第98話 修復(弐)
『修復の呪符』の神与文字や符合は複雑難解だ。
ヒサメはハルの頭の出来が悪いとは決して思っていない。むしろ、これまで祓魔師の知識が皆無だった割に、彼女はよく健闘しているように思える。ハルが中々『修復の呪符』を理解できないのは、そもそもの呪符の成り立ちが難しからだ。
だから、ヒサメはハルに言った。
「別に諦めても良いんだぞ」
けれども、ハルは必死に言いつのる。
「も、もう少し待ってください。もうちょっとで、分かりそうなんで――」
そのハルの様子がヒサメには面白い。なんだか、からかいたい気持ちに駆られたが……そこはグッと我慢する。一生懸命な人の邪魔をするのは良くないという良識は、さすがのヒサメもわきまえていた。
ややあって、ハルは苦労して書き上げた呪符を見せる。
「どうですか?」
自信がないのか、おずおずとハルは尋ねた。
ヒサメは渡された呪符を注意深く確認し、「ふむ」と感心する。
複雑な呪符なので、その文字や符号の意味を理解せず、単純に丸写しすれば、どこかしら不備が出そうなものだが、ハルが書き上げたものは特に問題ない。きっと、『修復の呪符』として機能するだろう。
「ちゃんと出来ている。やるじゃないか」
そのヒサメの言葉を聞いて、たちまちハルは笑顔になった。
「本当ですかっ?」
少し誇らしげで、照れて嬉しそうな顔――それを見て、またヒサメの胸は、ぎゅうっと締め付けられるような感覚に襲われた。
――なんだコレ…可愛――っ
思わず、ハルの頭に手が伸びそうになって、ヒサメはハッとする。思い出したのは、
『健気やなぁとか思わないんですか?』
『可愛いなぁって』
『思わず頭を撫でたくなったりとか、本当にせぇんのですか?』
「―――っ!!」
ハルの方に伸ばした手――その行き場がなくなって、ヒサメは自分の手を勢いよく畳におろした。
バンッ――という乾いた音が室内に響き、ハルの身体がビクンと跳ね上がる。彼女からすれば、突然ヒサメが畳を叩いたわけで……訳が分からず、目を丸くしていた。
「ヒサメ様……?」
伺うように、ハルはヒサメを上目遣いで見上げる。ヒサメの胸をギュンっと締め付けるような感覚が、さらに加速した。
そんな己の心情に、あえてヒサメは目をつぶる。錯覚だ、と思った。そして――
「蚊だ」
そう呟いた。
「……は?」
「蚊がいた。だから、潰した」
「……」
自らの行動を正当化しようとしたヒサメだが、ハルはますます
「ヒサメ様。今は冬で蚊が飛んでいるとは……」
「――っ!!」
ハルの言葉で、ヒサメもハッとしたようだったが、今更前言撤回もできない。
「蚊だ」
それで彼は押し通した。
*
私は内心、やれやれと溜息を吐く。
今回の『修復の呪符』は難しかった。
だが、自分で言い出した手前、ギブアップを言い出せず、頑張るしかなかった。
呪符作製に自信が出てきたなんて思ったが、撤回だ。撤回。
私はまだまだ勉強しなければいけないようだ。
何とか書き上げた呪符三枚を机の隅に置き、筆や
たった三枚なのに随分時間がかかってしまった。ヒサメも根気よく付き合ってくれたが、内心苛立っていたのかもしれない。
――思わず、畳を叩いてしまうくらいだからなぁ。
蚊が何とか…と言っていたが、冬にそんなものが飛んでいるはずもない。
私はヒサメに感謝と謝罪の言葉を伝えたが、彼はぶっきらぼうに「ああ」と短く答えるだけだった。やはり、苛立っているのだろう。
それで、今日はこのまま解散かな、と思っていたのだが……。
「とりあえず、これから呪符の効果を試しに行くぞ」
そんなことをヒサメが言い出したので、私は思わず「えっ!?」と声を上げた。
「なんだ?まだ、質問でもあるのか?」
キョトンとした顔で私を見つめるヒサメ。
えっと……、機嫌が悪いんじゃなかったの?
