第106話 迷子(壱)
冬の寒さが和らぎ、
そろそろ桜が咲き始めるだろうという頃、豆腐屋の又六さんのところへ買い物に行くと、店先で誰かがもめているのが私の視界に入ってきた。
「うるせぇっ!ババアッ!!」
口汚く罵るのは、七、八歳ほどの少年だ。そして、その対象は目の前にいる女性である。
少年の母親だろうか、と私は首を
その女性はまだ二十歳そこそこでのようで、少年の母親にしては若すぎるとも思えたからだ。二人について歳の離れた姉弟と言われても、納得してしまうだろう。
威勢の良い少年に、若い女性はたじたじになっていた。少年にあまり強く言い返せないようで、少し泣きそうな顔になっている。
「ンなもん買ってもムダだって!アンタの作ったメシなんて、マズくて食えないんだからよぉっ!」
女性が母親なのか、姉なのかは不明だが、どちらにせよ少年の口の利き方はあんまりだ。さすがに叱った方が良いのではないか……と他人事ながら思うが、当の女性はオロオロしたままであった。
「ちょいと、いい加減におしっ!」
そんな二人を見るに見かねて、豆腐屋の女将のお
「母親に向かって、なんて言いようだい!?」
お
しばらく呆然としていた女性だったが、ハッと我に返ると、お芳さんに謝った。
「すみません。店先で騒がしくしてしまって」
「それは良いけれど…おみっちゃん、アンタねぇ。一太郎のこと、もう少しきちんと叱った方が良いよ。母親だろう?」
どうやら、逃げた子供が一太郎、女性がみつという名前らしい。そして、おみつさんは一太郎の母親ということだ。
「わ、私なりに一生懸命叱っているつもりなんですが…」
「言い方が優しすぎるんだよ。子供を叱るとき――特に男の子には、もっとこう…」
ほろり――おみつさんの目から大粒の涙がこぼれた。
一度涙が出てしまうと、止まらなくなったようで、次から次へ涙が流れる。まるでダムが決壊したように大泣きするおみつさんに、お芳さんは慌てた。
「ごめん、ごめんっ!ちょっと、きつく言いすぎたねっ!」
中々、おみつさんの涙は止まらない。
それから、お芳さんがおみつさんを
「はぁ~、やれやれだよ」
ようやく、落ち着いたおみつさんが店を後にしたとき、疲れ果てたようにお芳さんは息を吐いた。
「お疲れ様です」
「本当に。ああも、泣かれるとはねぇ。ごめんね、ハルちゃんの相手ができなくて。うちの人も今、店を出ていてさ。店番は私しかいないから」
そう。豆腐と油揚げを買いに来た私だったが、お芳さんがおみつさんにかかりきりになっていて、又六さんが不在のため、今の今まで買い物ができなかったのだ。
「あの方、かなり参っていたようですね」
「ああ。おみっちゃんね。うん、悩むのは分かるよ。親子といえど、血がつながってないと色々難しいって」
「血がつながっていない……つまり、あの男の子は養子なんですか?」
「そうなんだよ。たしか、おみっちゃんの旦那のお姉さんの子だったかな?お姉さんには一人で一太郎を産んで育てていたらしいんだけれど、亡くなってしまって。それで弟夫婦であるおみっちゃんたちが、あの子を引き取ったんだよ」
瑞穂の国には、児童養護施設はない。それに近しいことをお寺や神社でやっているが、親戚がいる場合はそちらに引き取られるのが一般的だった。
「一太郎も引き取られた当初は良い子で、おみっちゃんと上手くやっているように見えたんだけれどねぇ。いつの間にか、酷い態度をとるようになってしまって。早いけれど、反抗期かね?」
「……それはどうでしょう」
「しかし、おみっちゃんは心配だね。まだ、若いし。元々、気の弱い子だったしねぇ。これから、どうなることやら…」
憂鬱そうに、また溜息を吐くお
私も何となく気になって、あの一太郎という少年が走って行った方向をジッと見てしまった。
*
その日の家事を一通り済ませた後、私はヒサメの部屋で異世界についての書物を読んでいた。
何冊か目を通して分かったのは、文献によって扱う『異世界』は様々だということだ。
そういったものの中で、私が興味を持ったのは『瑞穂の国と似て非なる場所』と記された文献だ。
著者は山道を迷い、気が付けば山の
不思議に思いつつ、著者は村に入った。そこで、彼がまず目にして驚いたのは、牛や馬などが引いてもいないのに、ひとりでに動く乗り物だ。ソレは人を乗せ、著者の目の前をもの凄い速さで走って行った――と書いてあった。
これを読んで、私は考えた。
――ひとりでに動く乗り物……って、自動車のこと?
