第99話 鏡(壱)

 全く終わる気配の見えない男の自慢話を、四条氷雨しじょうひさめは変わらない微笑のまま聞いていた。


 ヒサメは今宵、左京二条にある綾小路親承あやのこうじちかつぐという貴族のうたげに呼ばれていた。同じ席に、検非違使庁妖犯罪対策部の後輩である千景ちかげと、上司の森政煕もりまさひろがいる。

 この宴には、森に無理やり連れられて来たヒサメと千景だった。


 綾小路は五十歳近い男で、刑部ぎょうぶ省の高官だ。

 ヒサメたちが所属する検非違使庁は、元々は令外官だったが、現在は刑部省の管理下に組み込まれている。そして、検非違使庁長官である『別当』の人事権は刑部省にあった。


 虎視眈々と別当の地位を狙っている森としては、綾小路に良い顔をしておきたい。だから、綾小路の個人的な宴に誘われて、喜び勇んで応じた。

 そのとき、綾小路から「君のところの祓魔師に頼みたいことがある」と言われた森は、検非違使庁の二強をお供に選んだのである。


 つまり、ヒサメと千景だった。


 先ほどから自身の武勇伝を繰り返す綾小路に、森は大げさなほど世辞を言い、媚びへつらっている。今にも揉み手をしそうな勢いだ。

 一方、千景は死んだ魚の目をしていた。


 さて、ヒサメはというと、相変わらず穏やかな微笑みをたたえたままだ。言葉少ないものの、とても感じの良い笑顔なので、この宴を楽しんでいるようにも見える。

 ただ、もちろん。彼の腹の中は全く違っていて……。


――くだらねぇ。


 綺麗な微笑みはそのままに、ヒサメはそんなことを考えていた。


――くだらないくだらないくだらないくだらないくだらないくだらない……どうして、俺はこんな所にいるんだ?


 高位の貴族の宴ということで、海の幸や山の幸――豪華なご馳走が並んでいるが、人間不信のヒサメが他所の屋敷で出された料理を喜んで食べるはずもない。料理には毒を警戒しつつ、最低限……申し訳ない程度に口をつけるくらいだ。


 森の頼みなんて断れば良かったと、ヒサメは心底後悔する。

 それでも、この宴に出席したのは、綾小路という男とツテができるのも悪くない――そう考えたからだった。


 やかましい綾小路だが、確かにこの男はやり手だった。出世街道をひた走り、刑部省長官である『卿』の座も目前だと評されている。

 しかし、目的のためなら手段を選ばず、かなりあくどい手を使うという黒い噂もあった。


 そもそも、とヒサメは胸の内で考える。


――そもそも今更、高位の貴族とのツテを作る必要もなかったな。俺にはコンがいるのだから。


 ヒサメには目的がある。それは『異世界に行くこと』だ。

 異世界に関する資料や文献の類は貴重だ。手に入れるには、金も人脈も必要となってくる。

 ヒサメが金を集めるのも、高位の貴族との繋がりを持とうとするのも、全て異世界の情報を集めるため……ひいては、異世界に行くという目的達成のためだった。


 だが、今は『異世界に渡る能力』を有するコンが彼の式神としている。

 まだ、力不足でその能力は発揮できないものの、コンがこのまま修行を続ければ、そう遠くない未来に異世界に行くことは叶いそうだった。

 そうなると、現時点で異世界の情報を収集する優先順位はグッと下がる。

 

 考えれば考えるほど、こんな不快な思いをしてまで、綾小路とのツテを作る利点が見えない。

 己の失態に、ヒサメは胸中で大きく舌打ちした。同時に、言いようのない空腹を覚える。

 目の前には贅を尽くしたご馳走の山、けれどもヒサメの食指はこれっぽっちも動かない。


――ああ、腹が減った。アイツの作った飯が食べたい。


 相変わらず、綺麗な微笑みを顔に貼りつけながら、ヒサメはそう思った。



 自分の出世話から、趣味の美術品集めについての自慢に話が変わった折、おもむろに綾小路が言った。


「そうそう、実は折り入って頼みがあるんだ」

「はい、何でしょうか?我らにできることなら何でも」


 すかさず媚を売る森に対して頷くと、綾小路は声を張り上げた。


「おぅい、アレを持ってきてくれ」


 程なくして、そばかすの目立つ若い女中が絹の布に包まれた何かを大事そうに抱えてやってくる。綾小路はそれを受け取ると、包みを開いてみせた。

 中から出てきたのは、銀製の立て鏡だった。一目でつ国のものだと分かる意匠で、鏡全体が葡萄の房と蔓の細工で飾られていた。


「ほぉ。これは見事ですなぁ」


 今回は世辞でも何でもなく、鏡を見て森が感嘆の溜息を吐く。鏡の縁に施された銀の葡萄の細工も見事だが、それ以上に美しい反射を持つ鏡面に彼は目を奪われたのだ。


 この瑞穂の国で普及しているのは銅鏡だ。

 一方、綾小路の立て鏡にはガラス鏡が使われていた。前者にと後者には反射率に雲泥の差があり、もはや別物だった。

 それほど素晴らしい綾小路の立て鏡だったが、一つ重大な欠点があった。鏡面に大きなヒビが入っていたのである。


 綾小路は言った。


「これはつ国のものでな。わしが苦労して手に入れた、自慢の一品なのだが、見ての通り残念なことになっている。どうにか修理したいのだが、同じように美しいガラス鏡を作れる職人が中々見つからなくてなぁ」

「確かに。これほど精巧な鏡を作るのは、我が国では難しいかもしれません」

「そこで、昔聞いたことを思い出したのだ。術者の中には、壊れた物を元通りに復元することのできる者がいるらしい、と。それで、君のところの祓魔師はどうかと思い付いてね」


 つまり、綾小路が今夜森たちを招いたのは、壊れてしまった立て鏡を直すよう頼むためだったのだ。

 森は慌てて、ヒサメと千景に確認した。


「どうだ?君たち、できるか?できるだろう?」

「ええっと…」


 千景もちらりとヒサメを伺い見る。彼は、ヒサメに話を合わせるつもりのようだ。

 ヒサメは薄く微笑みながら、


は粗野な人間なので、アヤカシ退治なら請け負えますが、物の修復などといった繊細な作業は……」


 やんわりと断りの言葉を口にするヒサメに、森は必死で追いすがった。


「そんなことないだろう!君の符術の腕前なら何とかなるんじゃないか!?」

「綾小路様の大切な鏡に対して、安請け合いするわけには…」


 自信がないという体をとりながら、ヒサメの本音はもちろん別の所にあった。


 面倒くさい。

 ただ、それだけである。


 ヒサメとしては、これ以上、綾小路という男に関わるつもりがなかった。


「いやっ、でも…」


 なおもしつこい森を無視し、きっぱり断りの返事を告げようとしたとき、ヒサメの視界にきらりと光る鏡が入った。

 ヒサメは少しの間、それに見入る。それから、わずかに彼の口角が上がった。


「なぁ、四条。本当になんとかならないか?」


 情けない声の森に対して、打って変わった様子でヒサメは言う。


「そこまでおっしゃるのなら、ご期待に応えるべく力を尽くしてみましょう」



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