第93話 巫蠱(肆)

 少し気持ちも落ち着いてきて、私はヒサメに尋ねた。


「ヒサメ様、さっきの蛇みたいなやつがですか?」

「ああ、そうだ。巫蠱ふこの蟲――今回は蛇だから蛇蟲だこか」

「ヒサメ様が斬った上半分がどこかに逃げてしまったようですけれど……」

「あれは逃がしたのではない。んだ」

「返したって……誰に?何を?」

「そりゃあ、術者に、呪いを」


 呪い返しだ――と事も無げにヒサメは言う。


「呪いを返された人はどうなるんですか?」


 私の質問に、ヒサメはゾクリとするような笑みを浮かべた。

 ……聞かなかったことにしよう。私は押し黙る。

 呪い返しを受けた人がどうなっても、元を正せば呪った本人が悪いのだ。

 自業自得、因果応報。私は気にしないことにした。



「んっ…」


 そのとき、背後から女性の声が聞こえてきた。

 振り返ると、先ほどまで苦悶の表情を浮かべ、眠っていたおそよさんが目覚めている。彼女はよろよろしながらも、布団から起き上がった。


「私は……」


 まだ、焦点が定まっていない目で呟くおそよさん。すると、そんな彼女を弥兵衛やへいさんが抱きしめた。


「ああ!そよっ!」

「弥兵衛さん……」

「良かった!目覚めてくれて、良かった!」


 目に涙を浮かべながら、弥兵衛さんは「良かった」と繰り返す。

 そうこうしているうちに、誰かがおそよさんの回復を伝えたのか、こちらに向かってくる複数人の足音が聞こえてきた。



「娘を助けて下さって、誠にありがとうございました」


 吉左衛門きちざえもんさんと妻のおかつさんは深々と頭を下げた。

 私たちは、おそよさんの部屋から客間へと場所を移していた。そこで、近江屋夫妻から直々にお礼を言われたのである。


 近江屋主人の吉左衛門さんは脳卒中で倒れ、左半身に麻痺が残ったと言う話だったが、動作にもたついたところはあるものの、その話しぶりは意外にしっかりしていた。

 吉左衛門さんのすぐ傍らには、お勝さんがピンと背筋を伸ばして正座している。


「いいえ。は頼まれた仕事をこなしただけです」


 ヒサメが答える。彼はいかにも謙虚そうにふるまっていた。


「それにしても、まさか弥兵衛が四条様のような御高名なお祓い屋に伝手つてがあったとは知らなかったよ」

「どうしても、そよを助けたくて。あらゆる伝手を頼ったのですよ」

「そうか、そうか。お前がいたら、そよは安心だな。これからも、娘を守ってやってくれ」

「もちろんです、旦那様。我が身に代えても守ってみせます」


 吉左衛門さんの言葉に、頼もしく返す弥兵衛さん。そんな彼を見て、妙龍みょうりゅうとおたえちゃんは微妙な顔をしていた。


 というのも、弥兵衛さんが初めに頼ったのは妙龍だ。ヒサメがこの近江屋に関わったのは、自分の手に負えないと考えた妙龍たちが相談してきたからである。

 そもそも弥兵衛さんは、今日の今日までヒサメが来るなんて知らなかったのだ。それにも関わらず、自分の手柄のように話した弥兵衛さんに対して、妙龍たちは思う所があるようだった。


 片や、ヒサメは弥兵衛さんの言葉を特に訂正せず、相変わらず微笑を浮かべていた。



 ややあって、ヒサメに対してもう一度感謝の言葉を述べた後、吉左衛門さんは客間を出て行った。その歩行の介助をお勝さんがしているため、自然と彼女も部屋を出て行くことになる。