その他にも、その村は色々と奇妙だった。
村人は見たこともない着物を着て、変な格好をしていた。家屋も見慣れたものの他に、石でできた四角い妙な建物が混じっていた。道沿いには高い石の棒が点々と並んでいて、よくよく見れば棒と棒は紐のようなもので繋がれていた。
ただ、人々の顔つきや言語は、瑞穂の国とそれほど変わらなかった。
――洋服に、コンクリートでできた建物。あとは、電柱ってところかな……。
著者は狸か狐に化かされているのかと思い、怖くなって来た道を引き返した。山道をひたすら歩くと、やっと地図にある街道に出ることができた。
……というように、その文献には書かれてあった。
この著者の書いた『瑞穂の国と似て非なる場所』とは、やはり私が前世で生きた日本なのだろうか?その可能性は十分ありそうな気がする。
私は前世の世界との繋がりを探るため、他の書物を探した。
今日は踏み台を用意してきたため、書架の高い部分にある冊子にも手が届きそうだ。私は踏み台に上り、その上でペラペラとページをめくる。
そのとき…
「そろそろ、
急にヒサメが声を掛けてきて、私は驚いた。
「あ、はい。そうですね」
「お前は行ったことがあるか?」
「いいえ。残念ながら、ありません。去年の今頃は、都での生活を安定させるのに必死でしたから」
「ふん、なら皆で行くか?」
「……へ?」
急に何を言われたのか分からなくて、私は目を瞬かせた。
「行くって、お祭りにですか?」
「それ以外の何がある?」
まさか、ヒサメからそんな提案をしてくるとは想定外で、私は踏み台に立ったまま、顔だけ後ろを振り返り、まじまじと彼を見る。すると、彼は眉間に皺を寄せた。
「コンの社会勉強になるかと思っただけだ。別に、行きたくなければ行かなくてもいい」
「いいえ!行きたいです!」
私は慌てて言う。
「お祭りなんて久しぶり。ぜひ、皆で行きたいです!もうすぐ、桜も満開になりますし。天津神社には、たくさんの桜の木が植えられているのでしょう?それも見てみたいです!」
神白子村にも収穫祭などはあったが、継母や異母姉の目もあって、好き勝手はできなかった。でも今なら、ヒサメがくれるお給金のおかげで懐も温かいし、お祭りの屋台を楽しむこともできるだろう。
それを考えると、自然と私はワクワクした。
「行きたいです、天津祭!」
すっかりテンションが上がってしまい、私は踏み台の上で体を回転させ、ヒサメとちゃんと向き合おうとする。
――が、それがいけなかった。
グラリ――と踏み台が揺れ、私は足を踏み外した。背中から後ろへ倒れこむ。
「あっ…」
マズイ。
そう思うも、受け身の取れるような体勢ではない。私は次にやってくるだろう痛みに、思わず目をつむった。
しかし……。
「あれ……痛くない?」
後ろ向きのまま床に倒れこんでしまったと言うのに、身体はどこも痛くない。
不思議に思い辺りを確認し、ようやく私は状況を理解する。
踏み台から落ちた私を、ヒサメが抱き留めていたのだった。
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