第107話 迷子(弐)

 ヒサメに「怪我はないか?」と聞かれ、私はかぶりを振る。

 彼は左腕で私の背をしっかり抱きとめてくれ、おかげで、踏み台から落ちても別段怪我はなかった。


 はぁ……とヒサメは溜息を吐くと、私に呆れた視線をよこした。


「足場の不安定な所でわざわざ姿勢を変えるなんて、お前は何を考えているんだ?」


 全くもってごもっとも。反論の余地はない。

 申し訳ございません、と小さな声で私は言う。


「お祭りに行けると分かったら、つい……」


 テンションが上がってしまった。

 もごもごと言い訳をすると、ヒサメは意外そうに目を見開いた。


「……そんなに嬉しかったのか?」


 これは「祭りごときではしゃぐとは…。まったく、見た目通りお子様だな」などの揶揄が飛んでくるだろう。

 そう思いつつ、本当のことなどで「はい」と私は素直に認める。


「……」

「……ヒサメ様?」


 だが、予想した嫌みは一つも飛んでこなかった。それどころか、ヒサメは何も言わない。

 何も言わないヒサメを不審に思い、彼の顔を覗き込むと……何だか、顔が赤いような……?


「むぐぅ」


 不意に私の顔面に何かが押しあてられた……って、これ。ヒサメの右手だ。ヒサメの手が私の顔面を覆っている。


「こちらを見るな」


 不機嫌そうなヒサメの声。

 どうにも、彼は私に見られたくないようで。この手は目隠し代わりということか。

 それにしても、いささか乱暴……というか、鼻も口も覆われてしまって息苦しい。


 それから、手を引き剥がそうとする私と、それに抵抗するヒサメ――という不毛な攻防がしばらく続いたのだった。



 ちょうど、桜の花が満開になった頃、私たちは天津祭あまつまつりにやって来た。

 天津神社あまつじんじゃの境内に至る道沿いには、屋台や出店がずらりと軒を連ねている。

 飴屋や団子屋、玩具屋の前では、子供たちが親におねだりしているのが見えた。


 賑やか、そしてすごい混雑だ。こんな所で連れとはぐれてしまえば悲惨である。見つけるのは至難の業だろう。私はしっかりコンの手を握った。


「離さないでね」

「うん!」


 コンもぎゅっと私の手を握り返してくる。

 そんな私たちの様子を微笑ましいとでもいうように、おコマさんは目を細め、隣を歩くヒサメに話しかけた。


「確かに。こんなところで迷子になってしまったら、大変だわ。ねぇ、ヒサメ坊ちゃん」

「……」

「坊ちゃん?」

「……ああ」


 この人混みに、ヒサメはすっかり辟易しているようだった。主の不機嫌を見て取って、おコマさんとロウさんは互いに顔を見合わせ、苦笑している。

 それでも、約束を守る気はあるようで、ヒサメは「帰る」とは言い出さなかった。


 テンション低めなヒサメに反して、コンはとても楽しそうだった。道の両脇に並ぶ屋台に目を奪われている。


「何か、欲しい物はある?」

「おだんご、食べたい!」


 神社の境内に入ったところで、コンが指さした。そちらに目を向ければ、なるほど茶屋がある。


「ヒサメ坊ちゃん。休憩がてら入りませんか」

「ああ、そうするか」


 おコマさんが提案すると、げんなりとした顔でヒサメは頷いた。

 私たちは茶屋で、お茶と串団子をそれぞれ注文する。団子を手に取って、コンは目を輝かせた。


「おいしいね!」


 満面の笑みでコンは言う。

 あぶった団子に、とろみのある醤油だれをくぐらせた串団子は素朴だけれども、美味しい。きっと、祭りという非日常の雰囲気が、団子の味をよりいっそう美味しくしているのだろう。


 そして、そんな楽しい空気に水を差す男が一人……


「はしゃぐ程、美味うまいか?」


 心底不思議そうな顔で、ヒサメは首をかしげる。

 まぁ……彼の言いたいことも分かる。やはり、普通に買うよりも割高だし、値段の割に大したことがないという意見もあるだろう。


「えっー?ご主人さま、おいしいよ」

「そうか?これなら、ずっとハ……いや、何でもない」

「ん?」

「あっ、そこ。大道芸をやっているな」


 ヒサメは何かを言いかけて止め、境内の一角を指さす。

 確かに、そこには奇術師たちが路上ストリートパフォーマンスを行っていた。幻の小さな竜がゆうゆうと宙を泳ぎ、観客たちはそれを見て楽しんでいる。


「……そう言えば、お前たちもああいったことをしていたな」


 ヒサメの言う通り、私とコンは四条の屋敷に行く前、大道芸で生計を立てていた。あれは、去年の夏のことだったか。

 この一年弱、色々とありすぎて、何だか遠い過去のように思える。


「やはり、ヒサメ様はそのときにコンを見つけたのですか?」


 私が質問すると、ヒサメは「ああ、そうだ」とあっさり頷いた。


「偶然、外京を通りかかったときに、コンを見つけた。驚いたさ。一目見て、あの天狐の血縁だと分かった。妖力の性質が酷似していたからな」

「え…」


 私はハッとしてヒサメを見る。

 今の言い方だと、まるでヒサメは天狐――つまり、コンの母親に会ったことがあるように聞こえたからだ。


 異世界に行きたいヒサメと、異世界に渡る力を持つ天狐。

 もし、この二者が過去に会っていたと言うのなら、それはどういう意味を持つのだろうか?ヒサメは異世界に行きたいのか……その理由にも繋がるような気がした。


 そんなことを考えていたところ、女性の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。


「一太郎―!一太郎っ!!」


 必死に子供の名前を呼ぶ母親。彼女を目にして、私はその顔に見覚えがあることに気付く。

 いつだったか、豆腐屋の又六さんの店先で見た若い女性――おみつさんだった。



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