第116話 御膳試合(壱)

 一之助かずのすけさんが行ってしまうと、ヒサメは貼り付けた笑みを引っ込めて、冷ややかに私を見下ろした。


「お前、少し危機感を持ったらどうだ?」

「き、危機感?」


 何に対しての危機感なのか?私が困惑していると、ヒサメの眉間にぎゅっとしわが寄った。


「年頃の娘が簡単に知らん男についていくなっ!」

「えっ…でも、一之助かずのすけさんは左助さすけさんと右助ゆうすけさんの兄だって…」

「左助と右助から直接紹介を受けたのか?違うだろう。お前が一人いるところに、あの一之助という男が声を掛けたのなら、双子の兄というのも自称だろうが」

「あっ、たしかに」


 この時やっと、一之助さんが双子たちの兄ではない可能性に私は気付く。小鈴ちゃんや、双子たちから一之助さんを紹介されたわけではない。彼が嘘を言っていた可能性も存在するのだ。


「しっかりしてくれ」


 ヒサメは額に手を当てて、やれやれとため息を吐いた。


「すみません。でも、一之助さんは嘘を吐いているようには……いえ、何でもありません」


 ギロリとヒサメに睨まれて、私は押し黙る。これ以上の言い訳はヒサメの機嫌をさらに損ねるだけのようだ。

 場の空気が悪くなってしまって、どうしようかと戸惑っていると、「まぁまぁ」とおコマさんが私とヒサメの間に割って入ってくれた。


「せっかく山毛欅ヶ岳ブナガタケまで来たんですから、観光に行きましょう?」


 彼女は朗らかな笑顔で言う。


「ほら、あちらの方とか屋台がたくさん出ているみたいですよ。ね?行きましょう」


 おコマさんが指しているのは隣の山の少し平たい場所で、此処から普通に歩けばかなり時間がかかりそうだった。

 そう、それこそ。天狗のような翼がなければ、行くのに一苦労である。


 そう思っていると、一陣の風が舞い、おコマさんの背中に翼が生えた。彼女の着物と同じ橙色の羽根である。そう言えば、おコマさんは駒鳥こまどりアヤカシであったことを私は思い出した。


「ヒサメ坊ちゃん、ハルちゃんをきちんと連れてきてくださいね。さぁ、ロウちゃん。私たちは先に行きましょう」

「あっ…ああ」


 戸惑っているロウさんを促すと、おコマさんが軽やかに地面を蹴る。そのまま、まるで天使のような優雅さで、彼女は空に飛び立った。それにロウさんが続く。

 ロウさんは飛ぶこと自体はできないようだが、持ち前の卓越した脚力で跳躍し、切り立った崖だろうとスイスイ移動していた。


 小さくなっていく二人を見送って、私はハッとする。

 私は取り残され、ヒサメと二人きりなのだ。


「えっと…ヒサメ様。私、あんな風に飛んだり跳ねたりできません。どうすればいいでしょうか…?」

「……ほら」


 ヒサメは仏頂面のまま、片手を私の方へ出す――が、私はその意味がよく分かっていなかった。

 何かを差し出せという意味か。しかし、渡すものなんてない。

 そんな風に私が困っていると、ヒサメは深々とため息を吐き、こう言った。


「手」

「て?」

「手を出せと言っているんだ」

「あ、はい」


 言われるままに手を出すと、ヒサメは私の手をむんずと掴んだ。

 ヒサメの懐から、はらりと一枚の呪符が飛び出てくる。あれはたぶん、『風の呪符』かな?それに向かって、ヒサメがしゅを唱える――と?


「わっ」


 ふわりと身体が浮く感じ。浮遊感にびっくりして、私は声を上げた。

 実際に、地面から足が離れている様子を見て、さらに驚く。私は本当に浮いているのだ。


「飛んでる…飛んでるっ!」


 どんどん地面から遠ざかっていく。私が慌てていると、


「手を放すなよ」


 ヒサメが言った。


「俺の手を放したら最期、真っ逆さまに落ちて、地面にたたきつけられることになるぞ」

「っ!!」


 私がヒサメの手を強く握ったのは、言うまでもない。

 そうこうしているうちに、私とヒサメは空高く舞い上がった。

 まるで、鳥になった気分だ。まさか、飛べる日がくるなんて!こんなの、飛行機に乗ったって味わえっこない!!


 遥か下に山毛欅ヶ岳ブナガタケの桜の絨毯を見下ろしながら、私は言った。


「すごい!本当に飛んでる!これも符術なのですか?」

「……ああ。風の呪符を使った。呪符はお前が作製したものだ」

「へぇ。ヒサメ様なら、アレを使って空まで飛べるんですね」


 すごい、すごい――そう、繰り返しながら、私は眼下の景色に夢中になる。飛行スピードはそれほど速くないので、存分に山毛欅ヶ岳ブナガタケの絶景を堪能できた。

 子供っぽいかもしれないが、空を飛ぶなんていう非日常にどうしてもはしゃいでしまう。私があちこち忙しく目を動かしていると、ヒサメが尋ねた。


「怖くないのか?」

「……へ?」

「もっと怯えるかと思っていた。こんな高い所、初めてだろう?恐怖を感じたりしないのか?」


 ヒサメの問いかけに、私は「問題ありません」と首を振る。


「高い所は平気なんです」

「ふぅん」


 ヒサメは感心したような、少しがっかりしているような――微妙な顔で相槌を打つ。


「個人的に高い所よりも、海とか川とかの方が好きではありません」

「お前、泳げないのか?」

「ええ、全く」


 前世でも現世でも、私は金槌だ。

 前世の子供時代に溺れてしまって以来、水泳は大の苦手である。だから、神白子村という清流が流れるような場所で育っても、川遊びは避け続けていた。


「よし。なら、次は海に行くか」

「どうしてですか!?」


 思わず、突っ込みを入れると、ヒサメはクックックッ――と喉を鳴らして笑った。


「冗談だ。冗談」


 性質たちの悪い冗談だ。しかも、ヒサメンが言うから、冗談に聞こえない。

 私が憮然としていると、ヒサメは繋いでいない方の手で地上を指さした。


「ほら。もうじき、着くぞ」


 私たちのずっと下に屋台があり――手を振っているおコマさんとロウさんがいる。

 私とヒサメはそこへ降り立った。



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