第86話 感謝(参)
――どうしてヒサメがここに?というか、仕事は?
今日、ヒサメは検非違使庁で仕事のはずだ。
それがどうしてこんな所にいるのだろう。もしかしなくても、サボリ……?
びっくりしている私をよそに、綺麗な笑顔を貼り付けて、ヒサメは私の隣にやって来た。
「うちの……ということは、あなたがハルさんの勤め先の御主人で?」
「ええ。その通りです。私は
「なんと。あなたがあの有名な四条のお祓い屋でしたか」
そう言えば、私の雇用主が四条氷雨ということを栄吉さんには話していなかったっけ――と、私は思い出す。
どうやら栄吉さんもヒサメの名は知っているようで、彼が私の雇い主だと知り少し驚いていた。
「自己紹介が遅れました。僕は料亭卯庵の栄吉と申します。ハルさんとはちょっとしたご縁がありまして、仲良くさせていただいています」
「そうですか。うちのハルがご迷惑をおかけしていませんか?」
「迷惑なんてとんでもない。それどころか、ハルさんには店のことで助けていただきました。聡明で、まだ若いのにしっかりしていて。すぐにでも
「なるほど」
ヒサメが
「なんでしょう?」
「ハルさんのこと、もう少し大切にしてあげてはくれませんか?」
「……というと?」
「ハルさんに
部外者から仕事のことに口を出され、ヒサメは気分を害するかと思ったが、彼は特にそうした素振りを見せなかった。ただ、「……普通、ね」と呟く。
「ハルさんの髪が短くなってしまったのも、
「なるほど。あなたはハルについてよくご存じらしい。彼女のことを心から心配している…優しい人のようだ。しかし、どうしてそこまでハルを気に掛けるのですか?」
ヒサメの問いに、栄吉さんは即答した。
「あなたは知らないかもしれませんが、ハルさんは可哀想な身の上なんです。これからは幸せになって欲しいと、願うのは当然でしょう」
――ああ、なるほど。
栄吉さんの答えを聞いて、私はスンと胸が冷えるのを感じた。
彼は言った。私が可哀想だと。
ソレを聞いて、妙に腑に落ちる心地がした。
前々から、栄吉さんは不義理を果たした嫁の妹に対して親切すぎると、私は不思議だったのだ。その謎が解けた気分だ。
別に腹が立ったわけでも、ショックだったわけでもない。栄吉さんが親切な善い人ということも変わらない。
ただ、私は自分を可哀想とは思っていないため、少し残念だっただけである。
私は栄吉さんに言った。
「お気遣いいただいて、ありがとうございます。でも、私は今のままで不満はありませんので」
私の言葉に、栄吉さんは複雑そうな顔をした。彼は「でも…っ」とまだ何か口にしようとする。それをヒサメが片手で制した。
「本人がこう言っていますので」
相変わらず、ヒサメは微笑みを浮かべているが、気のせいか……相手に有無を言わせないような威圧感があった。
――というか、機嫌が悪い?やっぱり、仕事について口出しされたのが嫌だったのかな?
「それでは……ハル、帰るぞ」
ヒサメは身を翻すと、そのまま来た道を戻って行った。
私はヒサメと栄吉さんを交互に見る。ヒサメは私の雇用主なわけだし、ここは彼に付いていくのが妥当だろう。
「それじゃあ、私も。軟膏、ありがとうございました」
私は栄吉さんにお辞儀をして、ヒサメの後を追った。
*
コンの言っていた『ハルが他に頼るところ』とやらを見てきた。
――そう
「どんなヤツだったんですか?」
「いけ好かない優男だ」
フンと、ヒサメは鼻を鳴らす。
「へぇ。ハルちゃん、やるやん。ほら、ハルちゃんを大事にせんとその男の所に逃げられますよ」
「ハルは今のままで不満はないと言っていたぞ」
「いやぁ、今はよくても不満は段々と溜まってくるもんやし。女の人って我慢して我慢して、いきなり不満の爆発する人が多いから。ハルちゃんも我慢の限界がいつか来るかも」
「もし、何か不満に思っても、コンがいる限り、アイツはここを出て行かないだろう」
「じゃあ、アレや。コンくん連れて逃亡するかも」
今、四条の屋敷の居間にいるのは、ヒサメと千景の二人だけだ。夕飯にはまだ早い時間帯だったので、ハルが出してくれた煮物を肴に、二人は酒をちびちびと飲んでいた。
ヒサメと取り留めのない話をしながら、はぁと千景は溜息を吐く。
「ヒサメさんって、人の気持ちに対して無頓着なところがあるからなぁ…自分では思いもよらんところで、反感買っているかもしれませんよ?」
「……そんなことはないと思うが?」
「他人の悪意には鋭いですけれどね。逆に、相手からの思いやりには疎いでしょう。利害関係のない人間は、そもそも興味すら持たんし」
「……」
図星だったのか、ヒサメは居心地悪そうに押し黙った。
そんなヒサメに千景は続ける。
「このハルちゃんが持ってきてくれた
「お前、よくそんなこと知ってるなぁ」
「まぁ、俺も自炊しますから。それで、俺が言いたいのはですね。そうやって、手間暇かけて料理を作ってくれた人や、その人からの思いやりを少しは想像してみたらどうですか、ってことです」
「……」
未だ納得いっていない様子のヒサメ。それを見て、もう一つ溜息を吐きつつ、
「とりあえず、もっと自分の周りの人を気にするようにしてみたらどうです?」
――と、千景は締めくくった。
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