第3話 木の上の少女
冷たい風に思わず身体を震わせる。家を出て数分だが、手が氷のように冷えてしまったので、肩に乗るシュレディンガーのふかふかの毛に手を突っ込んでホッカイロ代わりにする。
「シュレディンガー、どこまで行くんだ?」
「公園にでも連れて行ってくれ。あそこには色んな野良ネコが集まる。面白い話を沢山聞けるぞ」
「そいつはいいな。どんな話だ?」
「縄張りの話、飼い主の話、エサの話——なんでもござれだ」
「人間が入りずらい話ばかりだな。やっぱり僕は遠慮しておこう」
マダムたちの井戸端会議に参加するようなものだ。ネコたちに悪い。
そもそも、今日は平日だ。ネコと違って人間の子どもは学校へ行き授業を受ける。さらに言えば、朔太は国民的知名度を誇る芸能人の先輩と会う約束があるのだ。学校をサボるわけにはいかない。
「わかった。また今度誘う」
「はいはい、また今度な」
そんな会話をしていると、シュレディンガーではない、別のネコの鳴き声が聞こえた。
辺りを見渡すと、曲がり角から1匹のネコが顔を出したところだった。
「シュレディンガー」
見知らぬネコは朔太の前に座り込み、肩に乗るシュレディンガーに声をかけた。
「なんだオレに言ってるのか?」
「そんなヘンテコな名前、君しかいないでしょ」
「……キミは誰だったかな。新顔か?」
「ボクはナベだよ。最近、ネコの楽園からこの辺りにやって来た」
「ネコの楽園って?」
聞いたことの無い単語だ。シュレディンガーに説明を求める。
「詳しくは知らないが、ネコたちが安らかに暮らす島ってことは聞いたことがある。それでナベ、オレにどういう要件だ?」
「ネコの話が分かる人間というのは、そいつか?」
ナベの問いには朔太が答えた。
「その通り。僕の名前は朔太。よろしく」
「こりゃ驚いた。本当にネコの言っていることが分かるんだね。ネコの楽園にもこんな人間はいなかったよ。よろしく朔太。さて、さっそくだが頼み事を聞いてくれ」
ナベは朔太の右肩に飛び乗った。これで両肩にネコ。2匹共なかなかの重量で肩が疲れるのだが、バランスは良くなった。
「実は公園の木に登った人間が木から降りれなくなったんだ。助けてやってくれないか」
「……えーっと、聞き間違いをしたような気がするな。もう一度言ってくれないか?」
「公園の木に登った人間が木から降りれなくなったんだ」
「木に登ったのはネコじゃなくて人間で間違いないんだな?」
「ああ」
朔太は半信半疑ながらもナベに連れられ、公園の中心にある大きな木に向かった。
「朝から木登りする女の子がいるとは信じがたいけどね」
「ボクにとって、ネコと会話できる人間がいることの方が信じがたいけど?」
「はっはー、同意見だよ。————って、マジ?」
疑いはすぐに晴れた。ナベの言っていた女の子は確かにいた。
女の子が、木の幹に蝉のようにしがみ付いている。
さらに朔太を困惑させたのは、その子が朔太と同じ学校の制服を着ていたからだ。少なくとも、朔太は彼女を見かけたことはない。だからと言って助けないのも道理に反する。
「どうにか助けてやれないか?」
「高いところが好きなのかもしれないな」
「ネコじゃあるまいし」
朔太は木に近づき、幹に抱き着く女子に声をかけてみた。
「どうも、僕の名前は徳川家康といいます。あなたは?」
「……私?」
辺りを見渡すが、朔太とネコ以外誰もいない。朔太は頷いておいた。
「私の名前は寧々。松田寧々って言います」
「よろしく松田さん」
「寧々って呼んでよ。私も家康って呼ぶから」
「あー、えっと、そうか。じゃあ僕も寧々って呼ばせてもらうよ」
