそばに建つスーパーに入った。

 入口でグレーのかごを取ると食品コーナーを回りだし、もやし、ねぎ、豚バラ肉、たまご、牛乳、ホットケーキミックス、お茶っ葉と品物が次々入れていく。おつかいだろうか、としばし眺めていると、ふと些細なことに気付く。品物がかごの形に添うようにうまく並べられ整然としていた。結構几帳面な性格なのかもしれない。

 会計を済ませてリュックに荷物を詰めると、鷹楽くんはそのまま駅を越えて住宅街の方に歩き出した。

 ひたすらまっすぐに進んでいくと、途中で噂のもとであろう汚れひとつない真新しい塀に隔てられた大きな家の前を通ったが、鷹楽くんはそこには入ることはなく、さらに数分直進したところにある小さな公園の角を曲がった。

 俺もついて曲がろうとした――そのとき、草木が揺れるとともに、禍々しい空気が溢れ出した。

 それは明確な輪郭を持たない黒い靄となり、俺と少し先を歩く鷹楽くんの間に横たわるように蠢く。間もなくして、俺の方にぎょろりと赤黒い色の目のようなものが浮かびあがった。瞳孔がきゅっと収縮したそれは、俺と目が合うとにやりと細められた――良い餌を見つけた、と言わんばかりに。

 これは、ちょっと、まずいな。

 嫌な汗がじっとりと背に滲む。

 こいつの相手をするのは厄介だ。だが、それよりも……このまま俺だけが狙われればまだましだが――そう思った直後に、かすかな呻きとともに、その瞳孔はすぅっと俺から逸れた。

 そいつは鷹楽くんにつき纏う、噂の気配を見逃さなかった。見鬼――妖を視ることができる才能――よりも、邪を選んだのだ。

 邪な思いや言葉というのは、人が思うよりもずっと危ういものである。

 妖と人間が干渉しあうことはあまりない。まずもって妖が視える人間がこの世にとても少ない。父や親しい妖がそう語り、実際俺もそういう人にほとんどあったことがなかった。

 それを理解していなかった小学生の低中学年の頃なんかは面倒な目に合ったし、高学年に上がってからも人型を持つ妖を人と見間違え反応したり声を掛けてしまっては周囲に怪しまれ、おかしなやつだと敬遠されることもあった。唯一の救いは中学にあがるまでは父の仕事の都合でいろいろな街を転々としていたから、おかげで年単位で嫌がらせや仲間外れを受けることはなかったことだ。

 中学に進学すると同時に今住んでいる生家に戻ってきたが、前に住んでいたのはまだ幼稚園生ととても幼い頃だったから俺の〝普通じゃない言動〟どころかそもそも俺を覚えている人がいなかった。

 視えることを誤魔化す術は磨いてきた。胸に強く灯る父の言葉も糧に頑張って友達を作ろうと意気込んではいた。だが、胸の傷はいまだ癒えず、また裏切られるんじゃないかとか、誹られるんじゃないかとか、人間への恐れを拭いきれなかった。それで、うまく距離感が掴めずに壁を作っては人が離れていき、嫌がらせこそは受けなかったものの、結局クラスではほとんど孤立気味だった。

 だが中一の後半ごろに、妖の友達はいくらかできた。この街は今まで過ごしたどんな街よりも大小問わず妖が多く、俺が視える人間と分かるや否やちょっかいをかけたり興味深そうに見つめてくるものは少なくなかった。俺は最初それを邪険に扱っていたし、俺の父が〝祓い屋〟だと知った者は敬遠するようになったりもしたが、それでもかかわろうとしてきた者たちはいくらかいた。

 悪戯ばかりだとしてもそれほど熱心に構われたのははじめてだった。これまで妖と友達になんて考えたことはなかったけれど、他の人間に彼らが視えずとも、俺には彼らが視えて触ることも話すこともできる。

 「目にうつるすべてに心を向けられる子になりなさい」と父は言った。いつからか妖が視えるせいで人間とうまくいかないと陰鬱な気持ちを抱くようになっていたけれど、かつて――物心がついたばかりのころなんかは人間も妖もはっきりと視える俺にとっては、どちらも同じ世界に存在するただの仲間であったことを思い出した。

 やがて俺も彼らに構うようになり、交流するようになった。母は少し心配そうにしていたけれど、父はそのことをすごく喜んでくれた。父には親友と呼べる相手が二人いて、その片方が妖であったらしい。俺は放課後になればひとりきりの教室から飛び出し帰路に就いては彼らが住まう家の近くの小高い丘に向かった。

 彼らは、彼らを視ることができる俺には触れることができた。しかし、視えない相手に触れられなかったし、触れようとする者も少なかった。ごく稀にいる他人よりちょっぴりだけ多く霊力を持ちぼんやりと妖を捉えられる人間に、悪戯好きの妖たちがちょっかいをだすことはたまにあるけれど、その程度だ。

