第7話 陽斗視点
父さんは面倒に巻き込まれたくないのか、母さんたちが出かけてからはずっと二階の自室に閉じこもったままだ。
子供たちの泣き声が聞こえないわけがないのに、知らんぷりを決め込むなんて父さんらしい。
換えのオムツがないからフェイスタオルを瑠奈に巻き付け、近くの薬局までオムツを買いに走ると、美優は僕がいない間にもさらに悪戯をしていた。あまりのことに部屋を掃除する気にもなれなかった。美優は僕の愛読書に油性マジックで落書きし、得意そうにそれを見せたのだ。
僕が怒ると泣き出して、あろうことかその本をビリビリと破いた。もうすっかり放心状態になるくらいショックで、汚れた部屋に呆然と座り込む。沸々と怒りがわき上がってきたのはあかねに対してばかりではない。
母さんも幼い子供を持つ樹理さんを誘うべきじゃなかったよ。宝石デザイナーの集まりに毎回行くのも行きすぎさ。毎月、いや毎週のようにそんな集まりはありその度にいそいそと外出していたが、そもそもただの食事会やら飲み会で交流会という名の無駄な夜遊びじゃないか!
「ただいま戻りましたよ。きゃぁーー! なんなのよ。いったいどうしたって言うの? この惨状は?」
いくつもデパートの袋を手に提げている。交流会の前に買い物を楽しみ、コインロッカーにでも預けてパーティに参加したのだろう。いつもなら気にもならないが、今日ばかりはイライラしてしまう。
「母さん、お帰り。あかねが夕食の食材を買いに行ったきり、戻って来ないのさ。参ったよ。それにしても、母さんたちも帰りが遅すぎないか? こっちは子供を押しつけられて大変だったのに。おまけに、ずいぶんと買い物もしてきたんだな。いい気なもんだ」
つい母さんを責めてしまう。もちろん、一番悪いのはあかねさ。
母さんは壁紙を見て顔を青くし、絨毯の黄色いシミを見て息苦しそうに胸を手で押さえた。さらには、ソファにまで油性のペンで落書きされているのを見て、ペタンと床に崩れ落ちる。未だかつて無いほど悲壮な顔付きをしていた。
「あらあら、散らかしてぇーー。全く、いけない子ねぇーー」
一方、樹理はコロコロと笑いながら目を細めただけだ。美優をたしなめることさえしない。
「待ってくれよ、樹理さん。この子達は野生児すぎる。躾けをしなければいけないよ。いくらなんでも美優ちゃんは我が儘すぎるし、やんちゃが過ぎる」
「なんでそんな賢星みたいなことを言うのよ。子供はね、伸び伸びと育てるのが一番なのよ」
樹理は平気でそんなことを言ったけれど、母さんはショックから徐々に立ち直り、メラメラと怒気を身体から立ちのぼらせた。
「この壁紙はものすごく高かったのよ。絨毯も外国から取り寄せたし、ソファもとても高価なものなの! 明日の朝一番に、専門のクリーニング業者を呼ばなくてはいけません。いったい、いくらかかるのかしら?」
母さんはイライラとお金の心配を始めた。
「どうせ、また美優や瑠奈が汚しますからこのままで良いですよ。ちょっと洗剤を含ませた雑巾で拭けば問題ないでしょう? 陽斗さんもお母様も、さっさと掃除を始めてくださいな。私は美優たちの身体を綺麗にして、お着替えをさせますわ。さぁ、ママと一緒に身体を洗いに行きましょうね」
「お待ちなさい! 砂糖や塩をジュースに入れて遊ぶなんて恐ろしいことです! バチが当たりますよっ! おまけに壁紙や家具に落書きするなんてやってはいけないことです。美優ちゃんはきちんと叱るべきです」
母さんは大声で美優を呼び止め、お説教をしようとする。
「うわぁーーん!!」
怒られると察した美優が途端に泣きわめいた。
これは本当に人間か? 人間の子供の顔をかぶった悪魔なんじゃないかな? 頭痛がしてくるよ。
「私の子供を叱るのはやめてくださいな。酷いです! 虐待だわ」
仲が良かったはずの樹理と母さんはにらみ合って一歩も譲らない。あかねがいないだけで、この空間は途端にギスギスと乾いた空気に支配された。