どうやら寧々は、徳川家康という名前について疑問はないようだ。それとも初対面の人に対してノリが良いだけなのか。寧々の表情から真意を読み解くことは出来なかった。
「それで、寧々はそんなところで何をしているんだい?」
「えーっと、高いところにいたネコちゃんのことが気になって木に登ったんだ。だけど近づいたらネコちゃんが飛び降りちゃって、なんで逃げるのー! って追いかけようとしたら——あ、私、降りれなくなっちゃったんだ……」
「……状況は理解したよ」
この人は、言葉よりも身体が先に動くタイプの人だ。
「おい朔太、この人間はマヌケなのか?」
「いいかシュレディンガー、そういうことはオブラートに包むのが人間の作法だ」
「そうなのか、覚えておこう。それはそれとして、あの人間をどうやって下に降ろすんだ? 朔太の腕があそこまで届くとは思えないぞ」
「腕が伸びるかもしれないぞ」
「あっ、漫画とやらで見た事があるぞ! 帽子をかぶった人間が、腕を伸ばしてゴムg——」
「なんだい漫画って?」
「なんだナベ! ネコの楽園とやらに漫画は無いのか?」
「そんなものはないな。なあ朔太。あとでボクに漫画とやらをみせてくれ」
「…………どーすっかなー」
その場にしゃがんでシュレディンガーを撫でながら、大きな枝に座る寧々を見上げる。漫画をみせるのはどうってことない。あとでいくらでも見せられる。いまの発言は寧々に対して、どうやって地上に降ろせばいいか考えて出たものだ。
寧々を視界にいれつつ思考を巡らせていると、彼女のスカートが風に揺れて白い太腿が見え隠れした。もちろん、その奥にある飾り付きの派手な布も。
「きゃー、えっちー」
寧々はわざとらしく声をあげた。周りに人がいないのが幸いだ。このご時世、朔太が悪者にされてしまう。
そんなことを思いつつも、反応に困った朔太は、視界に捉えたものについて感想を素直に伝えた。
「随分と派手なの着てるな」
「デリカシー無いってよく言われない?」
「ご明察、よく言われるよ。そんなこと分かるなんて寧々さん天才か?」
「うん、天才ってよく言われる」
「僕もデリカシー無しの天才だし、天才同士が出会っちまったわけだ。漫画だったら物語の始まり、運命の出会いってとこかな」
「なにそれ。どういうこと?」
「拗らせた男子高校生のただの妄想さ。そんなことよりも、どうやって降りるか考えてくれ」
「あー、それなんだけど思いついたんだった。どこかの誰かさんが私の下着を盗み見て欲情するから言い忘れてたよ」
「悪かったって」
悪気はなかったので平謝りしておく。勿論、欲情などしていない。そんなものはアリサで間に合っている。——なんてことをアリサ本人の前で言ったら大喜びするのでいう訳ないが。
「不可抗力だし別にいいよ。私が上にいるのが悪いんだもん。ってことで、私が飛び降りるから受け止めてね」
寧々は脚を曲げて飛び降りる態勢に入った。その様子に朔太は目を丸くして慌てて立ち上がる。
「ちょっとストップ! 提案と実行を同時にするな!」
「ダメ? 家康は細身だけど鍛えてる感じするし、大丈夫っしょ」
「いやいやだいじょばないっしょ。意外と高さあるよ?」
寧々のいる位置は、目測で朔太の身長の3倍はある。そんなところから降りるのは、飛ぶ側と受け止める側、両者それなりの危険はある。
「だいじょーぶだって。ほら、私軽いし」
そう言って寧々は自分の胸を叩く。思わず「そうですね」と言いかけたが、それに関しては何も言わずが吉だ。言葉を堪えた朔太は、心の内で自身へ称賛の拍手を送った。
「……分かった。受け止める——って、ジャンプはしないでくれ」
再び寧々が脚を曲げ、勢い付けようとしたので慌てて制止する。