 存在をたしかめ合えない者同士はかかわらないし、かかわれない。それがこの世の摂理であり、人間と妖が共存するための大事な秩序なのだろうと俺は認識している。

 しかしながら、なにごとにも例外がある――人間と妖が無意識に繋がりをもつことがある。その触媒は〝邪〟だ。

 不特定多数の人間から邪を向けられている対象――特に人間に、邪を持つ妖はいたく惹かれるらしい。そして、取りつき、喰らう。喰らうと言っても、人間そのものではなくその人間に纏わりついた邪な思念のみを喰う。例えるならバクだ。人の悪夢ならぬ人から寄せられた悪意を吸い込む。

 俺と親しんでいる中で最も長老の麒麟型の妖であるチーリン曰く、陰の存在である妖にとっては陽の存在たる生きている人間が産む邪は美酒のように甘美だという。そして、邪がもっとも熟れるのが産まれてから七五日目らしく、大抵の邪を持つ妖はそのタイミングを狙って食らう。そうすると人間界の方でも噂が薄れていく。それが、人の噂も七五日だという起源なのだとか。

 それだけを聞くと、妖は美味いもので腹が満たされるし人間は噂を払ってもらえて相補的に思えるが、そんないいものではない。

 チーリンがそれを美酒と例えたように妖は一度人間の邪を飲めばやみつきになる。理性を失うほどに求め狂い、やがて許容量を超えると暴走に至ってしまう。暴走した妖は強力かつ秩序もなにもなく、人間社会に悪影響をもたらすことがある。理由が不明の突発的な自然災害の大抵は暴走した妖によるものらしい。

 悪意を吸われたことも、暴走に立ち会ったこともこれまでにあった。その度に、駆け付けてくれた父に、そしてここ数年は親しい妖たちに助けられてきた。

 邪を過剰摂取している妖の傾向は一目で分かる。例えば、保てなくなった輪郭。例えば、きゅっと収縮し凝固した血のような赤黒い色に染まった瞳孔――まさに、目の前の妖がそうだ。これだけ靄のように輪郭を失い、瞳を赤黒く染めているということはこれまでにも相当邪を吸っている。このままだと鷹楽くんに取り付いて、彼に纏わりつく数多の邪を喰らうだろう。

 邪が最高に熟れるのは生まれてから七五日だが、暴走間際の理性のない妖は「待て」ができない犬と同じで、まだ熟さなくても少しでも香しければ食らいついてしまうらしい。

 聞く限り鷹楽くんに纏わる噂は相当なものだ。今すぐに食われ、この妖が暴走してしまう未来が見える。どうにかこちらに気を向かせられないかと己の袖を捲り上げた――そのときだった。妖越しに、青い光が眩く差した。

「陰を渡りし妖魔鬼怪よ。邪を除き、あるべき姿へと戻れ」

 響いた低く淡々とした声は、しんしんと降り積む冬の雪を彷彿とさせた。

 青い光はさらにぶわりと増幅すると、暴走間際の妖の体を丸飲みするように包み込んだ。

 やがて光は妖ごとハンドボール大の玉のように収縮しバチッと弾けたかと思うと氷粒のように煌き消え、そこには尻尾がけばだった二足歩行のリスのような妖だけが残った。気絶するように横たわったそれを大股で跨ぎ新品のローファーを鳴らして俺に歩み寄ってきた鷹楽くんは、俺の胸ぐらを掴むとぐいっと引き寄せた。

「お前、何者だ」

 まっすぐに俺を捉えた赤い瞳は、近くで見ると宝玉のようだった。

 微かに吹いた冷たい風が鷹楽くんの絹のような銀髪が靡かせる。そのあわいに覗いた右の耳朶にはピアスが下がっていた。黒猫のミニチュアのおもちゃのようなピアス。なんとなく、意外だなと思った。

 瞳といい、ピアスといい、我ながら場違いなことを考えているなとも思った――青い光が差したその瞬間から、地に足がついていないような感覚がしていた。

 まったく同じではないけれど、似た景色をかつて見たことがあった。それは、父が俺を何度も助けてくれたときの光景と重なった。

 皮下が疼き、心臓がばくばくと煩い。耳や頬は日に焼けたみたいに熱かった。

「そっちこそ、何者だ」

 年を重ねるごとに、学ぶほどに、誰にも聞くことがなくなった、口にしようとすると咥内の唾液がすべてからりと乾く質問が舌の上に転がる。喉が躊躇って、唇が戦慄いて、それでも先の光景をなぞって、俺はついに震えた声で空気を揺らした。

