第124話 忘れたい記憶(弐)
見たくない――私は強くそう思った。
不思議な鏡の中に映る前世の自分、それを見たくないのだ。にもかかわらず、私はその鏡から目が離せなくなっていた。
たぷんたぷん。
鏡の中で水面が揺らいでいた。それから水着を着た大勢の人。
そこが郊外にある娯楽施設のプールだと、私はすぐさま思い出す。
確か、私がまだ小学校に上がる前の頃。珍しく、実母が私を遊びに連れ出してくれたのが、其処だった。
母親が出掛ける時、私はお留守番と決まっていて、二人で一緒に遊びに行くなんてめったにないことだった。
当時の私は嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて、はしゃぎすぎて……いつの間にか、プールの自分の足が届かない場所にまで来てしまっていた。
そして――私は溺れてしまった。
呼吸がままならない私は、何とか水から浮いて息を吸おうとする。腕を横や前に伸ばしてもがくが、それが精一杯。助けを求めるために声を上げたり、周囲の浮いているものに手を伸ばしたりする余裕がない。
そうしている間にも、どんどん身体が水中に沈み込んでいく。
もうだめかと思ったそのとき、周囲の大人が私の異変に気付いてくれた。一人が慌てて、私を水の上に引っ張り上げてくれる。
助かった。助かった。お母さんはどこ――私は荒く息をしながら、目で母親を探した。すると、少し離れた所にいる彼女と目が合う。
助かった私を見て、母はなんだか残念そうな表情をしていた。
そこで映像が切り替わり、鏡は違う場面を映し出した。
今度は、薄暗い部屋の中だ。時刻は夕暮れに近いが、電気代滞納で送電が停止されているため灯りはつかない。
部屋のあちこちにはゴミ袋が散乱し、酷い臭いが充満している。コバエがそこらを飛び交っている。
そんな部屋の奥で、一人の子供が横たわっていた――私である。
【すぐ帰るから、待っていなさい。絶対に、外に出ちゃだめよ】
そう言って、二度と家に帰らなかった母親。そんな彼女の言葉を、愚直に守っていた私。
この場面は……そうだ。あまりの悪臭のせいで隣の住人が苦情を言い、大家さんが乗り込んでくる前のことだ。
私を発見した大家さんは警察を呼び、私は病院に運び込まれた。もし、あと数日発見が遅れていたら危険だったと、後から聞いた。
その後、私は児童養護施設に預けられたのだ。
また、鏡の中で場面が変わる。今度は何だろう?
あっ……。
私の口から自然に声が漏れた。優しそうな微笑みを浮かべた初老の女性が、こちらを見ている。
「おばあちゃん…」
懐かしさで、私の胸は締め付けられそうになった。
おばあちゃん――前世の私の大事な家族。血縁関係にない、亡くなった夫の姉の孫というほとんど他人の私を引き取ってくれた恩人。
美味しいごはんに、清潔な服。安らげる寝床。優しい言葉――彼女からは実母からもらえなかった愛情をたくさんもらった。
私は祖母のことが大好きだった。祖母との生活は信じられないくらい幸せだった。
そうやって幸せに暮らしていたはずなのに、私は徐々に不安に苛まれていった。
この幸せがいつまで続くのか。
祖母は本当に私を愛しているのか。ただの同情ではないのか。
実際、祖母にはすでに成人して独立している娘――
つまり、祖母にはちゃんと血のつながった娘と孫がいたのだ。
この事実は、当時の私をさらに不安にさせた。
祖母には血のつながった本当の家族がいるのに、私なんかが入り込む余地があるのか。不安でたまらなかった。
いつしか、私は祖母の愛情を確認したいと思うようになった。彼女をわざと困らせることをして、それでも私を嫌いにならないか確かめたかった。いわゆる、試し行動というやつだ。
だが結局、私は試し行動をしなかった。その理由は二つある。
一つは、試し行動をして里親から養護施設に出戻って来た子供を知っていたから。
もう一つは、単純に自信がなかったから。
悪い子になっても、祖母に愛してもらえる自信なんて私には持てなかった。
だから、私は誰よりも祖母に愛されたいという気持ちに蓋をして、良い子でいようと努めた。物分かりの良いふりをして、今ある幸せを守ろうとした。
