第110話 柳(弐)
一太郎はハッとした様子で、ヒサメを見上げた。
「誰だよ、オッサン」
険のある目で、そう尋ねる。
一方のヒサメは、一太郎の質問には答えず、ただおみつさんを見ていた。
「聞こえなかったか?ガキから離れろと言っているんだ」
おみつさんは怯えた目をする。その彼女を庇うように、一太郎が声を上げた。
「オッサン!母さんをいじめるなっ!」
「――チッ」
ヒサメは舌打ちを一つすると、忌々しそうに一太郎を見下ろす。
「それのどこがお前の母親だ?」
「何を言って……母さんは、母さんだろう!」
「ほぉ」
ヒサメは口角を上げると、懐から一枚の呪符を取り出した。口の中で
「母さん!」
一太郎が悲鳴を上げた。
だが、氷の礫がおみつさんにぶつかろうとしたとき、背後の柳の枝が生き物のようにヌッと伸びてきて、盾の代わりになり彼女を守った。氷の礫と衝突した柳の枝は、その部分が凍り付く。
ヒサメの言動と、どう見ても普通の植物ではない柳の木の動きに、私はようやく理解した。あのおみつさんは偽者――
おみつさんは先ほどまでの怯えた様子からは一転し、憎々し気にヒサメを睨んだ。すると、その容姿まで変わっていく。
若く可愛らしかった顔に幾つも皺が刻まれ、あっと言う間に醜い老婆の姿になった。
「ひっ…ば、バケモノ!」
一太郎は短く悲鳴を上げ、その場で尻もちをつく。彼もやっと、隣にいた自分の養母が偽者だと気付いたようだ。
おみつさんの偽者だった老婆は、シャアッと大きく口を開けると、吠えながらヒサメに向かって突進してきた。それと共に、背後の柳の枝も、その先端を針のように鋭くさせて襲い掛かって来る。
ヒサメは人間とは思えない機敏さで、それらの攻撃を易々と避けた。それどころか、逃げるだけではなく、さらなる攻撃にも転じる。
彼の周囲に、無数の氷の
楔型の氷に皮膚を裂かれ、老婆が悲鳴を上げる。柳の木も枝から幹へと、どんどん凍っていった。
ヒサメが敵と交戦している間に、ロウさんが一太郎の元までやって来ていた。彼は軽々と一太郎を担ぎ上げると、安全な場所まで避難させる。
それを見届け、ホッとしてから、私はもう一度視線をヒサメの方に戻した。
ヒサメと老婆たちの戦いは、すでに終わろうとしていた。ヒサメの前で老婆は地に倒れ、柳の木は完全に凍り付いてしまっている。
そのとき、凍った木がピキリと音を立てた。
ピキピキピキッ――音はどんどん大きくなり、凍結した柳の木に無数の亀裂が入っていく。
「終わりだな」
ヒサメがそう言った途端、柳の木が木っ端微塵に砕け散った。
同時に、老婆も断末魔を上げて崩れていき、最後には黒い塵となって辺りに霧散したのだった。
*
一太郎を保護し、私たちは森の外へと向かった。
歩きながら、ヒサメは先ほどの
「人間を捕食するか種類の
ヒサメが言うには、あの柳の
「そもそも、一太郎くんはどうしてこんな森の中にやって来たの?」
私はまだ放心気味の一太郎に尋ねた。
なにせ、
それに、一太郎はぽつり、ぽつりと答えた。
「祭りで母さんと父さんとはぐれて……しばらくしたとき、声が聞こえたんだ。母さんの声だった。行かなきゃ……って思って。それで、森の中に入ったんだ」
「なるほど。母親の声で
だから、森の中から母親の声がしても、その状況を不思議と思わず、従ったのだろう――とヒサメは言う。
「まさか、休暇中にこんな面倒に巻き込まれるとはな。いや……柳の
ブツブツと独り文句を呟くヒサメ。
しかし、彼の活躍のおかげで一太郎は助かったし、これ以上の被害者が生まれることもない。
――何だかんだ言いつつ、ちゃんと検非違使の仕事はするんだよなぁ。
私は自分がヒサメに仕えていることを、少し誇らしく思った。
それから私たちはしばらく歩き、やっと天津神社の境内へと戻って来た。私はホッと息を吐く。
「おみつさんたちは神社の入り口の方にいましたから、とりあえずそこまで行きましょうか」
もし、そこで会えなくとも、大和宮へ帰った後、豆腐屋のお
頭の中でこれからの予定を算段していたとき、おもむろに一太郎が口を開いた。
「オイラ、帰らない」
「えっ!?」
急にそんなことを言い出した一太郎に、私は目を丸くする。
「はぁ?」とヒサメも不機嫌な声を出した。
「冗談じゃない。これ以上、面倒をかけさせるな」
「イヤだ!帰らないっ!!」
「帰れ」
「イヤだ、イヤだ、イヤだっ!!」
駄々っ子のようにわめく一太郎を、じろりとヒサメが見下ろす。
「……ぶつぞ」
脅しのつもりか、ヒサメが腕を振り上げると、一太郎は身をすくませた。
しかし、それでも……
「帰らないっ!」
一太郎が言い張る。
「いったい、どうしたの?お母さんもお父さんも心配しているよ」
私がそう話しかけると、一太郎はキッとこちらを睨み上げる。
「アイツは心配なんかしていないっ!」
「そんなことは…」
「だって、わざとだもん!」
「えっ」
「アイツ――母さんは、わざとオイラが迷子になるようにしたんだっ!!」
衝撃の一太郎の告白に、場の空気が凍り付いた。
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