1章 何者
1.
「気になる人がいるんです」
旧校舎はいつもどこか湿った空気が漂っている。日頃から授業や部活で使用されてはいるから、人が出入りする機会が少ないわけではない。生徒や業者による掃除や手入れもきちんと行われているのだが、鬱蒼と茂る木々の影になる換気性の悪い立地ゆえなのだろう。
その四階の理科準備室で、俺と錦戸さんは年季の入った黒の実験台を挟んで向かい合うようにして座っていた。
窓辺では起動したばかりのストーブがほのかな赤を灯している。四月になっても北の方に位置するこの街の気温は低く、桜もまだ咲いていない。そのうえ、日当たりも悪い教室はそこそこに冷える。
錦戸さんはここ
その初々しい新入生が、いったいどうしてこんな辺境にある部活動の門戸を叩いたのか。入学して二週間の放課後なんてのは興味のある部活動の見学を楽しんだり、もしくはそろそろ新入部員として活動をしているもんじゃないんだろうか……俺はそういった経験がないので周囲を見ての推測だけれども。
我が部は他部とは違い、部活動を宣伝する張り紙はしていないし、勧誘のために校舎内を練り歩いたりもしていない。
理由は単純明快――『よろず倶楽部』なんて名前から唯一の部員にして部長ですらいかがわしい部活動を売り込んだところで誰も入部するはずがないだろうと踏んでいるから。
だから入学したばかりの女子生徒が門扉を叩いてきたときは、純粋に驚いた。勧誘もせず認知度も低いこの辺境の部活動のことを、どこで知ったのやら。ただ、彼女は入部希望などではなく、切り出しからしておそらく――恋の衝動ってやつなのだろう。
恋はときに人をとんでもない方向に突き動かすことを知っている。だがそれはあくまで伝聞というか、他の人の惚気を聞く機会があったが故。俺自身は経験も知識もちっともないから、相談に乗れる自信なんてあるはずもない。
それでもよろず倶楽部、すなわちなんでも屋の名を冠し目の前の人が困っているならどうにかしてあげるべきなのだろうけれど……しかし、この切り出しに対する返事すら俺には思いつかない。どうしたものかと反応しあぐねていると、漂っていた苦い香ばしさが濃くなった――ナイスタイミング。
机上のサイフォンに目を向ければ、錦戸さんが来る前からアルコールランプで炙っていた下ボールの湯が上がり切っていた。上ボールにたまる黒く湯気立つ液体をスプーンで軽くかき混ぜてから、背後の整理棚からフラスコやビーカーに紛れて並ぶ白磁のマグカップをふたつ取り出す。
「錦戸さんも飲む?」
「いえ、飲めないので……というか、その……」
「ん?」
「学校の備品でそういうことしていいんですか」
「ああ。これ、顧問の私物だから」
豆とミルとサイフォンは。アルコールランプだけは備品だけれども。
その顧問がもうすぐ来る予定だからとちょうど二杯分のコーヒーを作っていた。ふたつのマグカップに均等になるようにコーヒーを注ぎ、片方には冷めないようにと猫を模したシリコン製の蓋を被せておく。
再び椅子に腰を下ろし、一口コーヒーを啜れば向かいから「そろそろ話の続きをしてもいいか」と言いたげな焦れた視線を感じた。
いつまでも問題を先延ばしにはできないし、とりあえずコーヒーのおかげで戸惑いは落ち着いた。マグカップを机上に置き、背筋を伸ばす。
「それで、気になるっていうのは」
「同じクラスの
鷹楽哉世。
どこかで聞いた名前だと少し思案して、あ、と思い出す。入学式の夜に顧問から聞いたのだ。今年の新入生の中になかなかにやんちゃそうな子がいる、と。
曰く、彼は入試を首席で突破し新入生代表挨拶を任される予定だった。しかしその打ち合わせの際に彼の容姿に校長が難色を示したのだという。
