第88話 感謝(伍)

 コマの言った通り、ハルは台所に一人でいた。

 彼女はこちらに背を向けていて、氷雨ヒサメが土間に足を踏み入れても、彼に気付いた様子もなかった。


 ヒサメはハルを後ろから覗き込む。

 ハルは手に大きな青菜を持っていて、細々とした作業をしているようだった。ただ、しばらくそれを眺めていても、ヒサメにはハルの作業にどういう意味があるのか分からない。


「どうして、そんなことをしているんだ?」


 それで、疑問をそのまま口にしたところ、


「わっ!?」


 ビクンとハルの身体が跳ねた。


「えっ……ヒサメ様?いつの間に!?」


 ハルは本当に驚いた様子で、目を丸くしてヒサメを見上げている。まさか、そこまで驚かれるとは思わなかったヒサメは「フハッ」と噴き出した。


「驚きすぎだろう」

「いや…普通、驚きますよ。あー、びっくりした」


 ハルは自分の胸を手で押さえながら「包丁、持っていなくてよかった」と呟く。


「さすがに、刃物を持っている相手に対して、急に声を掛けたりしない」


 ヒサメがそう反論すると、ハルは疑わしそうに彼を見ていた。


「それで私に何かご用でしょうか?」

「別に大した用ではないが、お前が何をやっているのか、少し気になってな」


 ハルの手元にある青菜を指すヒサメ。彼女は「ああ」と頷いた。


「小松菜の筋を取っていたんです」

「筋?」

「ほら、こうやって」


 ハルは小松菜の葉と茎の境を折ると、そこに現れた繊維質のモノをつまみ上げる。そのまま、スーッと引き下ろすようにして、筋を取った。


「どうしてそんなことをするんだ?筋は食べられないのか?」

「食べられますけれど、固くて口に残るんですよね。筋を取ると、口当たりがよくなります」

「そのためだけに、わざわざそんな手間をかけているのか?」

「私だけが食べる料理なら、面倒くさいので筋は取りませんよ」

「つまり、仕事だから手間を掛けているということか?」

「それもありますが……やっぱり、他人ひとにふるまう料理は相手に美味しいって思ってもらいたいじゃないですか」


 そう言うと、ハルは再び作業に戻る。その小さな手で、ちまちまと青菜の筋を取っていた。

 ヒサメは作業するハルの手を観察した。コマが言っていたように、その手はかさつき、所々赤くなっている。

 

――こんな寒い所で長時間いるから、余計に手荒れが酷くなるんじゃないのか?


 ヒサメは眉をひそめた。

 まだ、火をおこしていない冬の台所は、身体の芯まで冷えるような寒さである。ヒサメならこんな場所で、長々と立ち仕事は絶対にしたくない。


――ハルは寒くないのだろうか?


