第89話 異世界

「何か欲しい物はあるか?」


 欲しい物があるのなら、買ってやるとヒサメが言う。

 突然の申し出に、私は目を白黒させた。


 どうして、いきなり?

 そう思わざるを得ない。


 ヒサメに何かを買ってもらえるような覚えがなかった私は、もちろん警戒した。ヒサメが何か企んでいるのではないかと思ったからだ。

 我ながら可愛げのない反応だが、こちらもヒサメの性格を知っているため仕方ない。


 決してヒサメはケチではないし、必要な物にはソレに見合うお金をかけることをいとわない。けれども、理由なく誰かに何かを買い与えるなんてしない人だ。

 その彼がなぜ?

 いぶかしんだところで、「いや…」と私は思い出した。


 そう言えば、ヒサメは一度私にかつらを買い与えてくれようとしたことがあった。アレは……そうだ。西園寺徳子たちに短い髪を揶揄やゆされたときのことだ。

 あれはヒサメなりに私を気遣ってくれての言葉だったのだろう。

 ということは、今回の申し出も彼の心配こころくばりなのだろうか?そうされる心当たりはないのだけれど……。



「特に欲しい物はありません。十分、お給金をいただいていますし」


 私がそう言うと、「それはそうかもしれないが…」とヒサメは口を尖らせた。

 珍しく、ずいぶんと幼い表情をする。まるで折角の好意を無下にされ、ねてしまった子供のようだ。

 その顔を見て、私は何かをヒサメにお願いしたくなった。


「欲しい物はありませんが、お願いしたいことなら……」

「なんだ?それは?」


 私の言葉に、前のめりになって尋ねてくるヒサメ。それで、私はあるお願いをした。


「ヒサメ様が所有している異世界についての本。あれを私に読ませていただけませんか?」



 ヒサメの部屋は相変わらず雑然としていた。

 どこもかしこも書物や巻物でいっぱいだ。座る場所さえ、見つけるのに苦労するくらいである。


 異世界の本を読ませてほしいと言うと、ヒサメは不可解というような顔をしたが、それでも私の頼みごとを了承してくれた。それで今日の家事を全て済ませた後、私はヒサメの部屋に招き入れられた。