深ヶ澄北高校――略して澄北はここいらの学校の中じゃ偏差値はいくらか高いが、校則は厳しい方じゃない。制服こそはあれど、装飾品や髪色などは自由を謳っている。それでも大抵の生徒は黒のままか茶髪程度にとどめていて、金やら青やらに染めているのはごくごく稀。件の新入生はその稀の類らしかった――白銀の髪をしているのだという。カラコンでもしているのか目の色も赤いようで、決して校則違反ではないけれどもそんな奇抜な容姿の新入生代表というのはいかがなものか保護者の目にどう映るか――と、気を揉んだ校長はせめて入学式の日だけでも〝元に戻さないか〟と説得を試みたらしい、が。
「『元に戻すもなにもこれは生まれつきだし、校則にも違反していません。それでも気に入らないというのなら新入生代表になんて興味はないから喜んで辞退させていただきます』だって。淡々とド正論でぶった切ったのよ、その子。いやぁ、そのときの校長の顔最高だったわよ。私はもう笑うの越えるので必死でさぁ」と入学式の翌日にそう俺に語った顧問は笑っていた。顧問は以前から〝ご都合主義〟な校長が苦手らしかったから、それはもう愉快げだった。
その新入生の名前が、たしか鷹楽だったはずだ。
「鷹楽くんが何者なのかを知りたいんです」
「何者なのか?」
「つまり、その……やばい人じゃないかってことを」
錦戸さんは神妙に言った。俺はぽかんと瞬いた。
気になるって、そういう気になるだったのか。そしてその鷹楽くんとやらはまさか、見目がちょっと奇抜なだけでそんなふうに思われているのか。
「……あのさ」
それって髪色以外にも根拠があってのことなのか。そう尋ねようとしたそのとき。
「鷹楽くんって、運動神経抜群なんです」
錦戸さんが少し上擦った声で言った。
「え?」
「今日の体育で男子はサッカーをしてたんですけど、鷹楽くん開始からたったの十分でハットトリックを決めたんです」
俯きがちだった顔は持ち上がり、その頬はほんのりと赤く染まっている。話の展開にちっともついていけず俺は再びぽかんとするが、錦戸さんはそんなことは歯牙にもかけず勢いよく続けた。
「あと、勉強もできるんです。私、鷹楽くんと隣の席なんですけど、昨日の数学の小テストで交換して丸付けをしたら、鷹楽くん、満点だったんです。噂なんですけど、入試のときも一位だったとか」
「はぁ」
「鷹楽くんって、運動もできて、勉強もできて、しかもなによりも――すっごい顔がいいっ」
錦戸さんの瞳がいっとうきらりと煌いた。
「だから、もしやばい人じゃなかったら……その、いいなぁって思って」
なにかを思い描き、濃い光と熱を孕んだその瞳はまるで宇宙のようだった。彼女が発した「気になる人がいるの意は最初の予感で当たっていたらしかった。
なんでも屋の名を冠するからには、他人に迷惑を掛けない範囲であればある程度の依頼は引き受けるつもりではいた。そもそもある程度と数えられるほどの依頼が来るかどうかは別として。信条柄、困っている人は放っては置けない。
悪意のない依頼ならば二つ返事で引き受けるところだが、それでもやはり気になるので尋ねた。
「君はなんで鷹楽くんのことをやばい人じゃないかって思ってるんだ。まさか、髪色だけを根拠に言ってるんじゃないよな」
錦戸さんはぱちんと瞬くと、頬の紅潮をそっと引かせるとともに視線を彷徨わせながら、口元に手を当てた。
「最近、学校から駅の方に向かってしばらく南に行ったところに大きな邸が建設されたのを知っていますか」
「知らないけど……それに何の関係が?」
「そこに黒いスーツを纏った人たちがよく出入りしているらしいんです。だから、あそこはそういう邸で、鷹楽くんもその子息なんじゃないかって。鷹楽くん、勉強もできて運動もできて顔もすごいいいんですけど……目つきは鋭くて、一匹狼というか、近寄りがたいただものじゃない雰囲気がして」
また、噂。
まさか、と頬が引き攣る。
「あのさ、その邸に鷹楽くんが出入りしているのを見た人がいるのか?」
錦戸さんは平然と首を横に振った。
