第100話 鏡(弐)
「鏡の修復には少々準備が必要です。早速家に戻り、その準備に取り掛かろうかと。
そう、
そのまま、あっさり帰宅も許される。これ幸いと、
なお、二人の上司である
「それにしても、いったいどういう心境の変化ですか?」
千景は前を歩くヒサメに尋ねた。
「何のことだ?」
「とぼけんといて下さい。立て鏡の修復の件、最初は断ろうとしてはったでしょう?」
謙虚な物言いをしていたヒサメだったが、どうせ面倒くさくて断ろうとしていたのだろう、と千景は推測していた。それが話の途中から、ヒサメの態度が変わった。最終的に、彼が綾小路の頼みごとを請け負ったので、千景は驚いたのだ。
「別に。ただ、奉仕精神に目覚めただけだ」
「……」
千景は
――嘘や。絶対、なんか企んでる。
決して短くない付き合いの経験から、彼はそう確信していたが、ヒサメがその企みを簡単に打ち明けないだろうことも分かっていた。
まったく。何を企んでるんだか…と、千景は小さく溜息を吐く。
二人が綾小路邸の門までやって来たとき、後ろから女性の甲高い声が聞こえてきた。
「どうして私に知らせなかったのよ!」
「きゃっ」
千景が声の方を見ると、豪華な衣装に身を包んだ少しふくよかな娘が、苛立った様子で女中を突き飛ばしていた。女中は先ほど見た、そばかす顔の若い女性だ。可哀想に、尻もちをついてしまっている。
そんな女中を放って、華美な娘は千景たちの方にやって来た。
その娘の姿を見て、千景は「ゲッ」と内心悲鳴を上げる。千景は彼女に見覚えがあった。
――西園寺徳子の取り巻きの一人やないか!そうか、綾小路の娘やったんか!!
綾小路の娘が、西園寺徳子と共にヒサメ目当てで検非違使庁を訪れた日のことを千景は思い出した。とても迷惑で不愉快な記憶である。
あのとき、短い髪の
確かに、徳子と共にハルを笑いものにしていた一人が綾小路の娘だ――そう確信する。
「四条様!」
満面の笑みでこちらにやって来る綾小路の娘に、ヒサメは微笑を浮かべて対応していた。その様子を見て、おそらく彼女の顔を覚えていないのだろうと千景は判断する。それでヒサメに、早口で耳打ちした。
「あの娘、西園寺徳子の取り巻きですよ。ほら、いつだったか
その視線の冷たさに、千景は背筋がゾクリとなるが、夜の暗がりで気付かない綾小路の娘は能天気な笑顔でヒサメに話しかける。
「私です。
綾小路の娘――照子は上目遣いにヒサメを見上げる。このときには、ヒサメも再び笑みを取り繕っていた。けれども、その心中があまり穏やかとは言えないことに、千景は何となく察していた。
「まさか、四条様がうちにいらっしゃるだなんてぇ。ああ、お父様も教えてくだされば良かったのに。私も四条様とお食事をご一緒したかったですぅ」
「そうですか。私も残念です」
妙に舌足らずな喋り方をする照子に、笑顔で対応するヒサメ。それを見て、心にもないことを言うとはこのことだ、と千景は思った。
「もしよければ、もう少しお話できませんかぁ?良かったら私の部屋に…」
「申し訳ございませんが、これから綾小路様のご依頼のための準備に取り掛からなくてはなりませんので」
「でも、今夜はもう遅いしぃ。そうだ!お仕事は明日からにして、今日は
名案だと言わんばかりの照子だが、ヒサメは彼女の申し出を断り続け、何とか綾小路の屋敷を後にしたのだった。
*
牛車で送るという綾小路の屋敷の者たちの申し出を断り、ヒサメは徒歩で四条の屋敷に戻っていた。途中、千景とも別れ、一人になる。
ヒサメの機嫌は悪かった。その原因の大部分は、綾小路照子のせいだ。
最初、照子の顔を見ても誰なのか分からなかったヒサメだが、千景のおかげで思い出すことができた。
西園寺徳子に手拭いを取られたハル。隠していた彼女の短い髪が
それらが、まざまざと頭の中によみがえって、腹の底がカッと熱くなるような感覚にヒサメは駆られる。
ヒサメは強い憤りを覚えていた。
自分でも、どうしてこんなに腹が立つのかは不思議だが、気に食わないのだから仕方ない。
そんなヒサメの心境など知らず、照子は懲りずに話しかけてくるのだから、余計に腹立たしい。
特に高位の貴族に対しては、外面良く接しているヒサメだが、その上っ面を脱ぎ捨てて、怒鳴りつけてやろうかと思ったくらいだ。そうしなかった己の忍耐力を彼は自画自賛する。高位の貴族とモメると、ややこしいことになることは目に見えているからだ。
「しかし、ソレもいい加減面倒くさいな」
歩きながら、ヒサメは独り言ちる。
綾小路の宴の席でも思ったが、
ヒサメが自問自答していると、彼の腹が「ぐぅ」と鳴った。宴の席では、ほとんど料理を口にしていないから、空腹なのは当然だった。
ヒサメは辺りを見回す。
時刻は深夜に差し掛かろうとしていて、灯りがついている民家は少数だった。こんな時間帯なら、おそらくハルももう眠っているだろう。もしかしたら、夕餉の残り物にありつけるかもしれないが、そうでなければ朝まで我慢するしかない。
空腹のせいで、ヒサメの機嫌は余計に悪化した。
もういっそ、面倒な貴族との関りを失くすため、検非違使庁を辞めてやろうかとすら考える。
そうして、苛々としながら早足で歩いているうちに、彼は四条の屋敷に戻って来たのだった。
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