「その場に座って、滑り落ちるようにして降りてくれ。そうしたら、僕も受け止め易いし、お互い怪我のリスクは最小限だろ」
「んー、たしかにそだね」
寧々は座りこみ、脚をぷらぷらとさせた。そのせいで、これまた視界に派手なもの見えた気がしたが、あえて指摘しなかった。本人も気づいていないようだ。
「ほら、これで降りればいいのかね」
「いいぞ」
朔太は寧々を受け止めようと両腕を広げる。
「―—よいしょ!」
寧々の身体が宙を浮く。
朔太はタイミングを見計らって上半身を抱き抱えて受け止める。まるでマグロを抱えた漁師のようだ。
「っし、うおっ、おもっ!」
マグロのように暴れはしなかったが、想像以上の重量にバランスを崩す。軽いという言葉は一体何だったのか。朔太の顔にはご褒美が——否、しっかりとした重みと柔らかな感触が布越しに伝わってくる。
能ある鷹は爪を隠す。——いや、能ある女は乳を隠すと言ったところか。
朔太は何を考えているのか、本当に良く分からなくなった。姿勢を保つことに精一杯で、思考が滅茶苦茶になっていたのだ。
踏ん張ってみるが、一度バランスが崩れたせいで、元の姿勢になかなか戻れない。
(——駄目だ、倒れるっ!)
せめて寧々に怪我がないよう、重心を後ろにして背中から倒れることにした。
「ぅお……とっとっ、とっ……ぐひゃ!」
「うわあっ!」
「ニャ!」
朔太の後ろにいたネコたちが慌てて避難する。それと同時にドスンと砂埃を撒き散らし、朔太は寧々を抱えたまま背中から倒れた。
「いててて……」
「あた~」
砂埃が晴れて目を開ける。こういう時のお決まりというか、必然というか……。物理法則を無視しているのかと疑ってしまう光景が、目の前に広がっていた。
朔太の右手には柔らかでいて程よい弾力を持つ、男ならば誰もが憧れを持つ
一方の左手は、寧々のスカートを捲るように引っ掛かっていた。彼女の派手な下着が露わになり、もはや派手どころではない。
「……ちょっとお嬢さん、僕から降りて貰えないかな」
「ごめん、ごめん」
寧々はさっと朔太の身体から離れた。
「と、ともかくありがと。やっぱり地上が一番ね」
直前の光景にあえて追及することなく、寧々は頬を赤く染めただけだった。何も言うなと言わんばかりに朔太へ笑顔を向ける。
「……どういたしまして」
「御礼とか出来たらいいんだけど持ち合わせが無いからコレで許してね」
「コレ? さっきのでお釣りが来そうだけど?」
「どッ、どうしてソコに触れるの! まあいいわ。へ、減るもんじゃないし……とにかく、それはそれ。これはこれ。御礼はさせて貰うわね」
寧々はそう言って、朔太の頬を両手ガシっと掴んだ。まるで猛禽類に捕獲されたみたいだ。
「ちょ、ちょっと!?」
寧々は困惑する朔太をよそに、額に唇を近づけてキスをした。
「じゃ!」
寧々は手を振って、逃げるように駆け足で去って行った。
(御礼の仕方が随分と情熱的じゃないか。学校で再会したとき気まずいだろうなぁ……)
「なあ朔太、何か忘れてないか?」
朔太が眉をハの字にしていると、シュレディンガーが大きな欠伸をして近くのベンチに飛び乗った。
「あっ」
公園に設置された時計に視線を送ると、時刻は8時20分。ホームルームまで残り10分と迫っていた。そりゃあ寧々が駆け足で行ったわけだ。遅刻する、と朔太に言わないのは最後に意地悪されたのか。
「じゃあなシュレディンガー、ナベ。僕は今から本気を出さなきゃいけないようだ」
「ああ、気をつけてな」
シュレディンガーとナベに見送られ、朔太は体力測定以来の全力ダッシュで学校に向かった。
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