「でも帰り道はそっちの方らしいし」
つまり錦戸さんは、まさに〝根も葉もない噂〟を信じ、鷹楽くんにとんでもない疑いをかけているというわけか——俺は思わず苦笑する。
本当に見目通り、初々しく真面目というか、無垢で単純というか。錦戸さんがこの辺境の門戸を叩いたのも、どこかでなんらかの噂を聞きつけたからなのかもしれない。
噂というのは厄介だ。
明るい類の噂があることも知ってはいるけれど、悪意が微塵も籠っていないそれがほとんどないことは渦中に何度もいたことがある身としてはよく知っている。そしてそういった邪な思いや言葉というのは人が思うよりもずっと危ういものなのだ。
だからこそ、それだけ噂を着せられている子がいると聞いてしまえば、放って置くわけにもいかなかった。
「調べてもいい」
「本当ですか!」
「けど、その代わり」
と、錦戸さんをまっすぐに見つめる。
「鷹楽くんが君が予想しているようなやばい人じゃなかったら、そのよくない噂を鎮静化するのに努めてほしい」
錦戸さんがきょとんとする。
「もし、君が。例えば……とても人気のある先生と帰り道が一緒だったとする。本当にただの偶然、他意もクソもないのに、それを見た誰かに「あの二人ってもしかして」なんて変な噂を立てられたら、どんな気持ちになる?」
錦戸さんは眉を顰めて、
「そんなの」
と勢いよく口にしたが、それが淀むとともにその顔はばつの悪い色に染まった。
「鷹楽くんも同じかもしれない。後ろ暗いことなんてなにもないのに、ちょっとしたことでよくない噂を立てられているのかもしれない。そして誰だって、妙な噂の的になるは嫌なものだ」
たとえ七十五日経てば落ち着くものだとしても、その間はとてもつらいし、みんなの興味が逸れたからと言って的についた傷は消えやしない。
「君からはその話題を振らないとか、振られたら正すとか、そういうのでいいから。それだけでも、多少は変わるかもしれないだろ」
赤の他人に、しかもほんの少ししか歳の変わらないガキになにかを説かれるというはさして気分がいいものじゃないだろう。それでも彼女は不満は見せず、静々と頷いてくれた。
「三日もあれば調べがつくと思うから。その頃にまたこの教室にきて」
「分かりました。よろしくお願いします」と錦戸さんは席を立ち浅く一礼すると、プリーツスカートをひらりと翻して早足で教室から出ていった。
それから一息つく間もなく、
「なになに、どうしたの。あんた、またなんか余計なこと言ったの」
見慣れたシルエットが入り口に差した。
若草色のニットと黒のタイトスカートを纏い、髪はきちっとしたハーフアップに結んだ凛とした佇まいのその女性はまさに我が部の顧問――
「またってなんですか」
「ほら、あんたっておせっかいっていうか、デリカシーがないって言うか、一言二言三言余計っていうか? そういうとこあるじゃない」
だんだん悪い表現になっていってるし、だいぶ余計だ。
「だいぶ余計なのよ」
「心を読まないでくださいよ」
「相手が相手なら殴られててもおかしくないわよ」
「文香さんは殴ってきますもんね」
「あんなの殴ってるうちに入らないってーの」
廊下から室内の方に視線を戻した文香さんは、机上のシリコンの蓋を被ったマグカップを認めるとぱっと顔を綻ばせて、先まで錦戸さんが座っていた席に腰を下ろした。
「っていうか。学校では鳴上先生って呼ぶようにって言ったじゃない」
「……慣れないんですよ。敬語ですら違和感なんですから」
「私に敬意を持てないと?」
「敬意っていうか……ほら、文香さん、先生っぽくないから」
「そういうところよ」
紅が艶やかに施された唇に弧を描き文香さんがにっこりと微笑んだ。
「美人で立派な国語教師でしょう」
大変美しく、大変怖い笑顔である。
くわばらくわばらとコーヒーを一口飲み、話をもとの軌道に戻す。
