三月三一日

 三月三一日の朝は雲ひとつない青く澄んだ晴天だった。

 いつも通り六時二十五分に起きてコップ一杯分の水を飲んでからカーディガンを羽織り、庭に出てラジオ体操をした。小学生の頃に父に誘われて以来毎朝行い、背伸びの運動からはじまり腕を回す深呼吸で終わるまでの流れをすっかり把握しきった体操だが、惰性でやっては意味がない。ピアノの音色と指導者の声にきちんと耳を傾け、指先まで丁寧に動かし、眩い陽光とまだ少しひんやりとしている爽やかな朝の空気をたっぷりと取り込んだ。

 一日のはじまりへと送り出す朗らかな声を聞いてからラジオをかちりと止める——と、それを待っていたというように茂みがかさかさと音を立てた。

 ミケ、トラ、クロ。三匹の猫がそろそろとやってくる。ミケとトラは俺の足元をくるくるとまわり、クロはそれを少し離れたところから眺めていた。

 三匹とも野良猫で、二年前の春のおわりに一度餌を与えて以来すっかり我が家を飯屋と認識してしまったらしく、朝と晩は三匹仲良く顔を出す。学校のない土日や長期休暇の日中は昼にも顔を出してくるから、俺の年間スケジュールを把握しているんじゃないかとたまに疑う。

 彼らが望むのなら飼ってもいいと思っているし、遠くにいる母にもその許可は得ているのだけれど、冬の寒さが厳しい間は家の中に匿ってあげたりもした。

 けれど彼らは毎年、南の方では桜が開花しはじめるころ、それでもこの街にはまだかすかに冬の残り香が漂うころに我が家に住まうのをやめ、また野良の客人として訪れるようになる。ネコというのはもともと気ままな性質らしいし、主を得ずに自由に生きたいのかもしれないと思いそれを無理に引き留めることはしない。

 しゃがんで頭や顎を撫でればしばし心地よさげにアーモンド型の瞳を細め身を捩らせたが、やがてやんちゃなキジトラが俺の手を叩き、甘えん坊のミケがこてんと首を傾げて上目に俺を見つめる。クロは相変わらず静かにじっと眺めていた。

「はいはい、餌な。ちょっと待ってろ」

 よいしょ、と立ち上がりぐっと伸びをしながら濡れ縁を通り家の中に入る。台所に向かい、冷蔵庫脇の猫グッズ置き場と化した棚からトレーと皿を四枚取り出す。赤、青、白の小皿には猫缶を開けて、大きめの深皿には飲み水を注ぐ。三匹分の食糧を乗せたトレーはなかなかな重みがある。零さないように気をつけつつ鼻歌まじりに庭に戻れば、猫たちの視線は俺の手元に釘付けになった。黒猫もついにとっとと俺の元に近寄ってくる。

 餌用の皿を等間隔に並べた瞬間、三匹はこぞって食いつく。俺にちっとも目もくれず。

「ったく、ちょっとは感謝しろよ?」

 と、苦笑しつつ、飲み水の皿を少し離れたところに置いておく。

 濡れ縁に腰かけそれを眺めながら、俺も腹が減ったなぁ、と冷蔵庫の中身を脳裏に浮かべる。と、クロがふいに顔を上げて俺をじっと見たそのとき、後ろから抱きしめられた。

兒玉こだまくん?」

「もう少し驚いてくれてもいいのに」

 顔だけで振り向けば、丁寧に切りそろえられたさっぱりとした黒髪に、紺色のブレザーを纏った中学生くらいの男の子――兒玉くんがいた。首からはきちんと結ばれた臙脂色のネクタイがさがり、胸元にはピンクの造花と『卒業おめでとう』と書かれたリボンがさがっていた。

「お前のせいだぞ」

 クロをむっと睨みながら拗ねた指先が俺の頬をつんつんと押す。それは人の形をしていながら人よりもずっと冷たいものだった。

「クロがいなくても驚かないって。俺は視えるし感じるんだから」

百々瀬ももせくん知ってる? 〝妖〟ってのは七割は人間を驚かせるのが好きなもんなんだよ」

 声変わり前のトーンの高い声が軽やかに歌うように言う。

「ぼやっとしか視えない人間を見つけて悪戯をするのも一興だけど、やっぱちゃんと視える人間の方がずーっと面白い」

「って、ミツメにでも言われたか。それともウシアタマ?」

「決め打ちだね」

「脅かし好きの代表だろ」

「両方かな」

「あんま変な影響受けるなよ」

「影響もなにも、僕はもともと面白いこと好きさ。百々瀬くんだってよぉく知ってるでしょ?」

 手のひらを上向けて肩を竦めてみせれば兒玉くんはくすくすと笑って、俺の右隣に腰を下ろした。

「百々瀬くんももう十八歳か」

「明日だけどな」

「いろんなことが出来るようになる歳だ」

「ぜんぜん実感湧かないけど」

「でもさ、毎年思うけど微妙な日だよね。春休みだから学校で祝ってもらえないし。日付が日付だから揶揄されたり質の悪い悪戯とかされそうだし」

 兒玉くんは足をぶらぶらと揺らしながら、まさに悪戯っぽい笑みで言った。

「しないでくれよ」

「えー、僕たちはサプライズ計画してたんだけどなぁ」

「お前らのサプライズは絶対ロクでもないし、そもそもサプライズはバラしちゃ駄目だろ」

「どんなサプライズかは言ってないんだから問題ないでしょ」

 いつの間にか餌を食べ終え猫たちが足元に寄ってくる。ミケとトラは俺の足元に頬や体をすり寄せ、クロだけは兒玉くんに近づきそのまま膝に飛び乗った。兒玉くんはその背に色白の手のひらを乗せ、よしよしと撫でた。