 私が異世界についての文献を読みたいと思ったのは、コンが『異世界に渡る力』とやらを持っていると聞いたからだ。

 もう二度と前世の世界に戻ることは叶わないと諦めていたが、可能性があるかもしれないと分かると、私の異世界への興味はどんどんと膨れていった。


 コンにお願いすれば、もしかしたら前世の家族――祖母に会えるかもしれない。そう思うと、私の胸は高鳴った。

 ただ、その前に確かめなければならないことが一つ。コンが渡る異世界とやらが、私が前世で生きた場所かどうか、という点である。



「どれでも好きなのを読んでいい。ただし、持ち出すなよ」

「もしかしなくても、この本。高価なものなんですか?」

「言っておくが、一冊でも失くしたらお前の給料では弁済できないからな。あと、値段以上に手に入れることが困難なんだ。特別なツテが要る」


 この部屋に無造作に置かれている文献が、それほど貴重なものとは思わなかったので、私はギョッとした。

 いったい、どれだけのお金と手間をかけて、ヒサメがこれらの資料を集めたのか。それを想像すると、彼が異世界にただならぬ関心を持っていることが伺えた。

 もしかしたら、彼がお金にがめついのも、この資料を集める資金が必要だったからかもしれない。


「あの、伺ってもいいですか?」

「なんだ?答えてやるとは限らんが、聞くだけは聞いてやる」

「やはり、ヒサメ様がコンを式神にしたのは、あの子が『異世界に渡る力』を持っているからですか?」

「……力のこと、誰から聞いた?コンか?」


 私は首を横に振る。コンは自らの力について、私には話してくれなかった。


千景ちかげさんです……あっ、教えてくれたのは、鬼女紅葉に操られた状態の時でしたが……」

「アイツはまったく……」


 ヒサメは溜息を吐き、諦めたように「そうだ」と頷いた。


「じゃあ、コンは本当に異世界に行けるんですね!」

「今はまだ無理だ。もっと修行を積んで、妖力を高める必要がある。それに、異世界というのは簡単に行けるものではない。を整えないと……」

「条件?」

「いや、何でもない」


 どうやら、ヒサメはその条件については、話してくれないようだ。


「他に質問は?」

「鬼たちはコンの力を奪おうとしていました。つまり、彼らは異世界に行きたいということでしょうか?」

「そうだろうな」

「それはどうして?」


 ヒサメは「俺は鬼ではないから、あくまで推測だが」と断りをいれてから、話し始めた。


「鬼たちは自分たちの陣営の勢力を広めたいと考えている。しかし、この瑞穂みずほの国で……いや、 つ国を含め、この世界でそれは簡単なことではない」

「そうなんですか?」

「よその土地には、すでに人間や他のアヤカシがいるからな。普通の人間相手なら鬼が力で勝るだろうが、人の中には神力を持った者――祓魔師がその代表格だが――鬼に抵抗するすべを持つ者がいる。たまに、俺みたいな規格外の天才まで出てくる」

「……」


 一切の躊躇なく、自らのことを「規格外の天才」と称するヒサメ。

 もはや何も言うまい……私は口を閉ざした。


「もちろん、他のアヤカシだって鬼に対抗できる者はいる。だから、この世界で鬼が勢力を伸ばすのは困難だ」

「なるほど…」

「だが、もし――神力のある人間がおらず、他のアヤカシがいない世界が存在したらどうする?」


 ヒサメの指摘を聞いて、私は「あっ」と声を上げる。どうして鬼たちが異世界に行きたいのか、想像できたからだ。


「少なくとも、この世界より簡単に他の種族を征服し、支配下に置くことができる――と、鬼たちは考えている?」

「そういうことだ」

「ヒサメ様。もしかして、コンが渡ることのできる異世界には……神力を持つ人間やアヤカシがいないのですか?」

「分からん。あくまで、俺の推測だ。しかし、俺が集めた文献の中にはそのようなことが書かれたものもあった」


 神力や妖力、アヤカシが存在しない異世界。それを聞いて思い付くのは、やはり私が前世で生きた世界だった。

 もしかして、本当に前世の世界と此処ここは繋がっているのかもしれない。それは私にとって、嬉しいことだった……だが、今のヒサメの話を聞いて、ただ喜んでもいられなくなった。

 なぜなら、私の元の世界が鬼たちに狙われているかもしれないのだから。


――神力や妖力とかはないけれど、この世界に比べて元の世界は科学技術がかなり進んでいたし、人間でも鬼に抵抗する手段はあると思うけれど……。


 ただ、不安は不安である。


 前世の世界が鬼に侵略されるなんて冗談ではない。

 元より鬼にコンの力を渡す気なんて毛頭ないが、絶対に奪わせてはならないと、私は気持ちを新たにした。



「それで、他に質問はないのか?」


 そうヒサメに聞かれて、私は少し考えた後、静かに首を左右に振った。


「あ、はい。もう大丈夫です。ありがとうございました」


 ヒサメへの感謝を口にしながらも、実は私には彼に聞きたいことが残っていた。

 それは――


 ヒサメは異世界に行きたいのか……だ。


 ヒサメが大枚をはたいて文献を集め、調べ上げた異世界。

 人間不信の彼が、他人の私をこの屋敷に引き込んでまでしてコンを手に入れ、行きたかった場所。

 なぜそうまでして、その異世界にヒサメは行きたいのか――ソレに興味がないと言えば嘘になる。


 ただ、ヒサメは答えてくれそうにないように思えて、私はその疑問を飲み込んだのだった。



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