 ふと思い付いて、ヒサメは作業するハルの手に触れてみた。彼女の小さな手を自分の手で覆うようにする。

 途端に、人間の体温とは思えない冷たさがひんやりやってきて、彼は思わず声を上げる。


「なんて冷たい手をしてるんだ!?」


 一方のハルは、ヒサメの突拍子もない行動に驚いたのか、ポカンとしたような顔で彼を見上げた。しかし、たちまちホッと息を吐くと、頬を緩めてふわりと微笑む。


「ヒサメ様の手って、やっぱり温かいですね」

「……」


 不意にヒサメは、胸がぎゅうっと締め付けられるような感覚に襲われた。


「――?――??」


 いったい、これは何なのか。訳が分からなくて、ヒサメは首を捻る。

 何かの病気なのだろうか、と彼はいぶかっていると、下から遠慮がちな声がした。


「ヒサメ様。温かいのですが、筋取りができないので…」


 そのハルの言葉で、己の手がハルの手を未だ覆っていることにヒサメは気付いた。


「ああ…」


 ハルの手を解放しつつ、ヒサメは何か言わなければ――と思った。

 自分たちに美味しい食事を振舞うため、こんなに冷たい手でちまちまと作業をしているハルに何か……。


 こういうとき、普通の人間なら感謝の言葉を口にしそうなものだが、そういったことに不慣れなヒサメはスッと言葉が出てこない。そんな彼が口にしたのは……



「何か欲しい物はあるか?」



 突然そんなことを言われて、ハルはキョトンとした。彼女の反応を見て、脈絡のない提案だったかとヒサメも後悔したが、一度口から出てしまった言葉はもうどうしようもない。多少の気まずさを覚えながら「何でもいい。何かないのか?」とヒサメは言い募った。


「いきなり、どうしたんですか?」

「特に他意はない。何か欲しいものがあるなら、買ってやろうと思っただけだ」

「……はぁ」


 ヒサメを見上げるハルの目には、困惑と警戒の色があった。それに気付いて、ヒサメはムッとする。どうして優しくしてやっているのに、警戒されなければならないのかと理不尽に思った。

 確かに。突然、甘い話をされたら何か裏があるのではないかと、疑う気持ちは出るかもしれない。ヒサメだって、そう考えるクチだ。


――だがコイツは、あの料理屋の男からの贈り物は素直に受け取っていた。アイツは良くて、なぜ俺が駄目なんだ?


 面白くない。非常に面白くない、ヒサメである。



 ハルの立場からすれば、ヒサメは窮地を助けてくれ、頼りになると思いつつも、まだ信用しきれない部分があった。そもそも二人の出会いは、コンの誘拐という最悪の形から始まったのだ。

 それからも、西園寺徳子の護衛の件でおとりにされたり、紙魚しみと無理やり契約させられたり……それらをハルは忘れたわけではない。


 片やヒサメには、自分がハルの信用を損なうようなことをしている自覚があまりなかった。


 ハルはコンを誘拐されたと思っているが、ヒサメは少なくとも法律的に自分には何の落ち度もないと考えていた。

 ハルは金銭を貯めて、コンを式神にしようとしていたみたいだが、裏を返せば当時のコンはまだ野良のアヤカシだった。それをヒサメが先に式神にしてしまっただけだ。コンをハルから無理やり取り上げたのは悪かったと思いつつも、こういうのは早い者勝ちが常である。


 西園寺徳子のことだって、ハルを囮にしたものの、そのすぐ傍にはコンがいたし、ヒサメ自身も身を潜めて事の成り行きを観察していた。つまり彼としては、ハルの安全はしっかり確保していたつもりだった。


 また、紙魚しみは有益なアヤカシなんだから、それを式神にすることはハルの利になる。むしろ、ヒサメが役所に式神の登録料まで払ってやったのだから、感謝されてもいいくらいだ。そう思うヒサメである。


 こんな風にヒサメは、『倫理』よりも『法律的正しさ』を重視し、物事の『過程』やりも『結果』に重きを置いていた。そして、自分の行動に対して相手がどう感じ、どう思うかという点が、すっぽ抜けているところがあった。

 それ故、ヒサメとハルの間には認識のズレがあったのだ。




「欲しい物と言われましても…」


 ハルは困ったように考え込む。


かんざしとか飾りくしとか帯留めとか…」


 とりあえず、ヒサメは女が好きそうな装飾品を列挙してみる。けれども、ハルの表情は明らかにだった。

 しばらく考えて、ハルは首を横に振る。


「特に欲しい物はありません。十分、お給金をいただいていますし」

「それはそうかもしれないが…」


 面白くない……そう思うヒサメの声は、自然と低くなる。

 そんな主の不機嫌を察したのかどうか知らないが、ハルはこんなことを言い出した。


「欲しい物はありませんが、お願いしたいことなら……」

「なんだ?それは?」


 身を乗り出して尋ねるヒサメに対して、ハルが口にしたのは意外なだった。



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