けれども、本音を言えば、やはり祖母の一番になりたかった。そう、実の娘である千紘さんや、孫の玲央ちゃんよりも、私は祖母に愛して欲しかったのだ。
そういった気持ちは隠していても、ふとした瞬間に表面に出ていたのだろう。
【図々しい子ね】
鏡の中、小学校低学年くらいの私を見下ろすのは、千紘さんだった。
ああ、この光景――覚えている。
書道の先生である祖母は教室の方に行っていて、私は自宅でひとり留守番をしていた。そこに、幼い玲央ちゃんを抱きかかえた千紘さんがやって来たのだ。
【自分が一番になれるとでも思っているの?身の程を知りなさいよ。同情で世話してもらっている厄介者のくせに】
千紘さんの言葉に、私は何も言い返すことができなかった。だって、その通りだと思ったからだ。
実の子を差し置いて、貰い子の私が一番になろうとするなんて図々しい話である。
ちゃんと諦めなければいけない。私はそう、自分を戒めつつ成長した。
しかし、祖母の一番になりたいという思いは、ずっと胸の内で燻り続けていた。
それがとうとう、表に出てしまったのが十一歳の時だ。
私は市主催の小学生書道コンクールで入賞したのである。入賞者は、後日表彰式で賞状と記念品を贈られることになっていた。表彰式には、保護者の出席も可能だった。
喜び勇んで、私は表彰式の日時を祖母に伝えようとし、ハッとする。その日は玲央ちゃんの四歳の誕生日だったからだ。
祖母と千紘さんは、毎年玲央ちゃんの誕生日当日にお祝いをしているのだ。誕生日パーティーは必ず日中に行われていた。夜は夜で、千紘さんとその旦那さん、そして玲央ちゃんの三人家族で誕生日を祝うからである。
つまり、祖母は表彰式か玲央ちゃんの誕生日か、どちらかを選ばなければならなかった。
もちろん、私は祖母に表彰式に来て欲しかった。けれども、それを口に出すのは
目の前で断られるのが怖かったのだ。もし断れれば、玲央ちゃんと私のどちらが大切か、はっきりさせられる気がしたから。
祖母に直接表彰式のことを言う勇気がなかった私は、その案内のプリントを居間の食卓に置いておいた。いつの間にか、プリントはなくなっていて、祖母が回収したのだろうと知れた。
祖母は表彰式について何も言わなかったため、彼女がどうするつもりか私にはわからなかった。
私と玲央ちゃん、どちらを選ぶのだろう――不安と期待でいっぱいのまま、私は表彰式当日を迎えた。
そして……。
鏡の中に映し出される景色が、また変化する。
本当に、嫌なところばかり見せるな――と私は苦笑した。
表彰式の会場からの帰り道――賞状と記念品を手に、独り歩く私の姿が鏡に映っていた。
この件をきっかけに、私はようやく本当の意味で諦めることができた。
他人への愛情を期待しない、愛されなくても仕方ない、誰かの一番なんて目指さない。
同情も愛情のうち――そう割り切るのは寂しかったけれど、勝手に期待した後、落胆するよりもずっと楽だった。
そういう風に生きている内に、私は他人に勝ちたいという対抗意識や、他の人を打ち負かしてまで何かを手に入れたいという執着が希薄になっていった。
それは自分でも問題だと思う。
けれども、おかげで他人のことを気にせず、図太く生きてこられた。色々と諦めることで、ようやく心の平穏を手に入れた――それも、また事実だった。
【ごめんなさい】
不意に、女性の声がした。
頭の中に直接響いてくる不思議な声――その正体が今ならわかる。これは過去を映す不思議な鏡の声だ。鏡が私に話しかけているのである。
【貴女が別の世界から来た魂の人間だったから、つい珍しくて。興味本位に過去を覗き見してしまったの】
「あなたは鏡の
【ええ、そうよ。私は付喪神。今はヒサメ様の式神よ】
「そうなんだ。ねぇ、私のこと、皆には……」
【言わないわ。言わないから、安心して。だから――】
「えっ?」
【そんなに泣かないで】
私はハッとして、鏡を見る。
そこにはもう、朝倉詩子だった前世の私の姿はない。
その代わりに――とめどなく涙を流す今の
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