 先は悪戯の失敗の元となったとクロを睨んではいた兒玉くんだが、それもクロを気に入っているが故のアクションだ。彼らを視ることができる生き物というのは、人動物問わずそう多くはない。だから、我が家に来るたびに兒玉くんは自分を捉えることができるクロによく構い可愛がる。

「俺と出逢ったときは目線同じくらいだったのにね。人間の成長ってのは早いもんだね。な、クロちゃん」

「猫の方が早いけどな」

 兒玉くんはクロの両手を掴み、くいっと持ち上げた。クロの黒い胴体がだらーんと伸びる。どれだけ兒玉くんに弄ばれてもクロは鳴き声ひとつ漏らさず大人しくされるがままだった。

「お母さんは? 帰ってくるの?」

「こない」

「そっか」

「でも、当日指定で荷物を送るって」

「へぇ、楽しみじゃん」

「どうせまた奇妙なお土産だろうけど」

「文香(ふみか)さんは?」

「昼に来るって」

「今年は何ケーキだろうねぇ」

「昔からうちに遊びにくるときはモンブランしか買ってこないよ、あの人は。あの人がモンブラン好きだから」

 あと、ケンタのチキンバーレル。あれも絶対買ってくるだろうな。あの人が好きだから。

「じゃあ文香さんが帰ったら俺たちのとこにきてよ。祝ったげるから、サ・プ・ラ・イ・ズ」

 兒玉くんがぱちんとウィンクをする。だから言っちゃダメだろ、サプライズ。

 言ったところで聞かないし意味がないから「覚えてたらな」と小さく笑い、腹が鳴る。そろそろ朝食の支度をするかと立ち上がれば、ミケとトラはもっと構えというようにミーミー鳴いた。

「俺にも飯食わせてくれよ」

 ひと撫でずつして、兒玉くんの腕の中のクロも撫でて、キッチンに向かった。

 朝食を終えると、猫たちはいなくなっていた。兒玉くんだけがひとり、縁側に佇んでいた。

「僕も帰ろうかと思ったけど、挨拶しないとと思って」

「別にいいのに」

「いやいや、大事だよこういうのは」

 そして兒玉くんはにぱっと笑った。

「また明日。百々瀬くん」

 塀をすり抜け低癖を見送る。

 それから、ちょっぴり寂しくなった庭に家族三人分の布団を干してから家の掃除を軽くして、日が暮れてきたころに買い出しがてらに散歩に出たら何匹か妖に会った。この街は、今まで過ごしたどんな街よりも大小問わず妖が多く、ふらっと外に出れば誰かしらに出会う。その中の親しいものとは手を振り交わしたり、立ち話をした。人目につかないようにしつつ、それでも誰かの気配がすれば咄嗟に誤魔化す術はここ数年ですっかりうまくなったものだ。白くて小さな狐をしたかわいらしい妖のキタは「あんたは方向音痴だからね。迷子にならないように見ていてあげる」とスーパーまで付き合ってくれた。

 夜はいつも二三時には布団に入るようにしているけれど、今日は少しだけ早めに寝支度を整えた。居間で日課である日記を書いて、火元の確認と戸締まりをきちんと済ませて、一階の電気を全部消し階段をのぼって自室に向かう前に父の部屋に立ち寄った。

 あと数時間で十七歳が終わり、新たな年度がはじまる。そんな節目の際に会いたい人をと思うと、どうしても父の顔が浮かぶ。

 父は俺の人生の指針だった。

 父は視える人も視えない人も、人間も妖も等しく思いやり助ける、真面目で誰にでもやさしい人だった。そんな父の語る言葉はいつだって、子どもながらにお人好しだと思うほどに、理想的な詭弁だった。だがそれを一途に信じてやさしく主張する父に憧れていた。大好きだった。妖と連むようになったのも、高校でなんでも屋まがいの部活をはじめたのも父の影響が大きい。

 父の部屋のクローゼットを開け、ハンガーにかかったシャツやコートを左右に割るように避ける。その奥には一六から二〇までの数字が書かれたラベルが張ってある箱が五つ入っている。

「あと三つか」

 寂寥を誤魔化すために口に出したのに、より濃い切なさが胸をつきりと刺した。

 積み重なっている箱をひとつずつ下ろして「一八」の箱を引き出す――これは父が十八歳の俺に向けて用意した誕生日プレゼントだ。例年通りだと、質の良さげな白色のシャツとなんらかの文房具と、それから手紙が入っている。実用的なものばかりながら、しかし俺が手を付けるのはいつも手紙だけで、あとは新品のままに蓋をして箱を元通りに戻している。汚したり、損なってしまうことが――直接じゃないプレゼントを受け取るのが、嫌だった。

 まだ一七歳だからフライングになってしまうちょっとした罪悪感もあるけれど、父に会いたいという気持ちに秤は傾ききっていて、そっと箱を開けた。

「一八」の箱の中に入っていたのは、真っ白なコットンのシャツ、黒く艶やかな万年筆、薄青の封筒だった。

 箱を開けるたびに思うことがある――父はいつからいなくなる可能性を考え、覚悟し、これを用意していたのか。

 父のデスクの上にあるペーパーナイフを手拝借し、封筒の蝋をそっと外す。中には二枚の便箋が二つ折りで重なっていた。指先で抓むように抜き取り開き、几帳面な文字を視線でなぞる。

 手紙はいつも、決まった文言からはじまる。


『凛兎(りと)、お誕生日おめでとう――』


 父がいなくなってから気づいた異ことがある。大事なものが欠けたままでも世界は回り続けるのだ。

 だからあと数時間もすれば、きっと、また。

 妖しく、切ない、一年がはじまるのだ。

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