「――あんた、視えるのか」

 瞬間、鷹楽くんはただでさえ顰めていた眉間にさらに深い溝を作った。白い峡谷と化したそこからは、きっと鋭く細められた赤い瞳からは、怒りがありありと伝わってくる。

 この問いで気味悪がったり、嘲笑を浮かべる人間にはいくらか出会ったことがある。しかし、怒る人間は初めて見た。

 鷹楽くんの霊気が燃えるように漲り草木を揺らす。足元や公園を囲う草むらにちらちらといた小さな妖たちが怯えて散り散りに逃げていく姿が視界の端に見えた。

 俺の胸ぐらを掴む鷹楽くんの手がきゅっと握りしめられたかと思うと、大きな舌打ちとともに解かれた。

「ここにその手のやつがいるなんて聞いてねぇぞ……」

 それから鷹楽くんは低く溜息を吐いた。

「どこに家のやつだ」

「え?」

「どこの家のやつだって聞いてる。そこまでちゃんとした目持ってんなら、どこかの直系だろ」

「直系って」

「とぼけんな。祓い屋なんだろ、お前」

 知った言葉に瞠目した。

「あんた、祓い屋なのか」

「俺がお前に質問してるんだ」

「……俺は、祓い屋じゃないよ」

 鷹楽くんは目を見開くも、すぐさままたきっと顰めた。

「見え透いた嘘を吐くな」

「本当だ。俺は術もなにも知らない。俺の父は、その道の人だったみたいだけれど」

「……お前、名前は」

「百々瀬凛兎。百にノマに瀬踏みの瀬。凛とした兎で、百々瀬凛兎」

 は、と鷹楽くんは息を呑み下瞼を震わした。

 驚いたようなその表情はどこかあどけなかった。

 それから鷹楽くんはしばし俺を見つめると、髪を払うようにピアスに触れてそっぽを向いた。

「なぁ、あんたは祓い屋なんだろ」

「お前に関係ない」

「俺には質問しておいてあんたはだんまりかよ」

 あんな術使った時点で分かりきってることなのに――そう続くはずの言葉は、しかし背にぶつかってきたものの衝撃に詰まった。

「こんなところでなにしてんの、百々瀬くん」

 声変わり前のトーンの高い軽やかな声。俺の胸の下に回された腕は紺のブレザーに包まれていて、そこで組まれた手は俺より二回りほど小さく白い。そして、それほど密着していながら体温をまったく感じない。

 顔だけで振り向くと同時、兒玉くんは俺の肩に顔を乗せた。

「お、もしかしてついにお友達が出来たの?」

「いや……というか、兒玉くんこそ、なんでここに」

 兒玉くんは隣駅、俺の家の近くの廃屋を根城としている。妖というのは浮浪を好むものも少なからずいるが、大概は縄張り意識が強くその周辺でしか行動をしないため、兒玉くんがこんなところまでくるのは珍しかった。

「君の家に遊びにいったのに君がいつまでも帰ってこないから心配でさ。てっきりまた迷子になっちゃってるのかと思って」

「それは……心配かけてごめん?」

「そういうときは気にしてくれてありがとうっていうんだよ」

「……お前、なに言ってる」

 鷹楽くんが訝しげに俺と、俺の隣を見た。そのとき、

「ん?」

 と、兒玉くんが首を捻った。それから「んんん?」とふくろうのようにさらに顔を傾けると俺からぱっと離れて、鷹楽くんの横に回った。

 祓い屋の特殊な霊力を持つ人間を珍しがっているのか――と思ったが、ある違和感に気づく。

 見知らぬ妖が隣に来たとなれば、鷹楽くんは当然そちらの方を向く。しかし、視線は兒玉くんよりも上に向けられていてちっとも絡まない。目を合わせないようにしている、と言うわけでもなさそうだった。

 脳裏に先の鷹楽くんの言葉がリフレインする。

 ――お前、なにを言っている。

 俺は前にもその言葉を聞いたことがあった。いつどこの街でだったか忘れたが幼い頃、転校したての帰路、人型の妖と知らずに声をかけられたときに、同じ方向だからと一緒に歩いていた女の子が気味悪がって俺に言った――百々瀬くん、一人でなに言ってるの、と。

 まさか。いやでも、そんなことがあるのか。

 けれど鷹楽くんは〝お前ら〟でもなく〝話している〟でもなく、俺だけを指して、当時のあの女の子のように、俺だけがなにかを話しているかのように言葉を紡いだように聞こえた。そして鷹楽くんの瞳はいまだに兒玉くんの目線よりいくらか上を向いている。

 もしかして、彼は。

「――視えてない」

 俺の心の声と兒玉くんが発した言葉が重なった。俺は疑問形で、兒玉くんは断定だった。

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