そう、疑問に思うが、それをそのまま口に出してしまったら、本当にヒサメの機嫌を損ねそうである。
――ほ、他の話を……っ!
そのとき、他の話題を探す私の目に飛び込んできたのは、ヒサメの着物に施されている刺繍だった。
複雑な六角形の紋様、ちょっと雪の結晶に似た――四条の祓い屋を示す家紋のようなもの。
良い話題を見つけたと、私はソレに飛びついた。
「前から聞いてみたかったんですが、それって神与文字ではないですよね?」
「ん?ああ、これか」
ヒサメは私が指さすものに気付き、頷いた。
「これは違う」
「それって、いったい何なのですか?天狐の筆でその紋様を書いたとき、不思議な白い光が生じたんですけれど……」
「……これは俺に与えられた印だ。本来ならば、他人には何の意味もなさない。お前の能力をもってしても、普通なら何も起こらない。天狐の筆で書いたからこそ、ああいった現象が起こったんだ」
「……」
正直言って、私はヒサメの説明をよく理解できていなかった。きっと、それは顔に出ていたと思う。
「天狐の筆で書いたときのみ、あの紋様は力を発揮する……ということですか?」
「とりあえず、そういう理解で良い」
元々、ヒサメは私に理解を求めていなかったようで、そこで話を切り上げた。
*
さてはて。
実際に『修復の呪符』の効果を試してみるため、私とヒサメは蔵へやって来た。いつだったか、コンが閉じ込められて、脱走のために大穴を開けた蔵である。
私が作製した『修復の呪符』の呪符を手に、ヒサメが
程なくして、呪符に書かれた神与文字が青い光を帯び、それが炎となって札全体を包み込む。自ら発した炎に焼かれ、呪符が燃え尽きたとき、開いてあった大穴はすっかり元通りになっていった。
「すごい…」
私は穴が開いていた部分に手を当てて、確認してみた。そこには固い壁の感触がある。試しにコンコンと叩いてみても、崩れる様子はなかった。
「ちゃんと直ってる!」
私が感動していると、「そんなに喜ぶことか?」とヒサメは首をかしげた。
「家がきれいだと気分良いじゃないですか」
「ふむ…」
ヒサメは一応頷きつつも、あまり実感がないみたいだ。おそらく、「家なんて住めれば良い」くらいにしか思っていないのだろう。
「この修復の呪符、私が使っても物を修繕できますか?」
「規模の小さなものならな。今みたいな大穴は無理だ」
「そうですか」
予想はしていたが、残念である。やはり、神力のない私では呪符にこめられた基礎的な力しか扱えず、できることに制限があるようだ。
この屋敷には修繕したい箇所がまだまだたくさんあるのだが、私では力不足で、自力では直せないかもしれない。
そう、少し肩を落としていると、
「……で、次は廊下の抜けた床板だったか?」
「えっ!それも今、直してくれるんですか?」
「物のついでだ」
これは意外な申し出だった。
ヒサメには今日、私の呪符作製でさんざん時間を取らせてしまっている。加えて、彼は家の修繕になど興味がないはず。
だから、修復の呪符の効果を試し終えれば、自分の役割は済んだとばかりに「後はお前自身でどうにかしろ」と何処かへ行ってしまうかと思っていたのに……。
もちろん、私はもろ手を挙げて喜んだ。
「ありがとうございます!」
「……」
素直にお礼を言ったつもりなのに、なぜかヒサメは自分の胸を抑え、しかめ面をしていた。
ええっと……機嫌が悪い?私のお礼の言い方が悪かったのだろうか?
いったい、機嫌が良いのか、悪いのか。
どうにも、今日のヒサメは、その心情を推し量るのが難しくて、困ってしまう。
「……ヒサメ様?」
「何でもない。ほら、行くぞ」
そう言って、ヒサメはくるりと
私は慌てて、彼を追いかけた。
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