第122話 温泉(参)

 のぼせそうだと言って、おコマさんと小鈴ちゃんが湯から上がった後も、私は露天風呂を楽しんでいた。誰もいなくなったお風呂を独り占めである。

 元から、長湯をするのが好きなのだ。桜の絶景に、温泉なんて贅沢は滅多に味わえない。だから、今日は心行くまで露天風呂を楽しむつもりだった。


「と言っても、さすがに少し熱いな。ちょっと涼もう」


 そう言って、湯船から立ち上がったとき、こちらに人がやって来る気配がした。天狗の里の誰かがやって来たのだろうと、私は気にも留めなかった。しかし……。


「えっ…」

「は?」


 現れたのがヒサメだったため、私は目が点になった。

 向こうも向こうで、驚愕の表情のまま固まっている。


 ヒサメは腰に手拭いを一枚巻き付けただけの格好だった。

 対して私はというと……うん、丸裸である。それを自覚して、私は慌てて湯船に浸かって身体を隠した――その瞬間、


「うわあああああっ!?」


 絶叫が露天風呂に響き渡った。




「もう、あなたたち!なんてことしたの!?」


 小鈴ちゃんは顔を真っ赤にして、天狗の里の子供たちに怒っていた。そこにはコンの姿も含まれている。


 あの後、ヒサメの叫び声を聞きつけて、露天風呂にわらわら人が集まった。先に帰ったはずのおコマさんと小鈴ちゃんも引き返してきた。

 混乱の中、皆で状況を整理すると、なぜヒサメが女風呂に入って来たのか――そのあたりの事情も明らかになった。


 なんでも、露天風呂の入り口の暖簾が男と女で逆になっていたらしい。

 そして原因は、今まさに小鈴ちゃんに怒られている子供たちにあったようだ。


 彼らは遊びの最中、暖簾を落としてしまったらしいのだが、それを掛け直すときに本来の場所とあべこべにしてしまったのだ。そこへ運悪く、ヒサメがやって来てしまった。

 天狗の里の人たちなら、暖簾が掛け間違えられていると、すぐに気付いただろう。しかし、今日初めてこの露天風呂を訪れたヒサメは、暖簾が入れ替わっていることなど知るはずもない。それでそのまま、「男」の文字が掛かっている暖簾をくぐり、女湯に入ってしまった――ということだった。


 一瞬、真正面から覗き見かと思ったけれど、ヒサメがそんなことをするはずもないよね。事情を知って、私はそう胸を撫でおろした。

 それから、私のために子供たちを怒ってくれている小鈴ちゃんへ目を向ける。


「小鈴ちゃん、もういいよ。子供たちに悪気があったわけじゃないし。私は別に気にしていないから」

「いや、気にしろよ」


 そう答えたのは、小鈴ちゃんではない。ヒサメだ。

 彼は眉間に皺を寄せて、私に詰め寄って来た。


「年頃の娘が裸体を見られて、なに平然としているんだ?お前はっ!?」

「えっ」


 どうして私が怒られなければならないのだろうか。私は目をぱちくりさせる。


「だって、お互い事故のようなものですし」

「いや、それでもだなぁ」

「それに裸なんて今さらというか…」

「……はぁ?」


 ヒサメの声がぐっと低いものに変わる。彼は私の肩をがしりと掴んだ。


「それ、どういう意味だ?」

「どうもこうも、銭湯に行けば裸なんて……あっ」


 そこでやっと、私はある可能性に思い至った。ヒサメは大和宮の銭湯事情を知らないのだ。


 四条の屋敷には家風呂があるが、個人でお風呂を所有している家なんてほんの一握りである。水代や薪代でコストがかかるし、火事を懸念して朝廷の方から厳しい規制もかかっていた。だから、庶民はもっぱら銭湯を利用する。


 その銭湯だが、色々と前世の現代日本と事情が異なっていたのだ。


「ヒサメ様。大和宮の銭湯の大多数は混浴ですよ」

「な…なんだと?」


 ヒサメはポカンと大口を開ける。彼は銭湯を使わない環境で育ってきたのだろう。やはり、都の銭湯事情について知らなかった。


 私も驚いたのだが、本当に大和宮の銭湯は混浴だ。一応、男はふんどし、女は湯巻ゆまきを腰に巻いて入浴するのだが、上半身は裸である。しかも、そういった下着すらもつけず、全裸で入浴する者も少なからずいた。


 まぁ、そういう場所だとやはり風紀的によろしくないことが起こるもので、朝廷からは男風呂と女風呂を分けるよう銭湯に指導が入っているようだ。

 だが、現実的にはほとんど改善されていない。それは混浴の方が良いという客層が多いからに他ならなかった。


「混浴って…お前、そんな所にいっていたのか?」

「はい」


 信じられないという顔をヒサメはするが、以前私とコンが暮らしていた長屋には風呂なんてなかったのだから仕方ない。家で水浴びをして済ませることもあったが、寒い時期は辛い。だから、人の少ない時刻を狙って私は銭湯を利用していた。


「もう二度とそんな所に行くな」


 ヒサメは真顔で言う。その様子に気圧されながら、私は「もちろん」と頷いた。


「今は四条の御屋敷のお風呂に入らせていただいてますし、好き好んで行きませんよ」


 私だって誰かに裸を見られたいわけじゃないから、銭湯よりも四条の屋敷のお風呂の方が快適だ。わざわざ銭湯に行く理由はない。



「なんてことだ…」


 ヒサメがショックを受けたように、何やらブツブツ呟いている。

 銭湯が混浴なのが、そんなに問題なのだろうか?ヒサメ自身は使わないのに?

 私は彼の気持ちがよく分からなかった。


 そんな、よく分からないヒサメだが、私が彼の裸を見てしまったことに対して、何か言ってくる様子はなかった。正直なところ、そちらの方に文句を言われるかと構えていたから、予想外である。


 ヒサメの裸と言えば、一つ気になることを私は思い出した。


 温泉の湯気でよく見えなかったが、ヒサメは左の鎖骨の下あたりにがあったのだ。それは彼が家紋に使っている例の複雑な六角形の紋様に似ている気がした。以前、ヒサメはその模様を己に与えられたと言っていたが……。


 きっと、何か事情があるのだろうな――と私はぼんやり思う。その事情が何なのか、私は妙に気になった。



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