第125話 自覚(壱)

 四条氷雨しじょうひさめは己の気持ちを自覚し始めていた。


 ハルを見ると、相変わらずヒサメは胸がぎゅうっと締め付けられるような感覚に襲われた。人知れず周りに気を配っていたり、仕事を頑張っている彼女を見ると、思わずその頭を撫でたくなる。

 他人――特に男が――ハルに親しく接すると、面白くなかった。もし、彼女に害をなす輩がいれば、損得抜きに報復したいと思う。


 ハルの喜ぶ顔が見たい。悲しい顔は見たくない。


 さて、これらが意味することは何か――そう自身に問えば、さすがのヒサメも認めざるを得ない。

 自分がハルに恋愛感情を抱いていることを――。




 ああ、認める。認めてやる。俺はコイツが好きなんだ。だから、この状況をどうにかしてくれ。

 ヒサメは天井を仰いだ。



 時刻は夜――人々が寝静まる頃、ヒサメは自室にいて、目の前にはハルがいた。

 先日、強引に清掃・整理整頓され、前より広くなった室内でちょこんと彼女は座り、本読んでいる。それは異世界についての書物だ。


 どういうわけか、ハルは異世界について興味を持っていて、ヒサメの蔵書を暇さえあれば読みに来る。読書中の彼女はかなり集中していて、他のことは気にもとめないよう。今もまさにそうだった。


 その後ろ姿――無防備なうなじが目に入り、ヒサメはドキリとする。同時に腹が立った。

 どうして!夜、男の部屋にのこのこやって来るんだ――と。


 それが理不尽な怒りだと、ヒサメ自身も分かっている。

 ヒサメが所有する文献が高価だから持ち出さず此処で読め――そう言ったのはヒサメなのだ。ハルはその約束を忠実に守っているにすぎない。


 しかし、しかしである。

 男と二人きりの部屋、しかも夜。年頃の娘が、何の危機感もなくやって来るのはいかがなものだろうか?

 ヒサメは自室への出入りを許可した過去の自分を呪った。


 言い訳をすれば、あの当時はまだヒサメも無自覚だったのだ。ハルに対する好意自体はあったが、小柄で童顔の彼女はヒサメにとって子供だ。子供に欲情するなんてあり得ない――そんなことを考えていた。

 しかし実際は、ハルはもう十七歳で結婚適齢期。その体も決して子供ではなかったわけで……。


 ヒサメのまぶたに自然と思い浮かぶのは、山毛欅ヶ岳ブナガタケの天狗の里のことだ。子供たちが温泉の暖簾を吹き飛ばし、間違った場所に掛けたせいで、ヒサメは図らずしも女湯に入ってしまった。すると、そこにハルがいた事件だ。


 湯気の向こう、ハルの裸体が浮かび上がる。

 上気しほんのり桃色に染まったハルの頬、普段は着物に隠されている白い肌、柔らかそうな胸の膨らみ――それらを思い出して、ヒサメは自ら手近な棚に頭を打ち付けた。


 ゴンッ――鈍い音がして、読書に集中していたハルも飛び上がって驚く。


「ヒサメ様!?どうされましたか?」


 慌てた調子で尋ねるハルに、


「……問題ない」


 ヒサメはかぶりを振った。


「いや、問題ないわけが……」


 ハルからしたら、突然ヒサメが自分の頭を家具に打ち付けたのだ。正気の沙汰を疑うには十分である。


「ヒサメ様、本当に大丈夫ですか?」


 こちらを心底心配するようなハルの声音に、ヒサメの胸はまた、ぎゅうっと締め付けられるような感覚に襲われた。彼は眉をひそめながら、「問題ない」と繰り返す。それから、こう続けた。


「お前……これからは俺の蔵書も自室で読め」

「ええっ?それは…どうして?」

「どうしても、こうしてもない。お前の部屋で読め。蔵書なら持ち出しを許可するから、俺の部屋には居座るな」


 ヒサメにそう言われて、ハルは困惑の表情を浮かべていた。なぜ、部屋を出て行くよう言われたのか、彼女はその理由を知らないから当たり前だった。

 ハルはおろおろとしながら、「私、何か粗相をしましたか?」と問いかける。その様子も実に可愛らしく、ヒサメにとって目の毒だった。


 本当に勘弁してくれ。ヒサメはそう思いつつ、声を上げた。


「いいから、お前は帰れ!」


 結局、ヒサメはほとんど無理やりハルを部屋から追い出したのだった。




 検非違使庁の仕事が休みの日の午後、ヒサメは居間でロウと明日の予定について話し合っていた。その傍らでコマは繕い物をしている。

 そこへ急須と湯呑をお盆に載せたコンが部屋に入って来た。このとき、ハルだけは夕飯の買い物に出掛けていて、不在だった。


「お茶、もってきたよ」

「あら、ありがとう。コンちゃん」


 コンはヒサメの下で修業をしながら、ハルやコマに教わって、簡単な家事ならできるようになっていた。最近では、ハルに文字の読み書きも習っているようだ。それは結構なことだとヒサメは考える。

 コンはヒサメの式神だから、必然的に人間社会の中で生きていくことになる。そのため、文字を覚えておいて損はないだろう。


 山毛欅ヶ岳ブナガタケの温泉の件も……とヒサメは思い返す。

 あの場にコンもいたわけだが、文字が読めていれば暖簾を掛け間違うこともなく、俺も女湯に入らずにすんだかもしれない。そう思うと、なおさらコンには読み書きができるようになってもらいたかった。



「ご主人さま、どうぞ」

「ああ」


 ヒサメはコンから湯呑を受け取った。茶をすすると、熱すぎずぬるすぎず、ちゃんと適温で淹れられていることが分かる。

 ふと、ヒサメはコンがその場でじっとしているのに気付いた。なんだか、緊張した面持ちで佇んでいる。


「どうした?茶なら美味いが…?」

「……」


 押し黙るコン。自分が淹れた茶の味が気になるのかとヒサメは思ったが、コンの様子から察するに、どうも違うようだ。

 ヒサメが怪訝そうにしていると、コンは意を決した表情で彼を見た。


「ご主人さま、聞きたいことがあるんだけれど」

「なんだ?」


 どうせ大したことではないだろう。そう高をくくっていたヒサメだったが、すぐに後悔することになる。


「ご主人さまって、ハルのことが好きなの?」


 予想外の質問に、ヒサメを飲んでいた茶を噴き出した。



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