第85話 感謝(弐)

「他に頼る所だと?」


 怪訝そうな顔でヒサメが尋ねると、「そだよ」とコンはあっさり頷いた。


「どこだ。それは?」

「りょうり屋さん。その店の男の人が言ってた。今のしごとがイヤになったら、いつでもうちにおいで――って」

「ちょっと待て。その男はハルとどういう関係なんだ?」

「えっと、ハルのお姉さんの…元の旦那さん……だっけ?」

「……はぁ?」


 ヒサメはますます難しい顔をする。

 彼としては、ハルに姉がいたことも、その姉が大和宮に嫁いでいたことも初めて知った次第だ。

 そして、ということは、ハルの姉とはすでに離縁しているという意味だろうか。すでに縁が切れた義妹のハルに、その男がどうして優しくするんだ……と、ヒサメの頭の中は疑問でいっぱいになった。


「コン。その件について、お前が知っていることを話せ」

「うん?」


 コンは不思議そうに小首をかしげていたが、ヒサメに請われるがまま、ハルの異母姉の元旦那――栄吉について話し始めた。

 ハルには、栄吉や彼女の実家に関することを口止めされていなかったこともあり、何の躊躇ためらいもなく、コンは己の知っていたことを素直に口にする。


 ハルの姉桜子は、母親が違う異母姉であること。

 見合いの席で栄吉とその両親は、桜子ではなくこまめに働くハルを気に入ったこと。

 そのせいで、ハルは継母と桜子にハメられ、神白子の山神の生贄にされたこと。

 父親と祖父母がソレを黙認したこと。

 大和宮でハルは栄吉と再会し、桜子のせいで傾いた家業を直す手助けをしたこと。


――そんなことをとりとめもなく、コンは喋った。



 一部始終を聞いた後、その場にいた一同は唖然としていた。


「そんなん、殺人未遂やん……」


 まず、絞り出すような声で千景がそう呟く。


「継子が憎いからって、そこまでするか?それに血のつながった父親や祖父母まで、見て見ぬふりをした?そんなん、人の所業やないわ」


 信じられないというように、かぶりを振る千景。

 一方で、「なるほどな」とヒサメは呟いた。


「名主であり、違法と知っているにも関わらず、生贄の件を検非違使庁に伝えなかったのはそのせいか。検非違使庁の調査が入り、生贄を知らせる白羽の矢が自作自演だと明らかになるのを恐れたんだな。実の娘を見捨てて、家の体面を守ったわけだ」


 吐き捨てるように言うヒサメの顔には、嘲りの笑みが浮かんでいる。


「家族からそんな酷い仕打ちを受けていたなんて……。そりゃあ、西園寺徳子に悪口を叩かれても、堪えず受け流すはずやわ。もっと、酷い目におうてきてんもん」


 千景の脳裏に、徳子に嫌がらせをされても平然としていたハルの姿がよぎった。それまで経験してきた修羅場からすれば、ハルにとってそれは取るに足りないものだったのだろう。それが容易に想像でき、同時にそんな彼女の境遇に千景は心を痛めた。


