第112話 昔話(弐)

「児童養護施設……じゃない。ええっ…と、この国にはさ、親を失った孤児を引き取ってくれるお寺や神社があるでしょう?」

「うん」

「そこにさ、一人の女の子が預けられたんだ」


 女の子は片親だった。父親はいない。彼女の母親が一人で産み育てていた。

 けれども、その母親にとって女の子はただの足かせだった。


「たまに殴られることはあっても、生死にかかわるような暴力はふるわれなかった。ただ、母親は女の子に無関心だったんだ。子供がお腹を空かせても、病気になっても、どれだけ汚らしい格好をしていても、気にも留めない」

「わ…っ、分かる」


 コクコクと一太郎は頷いた。


「気付けば、女の子の母親は家に帰ってこなくなっていた。そのことに周囲の大人が気付いて、その子は保護されたの。さっき話した孤児の集まる場所に預けられた。そこで半年ほど過ごしたとき、引き取ってくれる人が現れたんだ。女の子の遠い親戚だった」

「半年って長いね。オイラのときは、おっかあが死んで、すぐに今の家に行った」

「そうなんだ」

「…うん。それで、その親戚はどんな人だったんだい?」

「その人は五十代の女性だった」

「ふぅん、ばあちゃんだったんだ」


 遠慮ない一太郎の物言いに私は苦笑した。五十代の女性を「おばあちゃん」と言っては、現代日本だったらクレームものだろう。


 しかし、確かにその親戚と女の子の間柄は「母親」よりも「祖母」に近かった。くだんの少女は、親戚の女性の亡くなった夫の姉の孫に当たったのだ。実際、対外的に親戚の女性は少女の祖母として振舞っていた。


「そのおばあさんに引き取られて、女の子はとても幸せだった。美味しいごはんに、清潔な服。優しい言葉。きちんと自分を見てくれ、愛してくれる存在ができて彼女は嬉しかった」

「うん…」


 一太郎は静かにうなずいた。おそらく彼は頭の中で、おみつさんのことを考えているのだろう。


「でも、あるとき。女の子は不安になったんだ」

「不安?」

「おばあさんは本当に自分のことを愛しているのか。ただの同情じゃないのか。そう不安に思って、おばあさんの愛情を確認したいと思うようになった」

「それで?」

「おばあさんはどれくらい自分を愛してくれるのか、それを知りたくなった女の子は、わざとおばあさんを困らせるような行動をとろうと思い付いたんだ。おばあさんを困らせても、おばあさんは自分のことを嫌いにならない。ちゃんと、愛されている――そういう確信が欲しかったんだろうね」

「……」


 少女がしようとしたことは、いわゆる「試し行動」というやつだ。わざと周囲の大人たちを困らせることをやって、その反応を伺い、試すのである。

 子供が試し行動をする理由は様々だが、「愛情を確認したい」という心理に起因するものもあるらしい。


 「試し行動」について身に覚えのある一太郎は、しばらく押し黙った。ぎゅっと眉間に皺をよせて難しい顔をしている。

 ややあって、彼は恐る恐る訊いてきた。


「その女の子は、おばあさんを困らせの?」


 私はかぶりを振った。


「困らせようとして、思いとどまったんだよ」

「どうして?」

「女の子はね、思い出したんだ。彼女が孤児の集まる施設に預けられていたとき、里子に出された子供が戻ってきてしまったことをね」

「もしかして…その戻った子っていうのは……?」

「うん。その子は男の子だったんだけれど、わざと困らせることばかりをしたせいで、里親が精神的に参ってしまったみたい。結局、里親がその男の子を拒否して、施設に戻ったんだ」

「そんな…」


 一太郎にとってはショッキングな話だったようで、彼は呆然とする。

 けれども、話はこれで終わりではない。


「後日、男の子に新たな里親候補が現れたんだけれど……そのとき、過去に男の子が里親にやった嫌がらせが知られてしまってね。そんな問題のある子どもはいらないと、候補の人が言って、里親の話はなくなってしまったんだよ」

「……その子供は、もう誰にも引き取られなかったの?」

「それは分からない。その子よりも先に、くだんの女の子の方が施設を出てしまったからね」

「……」

「そういう出来事を思い出して、女の子は怖くなったんだ。だから、おばあさんを困らせることはしなかった。そんなことをして、今の幸せな生活を手放したくなかったんだよ」

「その女の子の気持ち、オイラには分かる……でも、でもっ!不安じゃなかったのかな?」

「そりゃ、不安だっただろうね」


 私は一太郎の言葉に同意した。

 自分が愛されているのか、いないのか――不安に決まっている。

 少女は祖母に一番に愛されたい、同情じゃない本物の愛情が欲しい――そう強く望んでいただろう。

 しかし……、


「結局、女の子はんだよね」

「あきらめた?」

「そう。おばあさんに誰よりも愛されたい、おばあさんの愛情を勝ち取りたい……そういった気持ちに蓋をしてしまったんだよ。もし期待して、それが叶わなかったときが怖いから、諦めたんだ」

