第92話 巫蠱(参)
「ふこ…ってなんだ?」
「お前、仮にも祈祷師を名乗るんならそれくらい勉強していろ。
ヒサメが言うには、
容器の中に、大きなものは蛇から小さなものは
「この蟲に対象の人間を噛ませたり、蟲の毒を食事に混ぜたり……蟲を入れた壺を相手の家の床下に埋めるという方法もある」
ヒサメの言葉にギョッとして、妙龍は床を見る。
「今回は噛まれたようだ」
そう言って、ヒサメはおそよさんの手を持ち上げる。白く細い手首に、何かに噛まれたような穴の痕が二つあった。
ヒサメが苦悶の表情を浮かべるおそよさんを見下ろす。それから、妙龍に対してとは打って変わった丁寧な口調で、
「
「そんなの
そう苦々し気に言う弥兵衛。
「ほぉ。母親が娘をですか?」
「母親と言っても、あの女は後妻なんだ。そよとは血がつながっていない」
つまり、おそよさんの継母だ。名前は
おそよさんの母親は産後の肥立ちが悪く、彼女が物心つく前に亡くなってしまったようだ。そして、その後に近江屋の主・
「元は近江屋の女中だったんですよ。それが、妻を亡くして傷心の旦那様に上手く取り入ったんだ。性格のキツい女で、そよにもやたら厳しく辛くあたって…」
弥兵衛さんが義母を快く思っていないのは、その態度から明白だった。もっとも、愛する妻が継子いじめされていたら、夫としては心穏やかではないだろう。
弥兵衛さんの話を聞いて、「ふむ」とヒサメは顎を撫でた。
「なるほど。継子に嫌がらせをする継母ねぇ。しかし、だからと言って、呪い殺そうとまでしますかね?」
「そりゃ、自分がこの店を追い出されるかもしれないとなれば、必死にもなりますよ」
「追い出されるとは?」
「倒れられた旦那様が、あの体で仕事を続けるのは厳しいですからね。俺とそよが跡を継ぎ、旦那様が隠居なさるのが自然の成り行きでしょう。そうなると、義母の立場は一気に弱くなる。これまで、そよにやったことの仕返しをされると、恐れたんじゃないですか?」
吉左衛門が倒れたことで、近江屋内でのパワーバランスが変わろうとしている。このまま娘夫婦が跡を継ぐと、彼らから快く思われていない
「ふむ」とヒサメはもう一度言って、にやりと笑った。
「まぁ。誰が犯人なのかは分かりませんが、この
自信たっぷりにそうのたまうと、ヒサメは口の中で何やらブツブツ唱え始めた。
すると、おそよさんの身体に変化が起こる。
「ひっ!」
弥兵衛さんが短い悲鳴を上げる。というのも、おそよさんの体中に神与文字が突然浮かび上がったからだ。濃い紫色のそれは、まるで毒のようにおどろおどろしく、彼女の白い皮膚に刻まれていた。
「ハル。
「はい」
やはり、私を連れてきた理由はこれか。
そう思いつつ、私はヒサメの指示に従う。ポンッと
「ずいぶん、増えたな」
宙を泳ぐ紙魚たちを見て、ぽつりとヒサメが言った。
彼の言う通り、また紙魚たちの数が増えて、今では三十二匹になっている。今住処にしている瓢箪では、そろそろ手狭になっているのではないか、と私は考えていた。新しい瓢箪を新調しようかな、と。
「では、ハル。紙魚たちに
「はい……ということで、ここの文字。食べてくれるかな?」
私はおそよさんの身体を蝕む呪文字を指して、紙魚たちにお願いする。魚たちは、「心得た!」とばかりに、その場で一回転した。皆、やる気になってくれているようだ。
式神にした当初は、紙魚たちの気持ちが分からず、コミュニケーションを取るのも一苦労だったが、最近ではなんとなく気持ちが通じ合っている……気がする。気のせいかもしれないけれど。
紙魚たちは、ぶわっとおそよさんに群がった。
あるモノは顔の、あるモノは手の呪文字をつつき始める。他にも着物の中にもぐりこんでいくモノもいて、彼女の体中にある呪文字を食べていった。
「あ、あのっ!こ、これ!大丈夫なんですか?」
動揺する弥兵衛さん。まぁ、愛する妻が得体のしれない魚に群がれているのだ。不安になるのも分かる。
そんな彼に対して、「ええ、何の問題もありません」とヒサメは笑顔で答えた。
「で、でも…」
「問題はありません」
「あの…」
「問題はありません」
「……」
結局、ヒサメの有無を言わさない笑みに負けて、弥兵衛さんは押し黙った。
やがて、紙魚たちがおそよさんの身体の呪文字をあらかた食べ終えたとき、私の視界にあるものが入ってきた。ソレは黒く細長い何かで、彼女の着物の袖の中で
何かの見間違いだろうか。そう思って、私が目を手でこすると、コンが叫んだ。
「ハル!あぶないっ!!」
「!?」
コンが私の身体を後ろに引くのと、おそよさんの着物の袖からソレが飛び出してくるのは、ほぼ同時だった。
シャアッ!!
大口を開けて、私に飛び掛かってきたのは黒い蛇だった。おそよさんを蝕んでいた毒蛇が、今度は私に向かってきたのだ。
――噛まれるっ!!
そう思ったとき、横から白い手が伸びてきた。
ヒサメだ。
ヒサメは、私に襲い掛かる蛇の頭のすぐ下を右手で掴むと、それを力任せに畳に叩きつけた。そして、いつの間にか持っていた左手の小刀で、蛇の身体を一刀両断する。そのまま、声にならない悲鳴を上げる蛇の上半身を、顔色一つ変えず廊下の方へ投げ捨てた。
半身になってしまった蛇は、のたうち回りながら、庭の方へ消えていく。
「えっ、えっと……?」
まさに一瞬の出来事で、ヒサメ以外のその場の人間は凍り付いたように固まっていた。
私もまともな言葉が思い浮かばない。心臓が早鐘のように打っている。
ただ、混乱する頭でも一つ分かるのは――どうやらヒサメが私を助けてくれたということだ。
「あ、ありがとうございます。ヒサメ様」
私がお礼を言うと、
「ああ」
ヒサメは小さな声で、そう返した。
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