 そして、近江屋夫妻が出て行ったのを見届けると、弥兵衛さんはこう切り出した。


「それで、お金のことですが…」


 彼はちょっと卑屈な笑みを浮かべ、上目遣いにヒサメを見上げる。


「ちょっと負けてもらえませんかね?」

「それはどういうことだ!?」


 声を上げたのは、妙龍だ。彼は目を吊り上げて、弥兵衛さんに抗議した。


「金に糸目は付けないから、妻を助けてくれっていう話だったろう!?」

「いやぁ、でも今考えると…やっぱり高すぎるというか。相場ってもんがあるでしょう?」


 弥兵衛さんはへらへら笑う。それから、彼が提示した金額は、元の半分ほどの値だった。

 それを聞いて、さらに激昂する妙龍。一方、ヒサメは変わらず涼し気な顔をしていた。


 ヒサメのおかげでおそよさんの呪いは解け、彼女の命は救われた。ヒサメは文句のつけようのない仕事をしたわけだ。それなのに、報酬を値切るなんて酷い話である。

 ……と、私でも思うのに、ヒサメは文句の一つも言わない。それがかえって不気味だった。



 そうやって、弥兵衛さんと妙龍が言い争っていると、廊下から声が聞こえてきた。


「何ですか?騒々しい!」


 ピシャリと言ったのは、お勝さんだった。どうやら彼女は、吉左衛門さんを自室で休ませてから、こちらに戻って来たようである。


「いったい、何の騒ぎです?」


 お勝さんに問いただされて、弥兵衛さんも妙龍も――そして私も、シャンと背筋を伸ばす。彼女には相手の居住まいを正すような迫力があった。

 そんな私たちをよそに、ヒサメは微笑んだまま、お勝さんに向き直った。


「実は、弥兵衛さんが今回の成功報酬の値下げをおっしゃいまして…」

「そうなんです!この契約書の半額にしてくれと言われたんです!」


 ヒサメの言葉に妙龍が続く。

 彼は懐から一枚の紙を取り出し、お勝さんに見せた。どうやらそれは、妙龍と弥兵衛さんが取り交わした契約書のようだ。

 お勝さんはその内容を舐めるように確かめた後、キッと弥兵衛さんを見据えた。


「弥兵衛さん、これはどういうことですか?」

「い、いやだって…いくらなんでも高すぎるでしょう?」


 弥兵衛さんは狼狽えながら、弁明を始める。


「ほら、女将さんもいつも言っているじゃないですか。商人たるもの、相手の言い値に応じてはいけないと……」

「それは交渉段階での話です!正式な契約を交わした後、その値引きを言い出すなんて恥知らずなっ!!」


 すごい剣幕のお勝さんに叱責されて、弥兵衛さんはびくりと肩を震わせた。それから彼女はヒサメと妙龍の方に身体を向け、手をついて謝る。


「娘の命を救ってくれた方に対して、近江屋うちの者が大変失礼いたしました。契約通りの金額をお支払いいたします。すぐに用意しますので」


 それを聞いて、妙龍はホッと胸を撫でおろす。弥兵衛さんがお金を出し渋れば、成功報酬との差額を自分がヒサメに支払わなければいけないと、妙龍は危惧していたのかもしれない。

 

 ヒサメへの報酬を用意するため、お勝さんは客間をまた出て行った。その後ろ姿を、睨みつけるようにジッと弥兵衛さんは見ていた。



「もう金輪際、弥兵衛とは縁を切る!」


 近江屋からの帰り道、妙龍は憤慨していた。彼からすれば、弥兵衛さんに約束を反故にされそうになったのだから、怒るのも当然だろう。

 それに対して、ヒサメは「ふぅん」と笑う。


「それで良いのか?」

「良いも何も!こっちはきっちり仕事をしたんだ!恩を仇で返されそうになった今、もう付き合わなきゃいけない理由もないっ!」


 鼻息の荒い妙龍に、私はおずおずと話しかけた。


「あの、一点。気になることがあるんですけれど…」

「おう!なんだ?」

「結局、おそよさんを呪ったのは誰だったんでしょうか?」


 私の言葉を聞いて、「あっ」と妙龍が声を上げる。どうやら、呪った人物について今の今まで忘れていたようだ。

 そんな妙龍の隣で、ヒサメはニヤリと口角を上げていた。



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