第87話 感謝(肆)

 この日は非番で、四条の屋敷にいた氷雨ヒサメは仏頂面をしていた。

 というのも昨日、千景ちかげに『ハルに優しくしてやらないと、そのうち逃げられてしまう』と散々脅されたからである。


 ヒサメとしては、別段ハルに辛く接しているつもりはない。彼女の仕事を評価し、それに見合うだけの報酬だって与えているのだから、いったいどこに問題があるのだ?


 そう思う反面、千景の指摘にはヒサメもギクリとした。


『他人の悪意には鋭いですけれどね。逆に、相手からの思いやりには疎いでしょう。利害関係のない人間は、そもそも興味すら持たんし』


 その言葉に、少なからず心当たりのあるヒサメだ。


 これまで、ヒサメは他人を疑いながら生きてきた。それは必要なことで、そうしなければ、この歳まで生きられなかっただろう、と彼は考える。

 一方で、他人と表面上の付き合いしかしてこなかった弊害もあった。正直、赤の他人への興味が薄いことはヒサメも自覚している。


 そこのところを改めないと、ハルに逃げられてしまうのだろうか?

 ヒサメにはイマイチよく分からない。ただ、分かるのは……


――アイツに逃げられるのは困る!


……ということだった。




 冷静に考えて、現状ハルがコンを置いてこの屋敷を去る可能性は非常に低い。あれだけ溺愛しているコンを置き去りにするなんて、まずないだろう。

 ただ、コンを連れて共に逃走……というのは、あり得るかもしれなかった。そうなると、ヒサメとしては非常に困る。ヒサメの長年のにはコンが必要不可欠だからだ。


 そして、万が一にもコンを置いてハルが何処かへ行ってしまった場合、ソレも困った事態になるのは目に見えていた。

 ハルはコンを溺愛しているが、コンの方もハルにべったりだ。ハルがいなくなったら、コンにどんな精神的影響が出るか分かったものじゃない。


 また、ハルがいなくなると食事に困る。

 ハルの料理を口にするようになって、すっかり舌の肥えてしまったヒサメだ。今更、冷えた総菜や弁当など食べたくない。

 だからと言って、どこの馬の骨とも知れない女中を雇う気にはなれない。それなら、ハルの腕には遠く及ばないまでも、千景に飯を作らせた方がマシだ。


 ハルの揮毫士きごうしとしての類稀な才能を手放すのも惜しい。彼女が作製する呪符はどれもこれも頭一つ抜けた性能だ。天狐の筆を手に入れたことで、ますますの飛躍が期待できる。


 お人好しな性格のせいで面倒ごとを呼び込むという欠点はあるものの、ハルを手元に置いておくことは、それ以上の見返りがある――そう、ヒサメは考えていた。


 こんな風に、損得勘定で物事を考えてしまうのは、もはやヒサメの癖だった。思考が打算的になるのは、彼が人間不信である故かもしれない。




「えーっと、なんだ?もっと優しくしろ。感謝の言葉をかけろ。言葉にしなくては伝わらないこともある……だったか?」


 ヒサメは千景の助言を思い出す。

 ハルに卯庵うあんの栄吉という逃亡先があることを知って、ヒサメなりに少し危機感を覚えたようだ。とりあえず、千景の言う通りにしてみるかと思いつつ…彼には、その勝手がよく分からなかった。


「あとは、もっと周りの人間のことを気にする――だな。それくらいなら、できそうだ」


 やれやれ面倒くさい。どうして俺がそんなことを……なんて、ブツブツ呟くヒサメ。そのとき、ふとハルと栄吉のやり取りが脳裏によぎった。

 栄吉はハルに贈り物をしていた。確か、手荒れに効く軟膏だとか何とか言って。


 ヒサメは自分の手をまじまじと見る。冬のため多少乾燥しているが、男にしては綺麗な肌をしていた。


「アイツ、手荒れなんかしているのか?」


 首をかしげるヒサメが向かったのは、彼の式神の所だった。



「手荒れですか?」


 お前は手荒れしているのか――急にヒサメからそんなことを聞かれ、コマはきょとんとしていた。


「手を見せてみろ」

「はぁ」


 ヒサメが指示すると、言われるままに両手を差し出すコマ。彼女の手は白く、つるりとしていた。「おや?」とヒサメは首をかしげる。


「家事をすると手が荒れるかと思ったが……全然そんなことはないな」

「まぁ、私はアヤカシですからね。人間より皮膚が丈夫なのかもしれません。それに私の場合……」


 そう言って、コマは後方を指さす。

 ヒサメが振り返ると、屋敷の長い廊下を磨く雑巾が目に入った。


 その雑巾は誰かの手を必要とすることもなく、ひとりでに動いている。

 ふわふわと宙を漂う雑巾は桶の水に入ったかと思ったら、ぎゅっと自ら水を絞り出し、その後は廊下の汚れを拭きとっていた。それを延々と繰り返している。

 そうやって、ひとりでに動く雑巾は四枚あり、各々が廊下を綺麗にしていた。


「掃除などの単純作業は、ああやって済ましてしまいますから。あまり、手が荒れるようなことはしていないのです」


 コマは事も無げに言った。

 コマはあまり重くない物なら、念動力のような力を使って物体を動かすことができる。だからこそ、炊事以外の家事全般を一人でこなすことができていたのだ。


「なるほどな……では、ハルは?」

「ハルちゃんは妖力も神力もありませんからね。私みたいにはいかないでしょう。水仕事をすると、どうしても手は荒れてしまうそうですよ。特に冬場は……」

「……」


 つまり、ハルの手はやはり荒れているということか――そう考えて、ヒサメは押し黙る。そんな彼の様子を見て、コマは微笑まし気に目を細めた。


「ハルちゃんの手が気になるのなら、実際に見に行ってはどうですか?今なら台所で御夕飯の準備をしていると思いますよ」

「……分かった」


 ヒサメはコマにうながされ、今度は台所に足を向けた。



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