「そんな辛い身の上があったなんて……。俺、全然気付かんかった。ハルちゃんは、どうして打ち明けてくれんかったんやろう…?」


 千景はハルに対して、弱音や自らの葛藤を口にしていた。それに対して、ハルはいつも千景が前に進めるような助言をしていてくれたのだ。

 だからそのお返しとして、己も彼女の辛かったことを聞き、少しでもその気休めになりたかった――そう考える千景である。


 フンと、ヒサメが鼻を鳴らした。


「そんなの、憐れまれたくなかったからだろう」


 ヒサメのその言葉には、妙に実感が込められていた。



 買い物途中、ちょうど近くを通りかかったので、私は卯庵うあんの様子を覗いてみた。


 時刻は昼下がりで、ランチタイムは過ぎている。だからか、店内にお客さんがいそうな気配はあまりしなかったが、店の扉には『本日のうな重弁当完売』の貼り紙が

あった。


 今も卯庵は盛況のようだ。

 ホッとして、私がそのまま店を離れようとする。そのとき、後ろから声が掛かった。


「ハルさん…だよね?」


 振り返ると、ちょうど店から若旦那の栄吉えいきちさんが出てきたところだった。彼は私を見て、顔をほころばせる。


「やっぱり。店の窓から、ハルさんに似た人が見えたから」

「お久しぶりです」

「今日は、卯庵うちに何か用があったの?」

「いえ。ただ、お店の様子が少し気になったものですから」


 私がそう言うと、栄吉さんはますます相好を崩した。


卯庵うちのことを気に掛けてくれたんだ。ありがとう。おかげで、うな重弁当は連日完売だよ。評判を聞いた常連さんたちも戻って来てくれて、今では以前よりもお客様が増えたくらいだ」

「それは良かったです」

「全部、ハルさんのおかげだ」

「そんなことはありません」


 謙遜でも何でもなく、私は首を横に振った。うな重弁当の成功だって、卯庵ここのウナギが元々美味しかったから成し得たことである。私はきっかけを与えたに過ぎない。


「そう言えば、ハルさん。髪が伸びたんだね。良かった」


 栄吉さんが目を細めて言う。彼の言う通り、ほっかむりで頭を隠さなくてよくなるくらいには、髪は伸びていた。


――小鈴ちゃんから貰った椿油。あれで手入れをするようになってから、急に髪が伸びるのが早くなった気がするんだよなぁ。


 もしかしたら、アレは特別な椿油だったのかもしれない、と私は思う。以前よりも髪の艶も良くなったし、小鈴ちゃんには感謝感謝だ。


 そんなことを考えていると、「良かった、良かった」と言いながら栄吉さんが私の頭を撫でた。そう言えば、彼は私の髪のことや奉公先のことを心配してくれていた、と思い出す。


 相変わらず善い人だ……そう思いつつ、撫でる時間が何だか長い。さすがに戸惑って、私は栄吉さんを見上げた。


「あの…」

「あっ、ごめんね。つい……」


 栄吉さんはバツが悪そうに笑い、それから急に思いついたようにこう言った。


「そうだ!君に渡したいものがあったんだ。ちょっと待ってくれるかな?」

「?……はい」


 私が頷くと、栄吉さんは一度店の中へ戻って行く。それからしばらくして、彼は何かを手にして、こちらに再びやって来た。

 栄吉さんが持っていたのは、二枚貝だった。彼はそれを私に差し出す。


「これ、もし良かったら……」

「開けてみても宜しいですか?」

「もちろん」


 二枚貝をパカリと開けてみると、その下の貝の部分にクリーム状の何かが詰まっていた。


「これは…?」

「手荒れに効く軟膏なんだ。母や、うちの女中たちがよく使っているよ」


 それを聞いて、「ほぉ」と私は感心した。


 冬のこの季節、乾燥のせいでどうしても手が荒れてしまう。私の手も然りだ。手の皮膚はガサガサして赤くなっていた。

 これがさらに悪化すると、細菌感染するから厄介だ。特に、私は台所を預かる身。傷のある手で料理をすれば、食中毒を引き起こしかねない。

 実は、手のケアについて最近悩んでいたため、栄吉さんの申し出は非常にありがたかった。


「ありがとうございます!」


 本当に、栄吉さんは善い人だ。その人柄もそうだが、周囲を良く見ている。

ただ、同時に、少々栄吉さんはような気もした。


――私は不義理を働いた桜子の異母妹なのに。どうして、ここまで親切にしてくれるのだろう?


そう私が不思議に思っていると、不意に声がした。



のハルのお知り合いでしょうか?」



 ……え?


 ハッとして、私は背後を振り返る。

 すると、ヒサメがこちらへ近づいて来るのが視界に入った。



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