「文香さん、前にやんちゃな新入生がいるって話していたでしょ」
「ああ、鷹楽ね」
「その子について調べてほしいって頼まれたんです」
「なに、ヤクザの子じゃないか調べてとでも言われたの?」
文香さんが授業を受け持っているのは二年生。他学年の教師にまで認知されるほどの噂になっているのかとなんともいえない気持ちになる。
「先生なら、真実を知ってたりするんじゃないですか」
「担任曰く名簿の住所からして全然あの邸の子じゃないらしいわよ」
「なら」
「でも、しばらくは鎮まらないでしょうね。あそこの担任も結構付き合い長いけど、そういうことにかかわりたがらない人なのよ。無気力っていうわけじゃないんだけど、気弱っていうか」
「あ、菓子桶取って」と文香さんがちょいちょいと手招きする。
俺は背後の棚を開け木製の桶を出した。これもサイフォンと同じく、顧問である文香さんの私物だ。一昨日に見たときはまだ桶の中にはたんまりと菓子が乗っていた気がしたが、いつの間にか空間が目立つようになっていた。教師も暇じゃないだろうに毎日この教室に訪れてはのんべんだらりとコーヒーをしばいているからだろう。
「ストック出して」
「お菓子の食べ過ぎは体に良くないですよ」
「私の適量は私が決めるの。その棚の右下の引き戸ね」
屁理屈だなと肩を竦め、棚のふもとにしゃがんで黒い引き戸を開ければ、煎餅やらクッキーの袋がいくつか出てくる。その中から適当に掴んで桶を満たし、文香さんの前に押し出した。山と盛られた菓子の中から文香さんはクッキーを選び取ると、紫色のビニールを解いてさくりと半分に折り、口にした。
「噂って、エンタメ第三者からしてみればエンタメなのよ。好意的なものもあれば、最初から悪意をもって広められるのもあるし、途中でおかしな方向に歪曲していくものもある。ただ全てに共通して、第三者にとっては、その噂が発生したり曲がっていった過程なんてどうでもいい、いっそそれが事実か嘘かも関係ないってこと。おもしろおかしければそれでいい」
「噂の嫌なところですね」
「あの先生もそこらへんはわかってるんだけど、っていうかわかっているからこそね。あっさり事実を突きつけたらマジレスすんな~とか生徒からきついこと言われるんじゃないかって怖がってるのよ」
「先生なのに」
ついむすっと言えば、クッキーの半欠片を口に突っ込まれた。
「で、調べるの」
クッキーを咀嚼し、飲み下し、頷く。
「それだけ噂の的になってるってことは、危ないかもしれないですから。時間的に今日はもう帰っちゃってるかもしれないんで、調べるのは明日にしますけど」
「ふぅん」
文香さんはコーヒーを啜ると、俺を見た。
「鷹楽哉世、学級は一年七組。だから、靴箱は一番西側ね。見た目は……校内で銀髪の男子、見かけたことはある?」
「ないですね」
「そう。まぁ、一年に限らず、わが校に銀髪はひとりだけだからすぐ分かるでしょうけど。私が知ってる情報はこれくらいね」
それからまっすぐに伸ばされた文香さんの指先が俺の鼻をつんと突く。
「無茶はすんじゃないわよ。なにかあったら私が椿にどやされちゃうんだから。私にはどうしたってあんたを助けてやることは出来ないってのに」
辟易した言葉とは裏腹にその眼差しには微かながらたしかに心配の色を宿していた。
文香さんは
「大丈夫ですよ」
「あんたら一家の大丈夫はあんまりあてにならないじゃない。あ、道に迷っても知らない人についていったら駄目だからね?」
「分かってますって」
子どもに言って聞かせるようなそれに呆れたふうに答えながらもしっかりと見つめ返せば、文香さんはにっと瞳を細め、口角を持ち上げた。その笑みは母と対話しているときによく見せたものとそっくりだった。
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