「……オイラにも諦めろって言うの?」


 一太郎の顔が大泣きする一歩手前みたいに、ぐにゃりと歪んだ。

 そうじゃない、と私は否定する。


「女の子が正しいと言っているわけじゃないよ。君と女の子は別の人間だから、同じようにする必要もない」



 そう、私は少女の選択を全て肯定しているわけじゃなかった。

 彼女は祖母への愛情を諦めることで、平穏な毎日を手に入れることができた。

 けれどもその代わりに、他人からの愛情を期待しなくなった。自分が誰かの一番になれるわけがない――そんな価値観が少女に生まれていた。


 好かれなくても仕方ないと割り切っているから、他人に嫌われても気にしない。

 一番になることをすでに諦めているから、他人に勝ちたいという気持ちも生まれない。他人を打ち負かしてまで、何かを手に入れたいという執着もない。


 そんな風に人格形成されたため、少女は大体どんな環境でも他人を気にせず、図太く生きてこれた。

 けれども――だからと言って、それが最良だと私は思ってない。

 同時に、一太郎にそうなって欲しいとも思えない。

 

 だから、私は一太郎にこう言った。 



「一太郎くんは諦めなくてもいい」

「ほんと?」

「うん。でもね」


 私は一太郎の眼をジッと覗き込む。


「他の人を傷つけて良い理由にはならないんだよ」

「それてのこと……?」

「そう。おみつさんが君の言動に傷ついていたことは、理解できるでしょう?」

「うん……母さん、オイラがひどいこと言うと悲しそうにしてた」

「大人だから傷つかないわけじゃないし、子供だからと言って大人を傷つけて良いわけじゃないんだ」


 言いながら、私はこの言葉が一太郎に届くよう願った。


 これまでの一太郎の酷い言動に傷つき、おみつさんは精神的にもう限界なのだ。一太郎が迷子になるのを止めないくらいには…。

 こういう試し行動をする子供に対して、それを否定するのではなく、子供の気持ちを受け止めた上で善悪を諭すのが良いとされているらしいが、皆がそれをできるほど精神的余裕があるとは思えない。


 今回、一太郎がおみつさん夫婦のところに帰ることができたとしても、彼が自分の態度と行いを改めなければ、早々に同じことが起こるだろう。今度こそ、一太郎はおみつさんたちの元を離れなければならないかもしれない。

 本当は、おみつさんのことが大好きな一太郎だから、それでは悲しすぎる。


 しばらく一太郎は、私の言葉を吟味するように考え込んでいた。

 やがて、彼は口を開く。


「オイラ…甘えてたんだ。どこかで母さんはおっかあと違って優しいから、許してくれるだろうって思ってた」

「そう思う気持ちは分かるよ。でも、やっぱり誰かを傷つけちゃいけない」

「うん、そうだね。オイラ、帰ったら…これまでのこと、母さんに謝るよ。許してくれるかな?まだ、間に合うかな?」

「きっと、大丈夫だよ」


 迷子の一太郎を探し回るおみつさんは、とても必死な様子だった。

 そこには一太郎に対する罪悪感の他に、激しい後悔の念と彼への愛情があったと思う。


「オイラ、帰るよ。母さんと父さんのところまで、送って行ってくれる?」

「もちろん」

「あと、一つ聞きたいことがあるんだけれど…」

「なに?」

「そのの話って、姉ちゃん自身のこと?」

「……さぁ、どうだろうね」



 聡い子だな……そう思いつつ、私は軽く肩をすくめてみせた。


 その後、私たちが神社の入り口まで戻ると、鳥居の前でおみつさん夫婦と再会することができた。

 私たちと一緒にいる一太郎を見て、おみつさんは涙にぬれた顔を、さらにぐしゃぐしゃに歪めた。そして、声にはならない声で泣き、一太郎を抱きしめる。一太郎も涙を流して、おみつさんに抱擁を返していた。


 その様子を見ながら、私は祈らずにはいられなかった。

 どうかこの先、一太郎とおみつさん親子が幸せでいられますように――と。



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