第101話 鏡(参)

「ヒサメ坊ちゃん、お帰りなさいませ」

「主、お疲れ様でした」


 氷雨ヒサメが四条の屋敷に返ると、式神のコマロウが彼を迎えた。


「ああ、疲れた。コマ、何か食べるものは……ん?」


 ヒサメが荷物をコマに預けていると、彼は台所の方から美味しそうな匂いがしてくるのに気付いた。

 夕飯の残り香……というわけでもない。かつお出汁の良い香りがただよってくる。今まさに調理している様子だ。

 一体誰が……とヒサメは思うが、この屋敷に料理のできる人間なんて一人しかいない。


ハルのヤツまで、起きているのか?」


 コマとロウは、寝ずに主の帰りを待っているだろうと思っていたが、ハルまで起きているのは予想外で、ヒサメは驚いた。


「ええ。宴会と言っても、坊ちゃんのことだから、どうせ何も口にしないだろうと。今、ハルちゃんが夜食を用意してくれているんですよ。召し上がるでしょう?」

「ああ…」


 匂いで食欲が刺激され、ヒサメの腹がきゅうと鳴る。そのまま居間で待っていると、しばらしくてハルが食事を持ってきた。

 冷えた身体が芯から温まりそうな、出汁をたっぷり吸った米とふんわり卵の組み合わせ――卵雑炊だ。それに、根菜のきんぴらと、青菜のお浸しも付いていた。


「もう、夜も遅いので軽めのものを用意しました。足りなければ追加で用意しますが……」

「いや、これでいい」


 ヒサメは雑炊を一口食べる。優しい味が口の中に広がり、ホッと息を吐いた。


「美味いな…」


 思わず出たのは本心からの言葉だ。

 そんなヒサメを見て、ハルは何故だか目を丸くしていた。



 ふわぁ……自然と私の口から欠伸が漏れる。

 昨夜は布団に入るのがずいぶん遅くなってしまったため、少々寝不足気味だ。おかげで、朝起きるのが辛かった。


 昨日、ヒサメは仕事での付き合いで宴会に出席すると、私はロウさんから聞いていた。人間不信の彼のことだから、ろくに食事はしてこないだろうと、私は予想する。案の定、ヒサメは昨夜遅くに、お腹を空かせて帰って来た。


――眠い……でも、まぁ。待っていて良かったな。


 私は昨晩のヒサメの様子を思い出す。

 卵雑炊を食べたとき、ヒサメは珍しく「美味い」と言ってくれた。しかも、そのときのヒサメは満ち足りた柔らかい笑み浮かべていて、幸せそうだった。

 ああいう顔をされると、料理を作る人間としては、とても嬉しくなる。




「ちょっといいか」


 ヒサメに声を掛けられたのは、私がちょうど朝食の後片付けをしていたときだ。彼は少し眠そうにしていたものの、いつも通り起きてきて、朝ごはんはしっかり食べた後だった。


「はい、なんでしょうか」


 私は片付けの手を止めて、ヒサメに向き直る。


「急ぎで頼みたいことがある。『修復の呪符』を一枚作ってくれないか?」

「修復の…ですか?」


 意外に思い、私は質問を返す。

 確か、ヒサメは『修復の呪符』のことを、作製が困難な割に戦闘面でほとんど役立たない、と言っていた。そんな彼が『修復の呪符』を必要とするのが予想外だったのだ。


「昨日の宴の主催者――綾小路あやのこうじという貴族に、物の修繕を頼まれたんだ。どうもあの男は、祓魔師を便利屋か何かと勘違いしているらしい。まぁ、色々あって引き受けることにした」


 修繕の依頼とは…なんとタイムリーな話だろう。

 つい先日、私は『修復の呪符』の作製について、ヒサメに教えてもらったばかりだった。


「まさか、お前に『修復の呪符』を教えたことが、こうして役に立ってくるとはな。分からないものだ」


 まぁ、私としても都合の良い話である。あの呪符は複雑で作製するのが難しいから、ちょうど復習をしたかったところだ。


「分かりました。今日中に作製します」

「ああ、頼む」


 そんなやり取りをヒサメとしていると、困った様子でおコマさんがこちらにやって来た。


「ヒサメ坊ちゃん。おえいさんという女性の方がいらしているんですが…」

「誰だ、それは?俺は知らんぞ」


 ヒサメには心当たりがないようで、怪訝な顔をしている。


「例の小説の迷惑な読者じゃないのか?」


 例の小説というのは、豆腐屋の又六さんの父親が書き遺したのもので、去年都で人気となった。

 そして、その主人公の四宮時雨しのみやしぐれなる人物がヒサメをモデルにしているのではないかと噂され、小説の愛読者ファン――主に女性――たちが、この屋敷に連日押しかけていたのだ。


 幸い、最近では流行ブームも下火になり、この屋敷を訪れる愛読者ファンもほとんど見なくなっていたのだが……。


「う~ん。そういう雰囲気ではなさそうで。なんだか、思いつめていて深刻な様子でしたよ?」

「だが、栄なんて女、俺は知らない。他に何か言ってなかったか?」

「あっ、そういえば。綾小路という貴族の屋敷で女中の仕事をしていると言っていました」

「……ほぉ」


 ヒサメは興味深げな顔で顎を撫でる。


「……仕方ない。会ってみるか」


 そう言って、彼は門の方へ向かった。





 お栄さんというのは、私より幾つか年上くらいの女性だった。とても色白の人で、鼻の上にそばかすがある。

 ヒサメはお栄さんを家の中に上げることはしなかったが、庭に入ることは許した。


 門より中の、屋敷の荒れようを見て、お栄さんはちょっとギョッとしていた。

 確かに、四条の屋敷は荒れ家と見間違えそうなくらい酷いので、彼女の気持ちは十分に分かる。


「それで、俺に何か用か?」


 いつものように外面を取り繕うともせず、ヒサメは単刀直入にお栄さんに尋ねた。彼女は少しひるんだ様子だったが、それでも意を決した表情で、目の前のヒサメを見据える。


綾小路親承あやのこうじちかつぐの依頼を断ってはくれませんか?」


 突然、お栄さんはそう切り出した。



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