「頼むからこれ以上、美優ちゃんや瑠奈ちゃんを泣かせないでくれ。ここは臭くて汚すぎて、とてもいられない。早く母さんと樹理さんで掃除をしてくれよ」
「あら、嫌だ。ここは陽斗さんの家でしょう? だから掃除をするのは陽斗さんとそのお母様です。なんなら二階にいらっしゃるお父様も呼んできて、三人で掃除すればすぐに綺麗になりますよ。だって、私はお客様ですもの」
僕と母さんは唖然として樹理の顔を見つめた。
結局、樹理は掃除を手伝うこともなく、僕と母さんが必死で掃除をした。父さんは頭痛を理由に二階に籠もったままだった。僕と母さんはどんなにこすってもとれない油性マジックに絶望し、絨毯の黄色いしみに涙した。美優は食べ物をよくこぼすし、油性のマジックはお気に入りの悪戯道具になった。
油性のマジックは僕が数日前に使い居間のテーブルに置きっぱなしだったものだ。引き出しに戻しておけば良かったのに、うっかりしていた。あかねは整理整頓好きで、放っておいても片づけてくれたので、今回もそうしていたのだが。
ってことは、やっぱりあかねのせいだよな。忌々しいなぁ。帰ってきたら覚えておけよ!
美優は僕と母があたふたするところが最高に楽しいらしく、翌日もその翌日もあらゆるところに落書きをしていった。油性のマジックをいくら取り上げても、樹理がまた渡してしまうから意味がなかった。
☆彡 ★彡
あかねがいなくなってから三日ほど経っていた。携帯にはずっと電話をしていたが、あかねは出ない。今日帰ってこなかったら、あかねの母親に電話をするつもりだった。すぐに電話をしないのは事情を説明するのが面倒だったからだ。
なんの理由もなく家出をするわけがないので、きっとあかねの母親からは根掘り葉掘り聞かれるだろう。場合によっては、責められるかもしれない。そう思うとなかなか電話もできないで、ひたすらあかねに腹を立てていた。
そんな矢先、大得意様である広瀬社長が来店する。広瀬社長はいつくもの会社を経営する女性で、あかねとはとても親しい。
「太田宝石店ではもう購入しません。作成途中の物はこちらで引き取り、かかった手間賃はお支払いします。そして、お願いをしていた全てのアクサセリーはキャンセルです!」
虫けらでも見るような冷たい眼差しが痛い。
「広瀬様、なぜですか? いつも当店をご利用いただいているではありませんか? 母のデザインで僕と父が作るアクセサリーは最高だとおっしゃっていたでしょう?」
「先日から、あかねさんがジュエリーブルダンで働いています。太田宝石店から徒歩10分もかからない駅前にある大きな宝石店です。ですから、これからはあちらの品物を買うことにしました」
広瀬社長には娘が四人もいて孫や姪も多く、プレゼント用に太田商店でアクセサリーを毎月たくさん購入してくれる。一番のお得意様と言って良い大事な客だった。
どうしてあかねがいないだけで、こんなことになるんだ?
「あかねのどこがそれほど気に入ったのですか? あいつは宝石のデザインもできないし、手先が不器用なので、ネックレスや指輪を加工することもできないです。ただ愛想が良いだけのつまらない女ですよ」
勝手に家出をして、ライバルである他の宝石店で働き始めるなんて、嫌がらせをするにも程があるよ!
「あかねさんは、私や娘、孫たちのお誕生日には、必ず素敵なメッセージカードと一緒に美しいお花を贈ってくださいます。私が趣味で描いている油絵の個展では、まず最初に足を運んでくださり、怪我をして入院した際には頻繁にお見舞いに来て、楽しいお話しで気を紛らわせてくれました。それに、孫たちのピアノやバレエの発表会にもいつも快く足を運んでくれる姿勢には心から感謝していますのよ。ですから、私はあかねさんからしか宝石は買いません! 他の方々も多分そうおっしゃるでしょうよ」
知らなかった。顧客管理はあかねに任せっぱなしだったが、そんなことまでしていたなんて・・・・・・
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